NHKで毎日のように詐欺の手口を紹介しているのに 一向に被害が減らないのは 「騙されるなんてのはよっぽどバカだからであって 自分はそんなにバカじゃないから大丈夫」って思っている人が多いからです
ヒトは誰でも騙される可能性があります
東大医学部に合格していても騙されることはあるのです
東大に限らず リベラルアーツと称してイマヌエル:カントだのフリードリヒ:ニーチェだのを教え込まれても 大学生の誰も疑問も持たずに鵜呑みにしてしまうものなのです
論理客観的根拠がないことも 基準が曖昧であることにも誰も気づくことなく鵜呑みにして満足する
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験(通称「アイヒマン実験」)では 普通一般の人が権威の命令に唯々諾々と服従し 他人に危害を加えてしまうことを実証的に立証しています
ナチスによる600万人もの大虐殺は ドイツ人が特異にキチガイが多かったから起きたわけではなく 日本軍による侵略戦争も カンボジアでのポルポト政権においても ミャンマー政府軍や香港警察による民衆弾圧も 民族国籍に関わらずヒト全般に見られる普遍的習性であることの証左なのです
ヒトなら誰でも盲目になる可能性がある
先天的本能習性というものは 進化の過程で祖先の生息環境から受け継いだ無意識な行動バイアスなので 本能習性によって促される感情もまた自分では選ぶことができません
「欲望そのものを欲することはできない」のです
先天的本能習性は「生存」という結果にとっては必然性はありますが 別に目的があるわけではなく 合理性もありません
一面的に生存にとって必然性がある本能習性であっても その本能習性が促す行動の全てに合理性が伴う保証は何もないのです
無責任に「メスを見つけたら とりあえずポコチン挿れて精液を排泄したい」という情動行動を持っていた方が 遺伝子をより多く遺すことになります
生涯一人のパートナーだけを誠実に愛し 他のメスには目もくれないような精錬潔白なオスの遺伝子はあまり広がらないのです
ということは 無責任にヤリたがるオスの遺伝子の方へと収斂(置き換わり)が起こることになります
これもまた「結果」です
過酷な自然界での生存競争においては とにかくメスを見つけたらヤリまくって繁殖した個体種の遺伝子しか残らなかったという「結果」です
これは ヒトになる以前の祖先の話であって ヒトが文明を築くはるか昔の話です
それでも 長い生物進化史の中ではヒトはごく最近発生した新種であって ヒトにまで進化する以前の期間の方が圧倒的に長かったのであり 野生動物としての本能習性の方が色濃く遺っているのです
ヒトの大脳新皮質は他の生物よりも圧倒的に大きいんですが 情動を司る大脳辺縁系の構造自体にはさしたる違いは見られません
情動自体は他の動物とそんなに違わないのです だからネコやイヌなどの他の動物の気持ちも何となくわかるような気がする
他の人の気持ちも 何となくわかるような気がする
怒っているとか 淋しいとか そういう感情は何となく自分と共通する部分があるからでしょう
何となく気持ちがわかるような「気がする」んですが 本当はわからない だから嘘が成立する 他人を騙すことができるし 騙されることもある
親が子供の気持ちをわからないのも 本当に「わからない」からです
「わかっているような気がする」だけなんですね
子供は親以外の誰かなら「わかってくれるんじゃないか」と期待してしまって 安易にSNS上の誘いに乗っかってしまったりすることもある
赤ん坊の頃から毎日お風呂に入れてあげて ミルクを人肌に温めて ボツリヌス毒が含まれているハチミツを避け 毎日哺乳瓶を殺菌して 喉に詰まらせるような豆類やオモチャや電池やら磁石やらを子供の手の届かない所に片付けて 道路に飛び出さないようにずっと見張って育ててきた親でもわからないものを 見知らぬSNS上の男がわかるわけがないんですけど
「誰かならわかってくれるんじゃないか」って 勝手に期待してSNSの書き込みを安易に信じ込んでしまうことがある
自分の気持ちって 本当は自分にしかわからない
自分が何に熱中できるのかは 自分で探すしかない
何をしていたら楽しいのかは 自分にしかわからないからです
純粋に個人的に熱中できることがあれば 別に誰かにわかってもらう必要性はなくなります
主体的に楽しいと思う自分がいないから 楽しいと思わせてくれる誰か他人に依存しようとしてしまう
自分が何をしていたら精神的に満たされるのかは 他人からはわかりません
誰もわからない
自分の楽しみって自分にしかわからない
実は自分であっても ある程度は実際にやってみないと 本当はわからない
「面白そうだな」と思ってやってみたけど すぐに飽きちゃたりすることもある
「そんなに面白そうには思えなかった」けど 実際やってみたらハマってしまったということもある
他人からの評価に左右されずに 集中して 熱中して 夢中になって 好きなことをやっている時こそが 脳が最も働いている状態で 好きなことなら飽きずに諦めずにできるまでやろうとしますから 試行錯誤による創意工夫も忍耐力も自ずとつくようになります
個人的に好きなことに「諦める」という選択肢はないからです
ところが 他人からの評価に頼っていると 評価が思ったように得られないとすぐに諦め 「できるまところまではやってみる」という忍耐力がつきません
主体的な純粋行為というのは「できるところまではやってみる」んですが 他人からの評価に頼っているとそれ以上の何かまで求めるようになってしまいます
動機が不純だと抑制が効かなくなる
自分の行動抑制まで他人に頼ることになるからです
でも 本当に主体的に純粋に楽しめているなら 歯止めも効く
「これ以上やったら迷惑かかるな」って思ったら やめるという判断もできる
自分の楽しみを続けるためには 自ずから他人への配慮もできるようになる
結果的に自律的な社会的責任判断選択もできるようになる
他人からの評価に頼っている行動というのは 本当には純粋には楽しめていないため どこまでやっても本質的には自分が満たされることがなく 欲望に際限がなくなって暴走することになる
個性とか多様性を認めないヒトというのは 多数派への同調や権威への服従こそが「素直」で人間性だと勘違いしているからで 誰かが作った「規範」に従うことが社会性や倫理だと勘違いしている
だから個性も多様性も認めたがらないし 既存の「規範」に根拠が伴うのかどうかも考えもしない
多数派への同調性や権威への服従性というものは 迎合性や忖度であって 迎合的に忖度することで統率協調的行動が促される先天的本能としての社会形成習性によって促される行動バイアスによる主観的安心感満足感に過ぎず
主観的安心満足を短絡的に論理客観的根拠の伴う安全性か何かと勝手に勘違いして疑うことをしなくなる
自分の主観的な安心満足を絶対的なものだと勝手に勘違いしておいた方が気分的に楽だからです
だから「信じたいことだけを信じようとする」ことになる それだけが意識の全てになってしまって自己客観性が働かなくなる
純粋に個人的楽しみに熱中していれば 自分の主観にどれだけ錯覚が伴うのかを自覚できる
どれだけ自分が「思ったようにできない」のかが自覚できる
どこまでやっても自分に過信が生まれず 「一生修行」だと思っている だから結果的に努力を続ける
ところが他人からの評価に頼っていると 他人から一定の評価が得られた時点で勝手に「俺は他人よりも優秀なんだ」と満足し 今度は他人を貶めることにしか興味がわかなくなる すると 大量の知識をひけらかして自慢が始まったり 他人の無知を嘲笑して優越感に頼ろうとする
他人からの評価に頼るというのは 順位欲とも親和性がありますから 自分よりも「上」と見なした権威には盲目的に服従信頼し 自分よりも「下」と見なした相手の言うことは頭ごなしに否定し無視するようになります
まるでイヌのように卑屈な態度をとっていても 主観的に安心満足なら何とも思わない
その主観的安心満足こそが意識の本質だと勘違いしていて自己客観性がないから 卑屈な態度をとっている自分を省みることをせず ただ権威の言うことを盲目的に信じていることを「謙虚さ」だと勝手に勘違いしている
権威に盲目的に服従することで 判断責任は権威に丸投げして自律判断はしなくなる
誰を権威と見なすかという「常識」は 社会環境や時代に依存しており自分では選択できませんから 天動説の時代には地動説を火炙りにすることも簡単ですし ナチス政権を権威だと見なしてしまえばユダヤ人迫害も簡単にできるようになる
権威に服従していれば安心満足できます
ヒトとはそういう先天的習性があるからです
でも 「欲望そのものを欲することはできない」のであって 安心満足して客観的に論理検証せずに盲目的に権威を信頼したがる性質もまた主体的に選択していない先天的習性でしかない
先天的本能習性のままに行動しておいた方が気分は楽で 安心満足感は得られます
行動選択責任も権威に丸投げできると錯覚できますし 気分的に「都合が良い」わけです
先天的本能習性というものは 安心満足感を得られることで行動を促す仕組みになっているからです
麻薬中毒患者が麻薬を欲しがるのも同じメカニズムです 麻薬をやると安心満足感が得られるからこそ中毒になるのです
ヒトという種の生物は 論理客観的根拠があろうがなかろうが とにかく主観的に安心満足できれば信じたがるものだということです
だから自分の主観的安心満足は自己客観的に疑う必要性がある
ヒトという種の生物である以上 これは誰も避けてはいけない人間としての責務でもあるのです
ヒトは動物です 好むと好まざるに関わらず動物であり 動物的な先天的本能習性によって行動が支配されがちな傾向が存在するわけです
既に存在しているだけの自己の全てが主体的に選択できているわけではありません むしろ既存の自己とはほとんど何も選択していない
自分の遺伝子も選択できませんし 親も社会も時代からも それら生育環境から「学習」した世間の常識や慣習に対する安心感も 自分では選ぶことができないのであって ただ自分でありさえすれば自由意志や合理的目的意識にもならないのです
ヒトは 目先の気分感情によって簡単に「本当の目的」を忘れる習性があります
慣習的な「手段」や「手続き」を「目的」だと勘違いするのも 主観的安心満足が自己客観性を失わせるのが原因です
自分の子供が学校でイジメられるのが嫌で行きたくないと言い出した時に 他の大多数の子供と同じ様に無理矢理学校に送り出すことの方が安心満足感が得られるのかも知れませんが 親としての「本当の目的」とは 子供の幸福が最優先なはずです
客観的に「考え」たら イジメが蔓延している学級に馴染んだところで人間性なんぞ養われるはずもなく むしろ大勢に迎合する同調性ばかりが養われ 怖い相手に忖度して世渡り上手になっても「人間としての社会性」は身につくことはなく 単に「動物的な社会形成習性」に迎合するだけなのです
エスカレーターで歩くことが慣習的に「常識」になってしまうと 追い越すことができないと腹を立てて邪魔だとどかそうとするヒトもいますが 腹を立てて怒り出す「怖い相手」に迎合忖度することが「冷静」だと主張するヒトもいます
社会的に安全性を優先することの合理性よりも 感情的に怒り出す面倒くさい相手に忖度してしまう卑屈さを「冷静」だと主張することにも客観的合理性はありません
怖い相手に迎合忖度することは確かに「冷静」ではあるんでしょうけど 客観的安全性でも理性でもないのに ただ「冷静」なだけで正当化できると勘違いしている
反社会的集団から理不尽な要求をされた時に 「冷静」に迎合忖度して日和見でもしておけばその場限りには個人的には安全だとは言えるでしょうが これを放置しておけば暴力的反社会集団の方が得をすることになります
「暴れ得」「脅し得」という理不尽で非合理で公平性も安全性もないことに迎合し その場限りの安心満足感を「冷静」だと称して正当化することは 社会的に無責任な判断です
それでも ヒトというのは目先の主観的安心満足感の方を優先してしまいがちなものなのです
これを「無意識」だと言っているのです
先天的本能習性は 目先の情動だけで行動選択を促します これは他の動物でも同じことであり 本能習性任せに行動しておいても概ね「生存」にとっては有利な行動にはなりますが これは祖先の生息環境から受け継いだ必然的結果でしかなく 合理性が伴う論理的保証は何もないのです
気分的に安心満足なら合理的に安全性が保証されているわけではないし 合理性のある「本当の目的」に適う保証もない
自分の主観的感覚を「絶対に大丈夫だ」と錯覚し 環境から促される気分感情のままに行動しているからこそ 詐欺やデマや嘘に簡単に騙されることになるのです
主観的感情に流されることなく 自己客観的に論理客観性を働かせ合理性のある行動判断をしないと ヒトは簡単に「本当の目的」を見失って無意味で非合理な行動に陥るものなのです
それが理不尽だとか不条理だとか言われても そんなもの私の知ったことではありません アンタの行動責任なんか他の誰も責任持てないんですよ 私は私の行動責任しかとれません 誰もが自分の行動責任は自分でしかとれないものなんですよ それを権威などの他人に盲目的に丸投げしたがるから無責任になる
自分の頭で考えて判断することをしなくなる原因とは 他人からの評価や承認への欲求にしか興味を持たなくなるからである
ヒトの多くは評価承認欲求を持っていて それが「普通」だと思っている
「多数=正常」というのは論理客観的な根拠にはならないのだが 多数は主観的に安心満足感が得られるため これを短絡的に正常だと錯覚しているのである
Ende;