メモ:純粋理性批判(4)
近代哲学の最高峰(笑)
自由と道徳を基礎づける
本当の自由とは
実践理性
最高の生き方
腹が減ったから食う 因果律に束縛された状態
道徳的に生きる
○自分の成長につながるか
○他人の幸福とは何か
無批判に受け入れることは道徳的ではない
不道徳な行動をしないことを自由として受け入れることもできた
人間が知覚できない叡智界(出た!
絶対に認識出来ない
犯罪者は現象界に属する行動原理に則っている
行為の主体は叡智界に属している
認識出来ないが自由はある(? 何言ってんだ?
罪が問えない →罪に問うために叡智界をでっちあげるのか?
人間は二重性を
感性と理性
動物と同じで因果律に従っている
道徳法則
普遍的立法の妥当する
究極の道徳
皆に採用されるかどうか →多数決じゃねぇか
対等であることに尊厳がある
汝の意思の採用する各律(ルール)が常に同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行動せよ
他人の幸福を基準とする
ニーチェはカントを批判しているが「そんなに対立させなくても良いのかな(西研)」 →雑であやふやな解釈を西研は平気でする
→
なぜ「他人の幸福を自らの行動基準とするのか」をカントは論じていない
倫理に適う行動選択というものが認識不能な「叡智界」では話にならない
ヒトが倫理的行動選択を行うには 自らの主体的意思として社会安全性を求むることによって発揮されるのであって 実証不能で論理的根拠のない「叡智界」の問題ではない
ヒトである以上は客観的に自己の行動を検証することは可能である
可能ではあるのだが たとえば幼児期から虐待を受けて育った人が自分の子供にも虐待を連鎖してしまったり 利己的行動で他人に迷惑をかけてしまいがちな傾向は確実にある
罪を問うために叡智界が必要というのであれば これは罰を事後正当化するために叡智界をでっちあげているに過ぎない
本当に社会安全性を高めるためには刑罰ではなく治療が必要であり 叡智界などという実証不能で論理的根拠のないファンタジーこそが むしろ社会安全性を損なう原因なのである
カントは「自分は道徳的な行動を採ることができる自由な存在で それは知覚不可能な謎の「叡智」なる特殊能力によってもたらされている」という妄想に勝手に酔いしれているに過ぎず むしろ「ヒトという種の生物の先天的行動習性」としての因果律に則ったものである
ニーチェが何を言ったのかなど どうでもよろしい アイツは根拠のない身勝手な決めつけの羅列しかしてないからな 西研はニーチェにも価値があるかのように述べているが これは西研自身が何も論理客観的に検証していないバカだからである
「そんなに対立させなくても良いのかな」などというあやふやな判断しかしていないのは 内容を全く論理客観的に理解していないからである
重要なのは 「なぜ道徳的な行動が採れなくなる人が出てくるのか?」についての論理客観的原因の究明であり それは主体性や自主性の欠如に起因する自律の喪失である
「汝の意思の採用する各律(ルール)が常に同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行動せよ」
法手続きに普遍性などない 多くの市民が知らぬ肥料取締法違反で書類送検されても警察の社会的存在意義が損なわれるのと同様 法手続きや戒律といった「これさえ守っときゃ全ては解決する」という規律に普遍性などないのである
例えばである 鉄道線路軌道敷内に3歳児が迷い込んでしまっているとして 軌道敷内に侵入することが違法だとするのであれば 果たして3歳児を救うことが
「悪いこと」だと言えるであろうか
法手続きは手続きであって 機械的に決定されるものに過ぎず そこに「人間としての倫理的判断」が伴わなければ必ずしも「自律的な社会的責任判断選択」は成立しないのである
「皆に採用されるかどうか」というのは多数決に過ぎず 多数がバカならバカ主義にしかならない民主主義制度という「手続き」に意味があるわけではない
かつてのドイツではナチズムが民主的に採用されたのであって 何も考えていないバカの多数決に意味があるわけではない
多数という環境に左右される形で選択していて 自律もヘッタクレもあったものではない
多数の人が刑罰を求めているからといって それが社会安全性にとって有害であることを理解するのは理性であって「叡智」だの「悟性」だのといったファンタジーではない
「犯罪者間における罰の公平性」などと称して 犯罪者以外には何のメリットもない屁理屈に基づき 「女子中学生を強姦することは強盗殺人よりも罪が軽い」と見なして懲役何年だかの判決を下すだけで解決だとみなし しかも更生しておらず再犯しても犯罪者本人以外に責任の所在がない無責任な制度というのは社会安全性にとって有害でしかないのである
他人の幸福への配慮が働くには 自己が主体的に存在することへの幸福を持つことが大前提であり 自己を犠牲にしてまで社会安全性を基準にした選択を行うためには「自己の生存価」に依らない存在としての尊厳が必要なのである
ところが幼児期に虐待を受けて育った人は自己尊厳というものを持つことが出来ないために虐待を連鎖したり他人への配慮が欠落してしまうのである
評価承認欲求というものは 親や大人から評価承認されないと自己の生存が脅かされるという恐怖心が根底にあり 物理的な虐待を伴わずとも精神的虐待によって醸成されてしまうものなのである
しかも ヒトという種の生物には先天的に統率協調行動バイアスが存在しているため 順位序列への異常執着が無意識に行動として現れてしまい 結果的に公平性や平等が損なわれ 家庭内ヒエラルキーにまで発展してしまうことによって 子供に評価承認への異常執着性を植え付けてしまうことになるのである
カントは自分という存在が先天的に常に正しい選択しかしない完璧な存在であるかのような全能感に酔いしれることで 実証不能の「叡智」の働きによって常に道徳的で正しい行動しか選択しない優秀な存在だと勝手な妄想に酔いしれているだけであって 純粋理性批判というのはカントの勝手なファンタジー以上の意味は存在しないのである
そんなものを「近代哲学の最高峰」などと思いこんでいる哲学者達は頭がおかしい
なぜ「自己の成長」だの「他人の幸福」を基準にしなければならないのか
なぜ目先の欲望の程度や強度で行動することが「悪いこと」なのか
「悪い」と知っていながら目先の先天的欲求に逆らえないことは自由ではない ここまでは良いのだが ではなぜ目先の欲望に逆らえないヒトがいるのか そのメカニズム構造についてはカントは何も言及しておらず 「自分が道徳的なのは叡智界に属しているからだ」などというファンタジーで勝手に自己満足して気分的に「納得」しているだけであり 極めて身勝手な決めつけを結論としている
叡智界などという実証不能且つ「絶対に知覚不可能」な感覚がヒトに常に働くのであれば なぜホロコーストが起きるのか 犯罪がなくならないのか 一切説明していないのである
他人が次々と死んでゆく社会の中では 自己の存在の意義も失われるのである
他人の安全性に配慮しないということは 同時に他人からも自己の安全性は配慮されない社会ということになる
そんな社会の中では自己が存続(生存)する価値が存在しないからこそ 他人への配慮も働くのであり
こうした「考え」というのは謎の「叡智」の働きなどではなく あくまで理性である
「自分には叡智が働いているから常に正しい判断が出来るのだわ」なんて妄想しときゃ満足だろうよ
その勝手な自己満足もまた「因果律」だということを認識理解していないのは 理性というものの本質を理解していないからである
理解するのは理性である
謎の「叡智」ではない
Ende;