いやだから「密猟から逃れるため」に自分の遺伝子を書き換えたわけじゃないだろ
「淘汰による収斂」だっつってんだろ
もう世界中の生物学者がバカばっかでどうにもならんわ
Ende;
いやだから「密猟から逃れるため」に自分の遺伝子を書き換えたわけじゃないだろ
「淘汰による収斂」だっつってんだろ
もう世界中の生物学者がバカばっかでどうにもならんわ
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若年女性の自殺が増えているという
具体的な動機はわからないが 自殺するほどの「職場での人間関係」となればイジメや差別排除が原因であろう
学校に限らずイジメや差別はヒトという種の生物に普遍的みられる習性であり 先天的な傾向性でもある
学校や職場でイジメ差別があるなら それは被害者の責任ではないので 安易に主観的抑鬱から自殺を選ぶのはやめていただきたい
社会に構造的問題があるなら これは個人ではどうにもならないので 生活保護などのセーフティーネットを積極的に利用すべきであり むしろ社会の構造的問題を解消するための対策に協力すべきである
自殺する程苦しいのであれば 他の人が同じ様な苦しみに陥らないための対策を考えるべきであり 自殺しても誰の得にもならない
主観的抑鬱という感覚を 自分の本質的目的意識と錯覚すべきではなく 論理客観的に「逃げて」も構わないのである
「逃げることは恥」だと「感じる」かも知れないが それもまた主観的印象であって 客観的には意識でも目的でも合理的根拠にもならない
別に「強い」ヒトになる必要性はなく 気持ち的に「弱い」ことは繊細さにもつながる個性の範疇であり 自分よりも更に繊細な人を助けるための行動を選択すべきである
どうにも逃げ道がないなら犠牲も致し方ないが 日本国内でそんなことに陥ることは滅多にあるものではない 明らかに自分の主観的感覚を意識の本質だと錯覚しているはずである
ナチス政権下でもないのに ベンヤミンのように自決する必要性も合理性もない
安易な自殺は社会を崩壊させる無責任な選択であり 自殺してしまえば本人は苦しみから逃げられるだろうが 社会的欠陥は改善しないのである
そこに尊厳は存在しない
「勉強しても覚えられない」などという悩みを持つ人も多いが それは最初から主体的な関心や興味がないからである
主体的に問題(目的)意識を持って勉強しないから 読んだ内容に間違いがあっても気づくことなく鵜呑みにし しかも記憶にすら残らない
世の中の様々な論説の中から 論理客観的根拠に基づいて「本当のこと」が何なのか どれが嘘や間違いなのかを識別するためには主体的な目的意識が必要である
死ぬほど苦しいことがあるのならば その原因究明と それに伴う再発防止を考えるべきであって
自殺志願者の主観的気分感情に寄り添ってご機嫌取りをするだけの「対策」しかしていないからセーフティーネットも充分に機能しないのである
学校ではイジメがあろうとなかろうと 学級に馴染むことだけを「社会性」とか「協調性」と称して正当化したがるが 別に多数に馴染むことだけが人間性の論証になるわけではない
ベンヤミンが自決を余儀なくされたのも 言わばナチス政権という多数派には馴染めなかったからである
そこに何の問題がある
何を恥じることがある
無理矢理学校に通わせて イジメを傍観放置して 自分だけがイジメられないようにコソコソと卑屈に生き延びることに「人間性」も「社会性」も「協調性」も存在しないのである
堂々と多数体制を批判する意志を持つべきである
多数派に同調迎合しても人間性の論証にはならない 多数でありさえすれば人間としての論理客観的合理性(真理)が伴うわけではないからだ
自殺者が「多い」のであれば むしろ孤独ではない
イジメる側 差別する側のクラスターの主張ばかりが蔓延し 被害者側がクラスターを作らないのはおかしな話である
たとえ世間的に成功していても「苦しい」と感じてしまって自殺につながることもある
ましてや生活に困窮していれば 何も恥じることなく堂々と被害を訴える権利がある
気分的に優越している加害者側の主張ばかりがSNS上で幅を効かせているのは 明らかにおかしい 偏りすぎである
誰も読まない説明をいくらしても 気分的優越感は得られない
私は個人的な気分的優越のために書いているのではなく 論理客観的合理性に基づく「目的」のために書いているのである
そこに抑鬱感や絶望などの主観は意味を為さない
どうせいつか必ず皆死ぬのであって 最終的には「勝者」などいない
「嘘つき」か「正直者」のどちらの側につくかが人間性である
それには命を賭けるだけの価値はある
Ende;
チャールズ:ダーウィンの従兄弟のフランシス:ゴルトンは優生学を提唱した
「遺伝的進化には目的だの戦略が存在していて 最終的なゴール(目的)に向かって進歩しなければならない」という実証不能の観念に基づき ヒトもまたヒトを超越した何者かに進化する必要があるという勝手な決めつけに基づいた主張である
実際にはダーウィンの進化の説明にあるように 生物やその遺伝的進化というものはシーケンシャルの生ずる自然現象であって 特定環境に適応しただけであって 目的があるわけではない
生態系のピラミッドによる恒常性においても 結局は環境適応できなかった生態系の全てが淘汰され 偶発的に適応できた生態系への収斂(置き換わり)の結果でしかなく 目的があるわけではない
「生存戦略」或いは「適応戦略」という言葉が進化生物学では多様されるが 結果的な生存に対して遺伝的形質や習性が適応しているのは 適応していない個体種の全てが死滅した結果に過ぎず 目的に基づいて合理的に「選択した」のではなく 結果的に「選択された」に過ぎない
主体的に選択不可能な事柄に対して「Strategy(作戦・戦略)」という形容詞を用いるのは論理的におかしい
大手町の医師は「ウイルスが困るから 適応した変異がどんどん起こる」などと言い出し
田島木綿子(たじまゆうこ)は「生物は、自分の置かれた環境が変わると、その環境に適応するために、体の構造や機能などを大きく変化させる能力を発揮し、生き残ろうとする。これが成功すると、進化と呼ばれる。」などと述べている
「環境が変わった時だけ 環境に適応するために体の構造や機能などを大きく変化させる能力」などという あたかも主体的に変異を促進できるかのような 科学的には何の根拠もないオカルト観念を提唱しているのであり 生物学者の大半がこうした誤謬を鵜呑みにしているのである
その意味においては大手町の医師が間違った認識を持ってしまっているのも致し方ないことだとも言えるのである
医師は進化生物学の専門研究者ではないからだ
だが 感染症の専門でもないのに「ウイルス弱毒化は期待して良い」などと勝手に決めつけて良いわけではない
日医大の客員教授(感染症の専門家)であれば尚更である
ヒトは 自ら文明社会を作り出し 自分達の生息環境を大きく変えたが 体の構造や機能や本能習性が「大きく変化させる能力」が発揮された形跡は一切なく むしろここ数万年はほとんど進化(変異)していないのである
一般に遺伝的進化というものは 常に都合良く最適に変異が生じて 大抵の場合は進化に「成功」するものだと勘違いされているフシがあるが
実際の遺伝的進化というのはランダムな変異だけでも先天性疾患などの「失敗」が生じ 環境の大きな変化に適応して「成功」した個体以外は全てが淘汰対象であり 膨大な死滅なくして「進歩(Evolution)」は起こらない
Y染色体の崩壊によって このままだとヒトは数万年後には繁殖能力を喪失することになる
進化という自然現象にまかせておけば ヒトという種の生物には種としての寿命が存在し終焉を迎えることが定められている上 そもそも数万年もの経過を経る前にヒトは地球環境を破壊して絶滅する可能性の方が高い
「ヒトはいままで実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかけてきた」という既成事実をどんなに大量に陳列枚挙しても これが「ヒトの目的」であることの論証にもならないし これからも永遠に続けなければならない根拠にも 絶対に永遠に続くことの論証にもならない
ヒトはゲノム編集などの技術を進歩させ 将来的にはY染色体の崩壊を食い止め 種を存続させられる可能性も充分にある
その前にも遺伝子変異に起因する先天性の疾患なども克服できる可能性も現実になりつつある
「ヒトが実証不能の観念を振り回す」のは ヒトの先天的本能習性には人間としての認知上の欠陥(頭の悪さ)が存在するからである
経済先進国における社会においても安全性や公平性の社会制度的欠陥は存在するが それは数百年前から比べればはるかに改善されてはいるものであり 私が学術権威を批判しても「火炙り」などの物理暴力的抹殺はされることがないだけ充分に「運が良い」のである
本論のように個人であっても世界中のどこにいても日本語だけでも読めるようになった現代は 決して「ガチャにハズレた」とは言い切れない
現実には「誰も耳を貸さない」としても である
英語で書かないと海外の研究者には認知されないという枷(制限)はあるが それもそのうち解消されるかも知れない
フランシス:ゴルトンの優生学や フリードリヒ:ニーチェによる基準のあやふやな「迷言」で主観的に満足し 思考停止に陥って非合理な行動を採ることを「自由」意志だと錯覚することは簡単である
主観の中には錯覚が混入するものである
客観的事実(真理・本当のこと)というものは 感覚器からの入力に対して論理客観的な根拠や証拠に基づき 主観的感覚が促す錯覚を排除した後に残った知見から導き出されるものである
「事実などない あるのは解釈だけ」などという荒唐無稽なデマを鵜呑みにしておいた方が精神的怠惰に陥り気分的満足感が得られ 虚無主義に陥って考えることを放棄できて 何かを「悟った」かのような快楽を得ることも可能であろう
「嘘やデマを信じ込んで満足安心する」というヒトの習性は 先天的なものであって ヒト全般に普遍的にみられる認知上の欠陥である
主観的に安心満足できれば ヒトは600万のユダヤ人を殺害することも簡単にできるようになる
そしてそれは決して「珍しいこと」ではなく スタンレー:ミルグラムの服従心理実験の実証を見るまでもなく 歴史上何度も繰り返し 今でもミャンマーや香港では動態保存されているのである
国境なき医師団が どんなに努力辛抱根性で「頑張って」も ヒトの根源的な認知上の欠陥についての知見が周知されないことには 貧困も紛争も虐殺も根本的には解決しない
ヒトの多くは 努力辛抱根性的精神論で何かをやれば 何でも解決できるものだと勘違いしているフシがあり 漫画だの鳥人間コンテストでは「怒鳴り散らせば謎の能力が発揮されるものだ」と錯覚している人は多い
香港民主化運動においても 暴力破壊で対抗してしまう若者は多く見られたし 日本国内でのヘイトスピーチに対して「カウンター」に入って「怒鳴り散らし返す」事例も多い
ヒトという種の生物は どうしても物理暴力破壊的実行が何かの解決になるものだという錯覚を持っているために あまり合理性のない行動ばかりに執着してしまう傾向がある
実行する理念が正しくても 行動が合理的ではなければ 結果もまた合理的ではない
理不尽な暴力者を多数で殴っておけば その場限りにおとなしくさせることはできるだろうが 根本的解決にはならない これは合法的刑罰でも同じである
強盗殺人犯を25年間刑務所に入れておいても 出所後数日で殺人を犯す事例も時折あり 罰というのは社会安全の観点からは有効性や合理性が著しく欠けているのである
目先の対策だけしか興味がないというのは チンパンジーの行動に典型的に見られるものである
チンパンジーは眼の前の効用(利益)にしか興味がない
一見利他的に見える行動を採ったとしても 自分には利益にならないと知った時点で利他行動をやめてしまうのである
だが 「人間」なら目先の利益がなくても利他的行動を採ることができるのである これは論理客観的な考えに基づいた合理的選択であり 「情けは他人の為ならず」とは そういう意味である
他人からの評価や報酬が得られないとしても 社会安全性や公平性にとって必要な「自律的な社会的責任判断選択」を行う これが人間性の本質である
人間性というのは個人的趣味趣向が大衆ウケするような多数の共感で決定されるものではない
自身の欲望を制御コントロールできて 実効性ある合理的な行動選択ができることで発揮されるものであって 別にコールオブデューティーやフォートナイトのような殺戮ゲームを楽しんでいたとしても人間性の反証にはならない
それは幼女性愛においても同じであり ポリスチレン製の少女の人形に萌へたからといって人間性の反証にはならない それがどんなに多数から忌み嫌われようとも である
「かわいい」とか「カッコイイ」という主観的好き嫌いは 自分では選択不可能なものであるが 主観的な好き嫌いを人生や社会の中でどう楽しむのかを選択できれば他人に迷惑をかけずに個人的に楽しむだけなら人畜無害なのである
自分の主観的印象や感動や好き嫌いというものを 自己客観的にコントロールできてこその本当の「自由意志」なのであって 先天的本能習性に流されるだけなら自由でも何でもないのである
先天的本能習性に無為に流され非合理な行動を採るバカなら 世の中いくらでもいるのである それはとても簡単なことだからだ
簡単なこととは 要するに目先の効用しか見ようとしない盲目性を発揮しているからであり 社会や世界の全体像を見ようとしていないからである
その状態を「意識がない」と言うのである
Ende;
descent:降下 下山
modification:変化 変形 改良
進化論というとチャールズ・ダーウィン(1809~1882)が有名だが、生物が進化するという考えはダーウィン以前からあった。古くは古代ギリシャまで遡れるが、ここではダーウィンが生きていた19世紀の状況を見てみよう。
ダーウィンの『種の起源』が出版されたのは1859年だが、それより15年前の1844年に、イギリスのジャーナリストであるロバート・チェンバーズ(1802~1871)が『創造の自然史の痕跡』を出版した。この本の中で進化論が論じられている。
その進化論は、生物だけでなく、宇宙や社会などすべてのものが進歩していくというものだった。そのような進化を、チェンバーズは「発達(development)」という言葉で表した。
また、イギリスの社会学者であるハーバート・スペンサー(1820~1903)も『種の起源』が出版される前から進化論を主張していた。
スペンサーもチェンバーズと同様に、生物だけでなく宇宙や社会などすべてのものが進化していくと考えていた。
ちなみに、現在「進化」のことを英語で「エボリューション(evolution)」というが、これはスペンサーが広めた言葉である。進化の意味で「エボリューション」を使ったのはスペンサーが初めてではないが、人気のあった彼が使ったことで、この語は広く普及したのである。
このようにダーウィンと同時代の進化論者たち(チェンバーズはダーウィンより7歳年上で、スペンサーは11歳年下)は、進化を進歩とみなしていた。こういう考えの根底には、「存在の偉大な連鎖」と共通する「生物の中でヒトが最上位」という考えがあったのだろう。
一方、ダーウィンは、進化を意味する言葉として「世代を超えて伝わる変化」(descent with modification)をよく使っていた。この言葉には進歩という意味はない。しかし、この言葉は広まらなかった。広まったのは「エボリューション」の方だ。
つまり、19世紀のイギリスで広く普及したのは、ダーウィンの進化論ではなくて、スペンサーの進化論だった。
そして残念ながら、その状況は21世紀の日本でも変わらないようだ。名前としてはスペンサーよりもダーウィンの方が有名だけれど、進化論の中身としてはスペンサーの進化論が広まっているのである。
でも、スペンサーの進化論は、本当に間違いなのだろうか。進化には進歩という側面だってあるのではないだろうか。
生物が進化すると考えた人はダーウィン以前にもたくさんいた。でも、チェンバーズもスペンサーも、みんな進化は進歩だと思っていた。進化が進歩ではないことを、きちんと示したのは、ダーウィンが初めてなのだ。それではダーウィンは、なぜ進化は進歩でないと気づいたのだろう。
進化は進歩ではないとダーウィンが気づいた理由は、生物が自然選択によって進化することを発見したからだ。ここで間違えやすいことは、自然選択を発見したのはダーウィンではないということだ。ダーウィンが発見したのは「自然選択」ではなくて「自然選択によって生物が進化すること」だ。
自然選択について簡単に説明しておこう。自然選択は2つの段階から成る。
1つ目は、遺伝する変異(遺伝的変異)があることだ。走るのが速い親に、走るのが速い子どもが生まれる傾向があれば、走る速さの違いは遺伝的変異である。一方、トレーニングで鍛えた筋肉は子どもに伝わらないので、それは遺伝的変異ではない。
2つ目は、遺伝的変異によって子どもの数に違いが生じることだ。つまり、走るのが遅い個体より、走るのが速い個体に子どもがたくさんいる場合などだ。ここでいう子どもの数は、単に生まれる子どもの数ではない。
生まれた後にどのくらい生き残るかも、考えに入れなくてはならない。具体的には、親の年齢と子どもの年齢を同じにして数えればよい。
たとえば、親の数を25歳の時点で数えたら、子どもの数も、25歳まで生き残った子どもで数えればよいのだ。
この2つの段階を通れば、子どもの数が多くなる遺伝的変異を持った個体が、自動的に増えていく。考えてみれば、自然選択なんて簡単だ。要するに、走るのが速いシカより、走るのが遅いシカの方が、ヒョウに食べられて減っていくということだ。
そんなこと、誰だって気づくだろう。実際、その通りで、『種の起源』が出版される前から、生物に自然選択が働いていることは常識だった。当時、進化に興味がある人なら、誰だって知っていた。それなのに、どうしてダーウィンが自然選択を発見したように誤解されているのだろうか。
実は、自然選択はおもに2種類に分けられる。安定化選択と方向性選択だ。
安定化選択とは、平均的な変異を持つ個体が、子どもを一番多く残す場合だ。たとえば、背が高過ぎたり、反対に背が低過ぎたりすると、病気になりやすく子どもを多く残せない場合などだ。
この場合は、中ぐらいの背の個体が、子どもを一番多く残すことになる。つまり安定化選択は、生物を変化させないように働くのである。
一方、方向性選択は、極端な変異を持つ個体が、子どもを多く残す場合だ。たとえば、背が高い個体は、ライオンを早く見つけられるので逃げのびる確率が高く、子どもを多く残せる場合などだ。この場合は、背の高い個体が増えていくことになる。
このように方向性選択は、生物を変化させるように働くのである。
ダーウィンが『種の起源』を出版する前から、安定化選択が存在することは広く知られていた。つまり当時は、自然選択は生物を進化させない力だと考えられていたのである。
ところが、ダーウィンはそれに加えて、自然選択には生物を進化させる力もあると考えた。ダーウィンは、方向性選択を発見したのである。
方向性選択が働けば、生物は自動的に、ただ環境に適応するように進化する。たとえば気候が暑くなったり寒くなったりを繰り返すとしよう。その場合、生物は、暑さへの適応と寒さへの適応を、何度でも繰り返すことだろう。生物の進化に目的地はない。
目の前の環境に、自動的に適応するだけなのだ。こういう進化なら明らかに進歩とは無関係なので、進化は進歩でないとダーウィンは気づいたのだろう。
地球には素晴らしい生物があふれている。
小さな細菌から高さ100メートルを超す巨木、豊かな生態系をはぐくむ土壌を作る微生物、大海原を泳ぐクジラ、空を飛ぶ鳥、そして素晴らしい知能を持つ私たち。こんな多様な生物を方向性選択は作り上げることができるのだ。
もしも進化が進歩だったり、世界が「存在の偉大な連鎖」だったりしたら、つまり一直線の流れしかなかったら、これほどみごとな生物多様性は実現していなかっただろう。
私たちが目にしている地球上の生物多様性は、「存在の偉大な連鎖」を超えたものなのだ。
出典:https://diamond.jp/articles/-/223378 -ダイアモンドオンライン
⇨
ロバート:チェンバーズは「発達(development)」と表現し
ハーバート:スペンサーが用いた「エボリューション(evolution)」という表現が広まり
ダーウィンは、進化を意味する言葉として「世代を超えて伝わる変化」(descent with modification)をよく使っていた。この言葉には進歩という意味はない。しかし、この言葉は広まらなかった。広まったのは「エボリューション」の方だ。
「素晴らしい」とか「みごと」だとかいうのは全部主観的印象 個人の感想 形容詞でしかなく 科学的論証ではない
「素晴らしい知能を持つ私たち」だとか言っているが 小田急線や京王線で無差別殺人をしているのは「ヒト」である
酔っぱらい運転で子供を轢き殺し 原発を暴走させて住民を苦しめ自殺においやり 刑罰で満足して実効性のある対策を放棄する これが「ヒト」の実相である 「知的」でもなきゃ「素晴らしく」もないだろ
ミャンマーでの兵隊による民衆弾圧も 子供のイジメも ナチスによる600万の虐殺も 全部「ヒト」がやらかした行為であり これを無視して「素晴らしい」で片付けるのは無責任な日和見である
生物は自然選択によって、周囲の環境に適するようになったものだ。つまり、その環境の中で、なかなか消滅しないようになったものだ。つまり、生き続けるようになったものなのだ。
だから、本来生物は、生きるために生きているのであって、生きる以上の目的はないのだろう。生きるために大切なことはあっても、生きるよりも大切なことはないのだろう。まあ、生きていれば、それだけで立派なものなのだ。
⇨「周囲の環境に適するようになったもの」を「生物」と分類しているだけであって 自然現象の結果に過ぎない「生物」に目的はない
ヒトはヒトにまで進化はしたものの その先天的本能習性もまた結果であって目的はない だからこそ理不尽で非合理な本能習性も存在するのであり 生物学者が個人的主観を科学論証のように説いているからこそ刑法罰という非合理な制度が温存され続けるのである
虐殺があろうと 事故が繰り返されようと ヒトは種としては絶滅はまだしていない 更科が個人的に「生きていれば、それだけで立派なものなのだ。」などと形容しても ヒトが絶滅へ向かって突き進んでいる事実を無視した勝手な大衆迎合にしかなっていない
なんでこう生物学者って 全員ちょっとずつ正しいこと言って ところどころ意味のわからんこと言うの?
なんなん
ふざけてるの?
Ende;
野生動物のオスがメスを巡って争う習性が 結果的に強い遺伝的形質への収斂(置き換わり)進化が環境適応につながったとは言えるが
現代社会環境下ではヒトの男が女性を巡って殴り合いをする合理性はない
合理性がなくても祖先から受け継いでしまった先天的習性はどうにもならない
「欲望そのものを欲することはできない」からである
欲望(先天的習性)はどうにもならないが 先天的習性が促す情動には意味がないことを客観的に自覚すれば 情動によって促される行動に無為に無意識に流されることなく行動を主体的に選択することもできる
主体的に選択可能なものは「目的」意識でもある
逆に選択不可能な欲望や本能や習性は「結果」であって意識でも自由意志でもない
本能習性が選択不可能であるにも関わらず ヒトの意識の大半を占めているという理不尽さ 不条理性はどうにもならない
他人との比較や評価に基づいた順位序列競争による優越感にしか価値を見出すことのできない評価承認欲求中毒者にとっては 人生は死ぬまで理不尽な苦しみのスパイラルから抜け出すことができない
「六道輪廻」 或いは「無間地獄」である
しかし 他人との比較や評価に依らない純粋な主体性に基づく個人的楽しみを持っている者の場合には 物質的な豊かさや権力による優越にも執着がなく 外見的には禁欲的で 且つ他人への迷惑にも配慮できるのである
自分が個人的に楽しめることを続けられるためには 社会が安全で持続可能で公平公正であることが結果的に必要になるからである
「どうせ誰もが自分の利己的利益や権力しか求めないんだから 利己的利益追求や権力を求めることこそが人間の目的だ」というのがフリードリヒ:ニーチェの主張である
欲望を認めず 実証不能の「叡智界」によって促される道徳律をニーチェは「どうかしている」と批判しているが ニーチェの主張も結局はトンチンカンな虚無主義に逃避しているだけである
先天的本能欲望に倫理や人間性や合理性が伴わないとしても それは「人間としての本質的意識」ではないから非合理なのである
純粋に個人的な楽しみを持っていれば他人との優劣にはこだわらないので 物質的豊かさや権力にも興味を持たないし 個人的に楽しめることがあれば欲望を選択する精神的余裕ももたらすのである
他人との比較競争や評価承認ばかりに囚われているからこそ たとえどんなに物質的に豊かになれても どんなに大きな権力を得ても 本質的な自己は満たされることがないので 他人への迷惑に配慮する精神的余裕は全く発揮されず 他人への迷惑に配慮できない自己に対する肯定感も持てずに益々精神的渇望に陥り 渇望のスパイラルから抜け出すことができなくなるのである
自己顕示欲というのはヒト以外でも見られるもので ネコが周囲から目立つ場所を占有したがるのも自己顕示欲によるものである
なぜ目立とうとするのかと言うと 目立とうとしたがる本能習性がある個体の方が繁殖に適したという結果だと考えられる
だが 自己顕示欲が暴走すれば京王線で無差別殺人をやらかす動機としても働くことがある
暴力破壊に対する美的感覚や快楽というものを感じることはある
アメリカ映画でもゲームでも暴力破壊が主体となっているものは数限りなく存在し それは多数大衆から人気を得られるからでもある
遊園地のジェットコースターやお化け屋敷にわざわざ金を支払ってまで恐怖を感じようとするのも 平穏な日常とは異なる興奮を求める性質がヒトには普遍的に存在しているからである
主観的に求める破壊や暴力に対する欲求や快楽というものが意識の本質だと錯覚しているからこそ 暴力破壊を目的だと勘違いしてテロや通り魔といった無差別殺人に暴走することにもなるのである
本能欲望という主観的快楽が 短絡的に自由意志や目的や自分の意識の本質だという勘違い錯覚によって 非合理な暴力破壊が行われるようになるのである
自分が主体的に選択することができない欲望や本能や快楽には自由意志も目的選択も合理性すらも存在しないのである
「オノレはカブトムシと一緒で先天的本能欲望には逆らえないんじゃ」などと言い出すバカも少なくないという
一体何の自慢なんだかわけがわからない
「自分は自分でコントロールできないバカです」って言っているのと一緒なんだけどな
本能や欲望の中には文明社会においても合理的なものも存在する
本能や欲望の強度程度に無意識に流されることなく 主体的に「選択」することによって文明社会に適する合理的な行動選択も可能となるのである
すなはち 本質的な自己の意識 自由意志というものは 主体性の中に存在する「自律」であり
選択不可能な本能欲望だけで発揮されるものではない
理解している人いるのかな
そんなに難しいこと言っているつもりないんだけどな
Ende;