書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

100年の根拠

2021年11月10日 15時17分33秒 | 意識論関連

「100年後には刑罰はなくなっているのかも知れないが すぐには無理だ」という決めつけをするバカがいるが

「100年」という数字に論理客観的根拠はない

地動説を受け入れるまでに長い期間がかかったことなどから 「ヒトとは大きなパラダイムシフトを受け入れるまでには長い時間がかかるものだ」というバカげた決めつけを言い出すバカが多すぎる

なぜ「長い期間」がかかったのかといえば 論理客観的理解よりも主観的感覚の方が優先するというヒトの先天的な認知的欠陥が原因であり ヒトの先天的な認知的欠陥を理解し 自覚すれば「長い期間」そのものが認知的欠陥に由来するものであることは明白である

秒で理解して行動変容を起こすのが「意識」の本質である

多数のバカの顔色を窺っている暇はない

そんな悠長な時間は人類には残されていないのである

焦らすわけではないが 根拠のない寝言みたいな話を鵜呑みにしていて問題が解決するわけがないのである

 

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甚だしい勘違い

2021年11月10日 13時24分38秒 | 意識論関連

イジメ被害で学校に行けなくなったことを「自分が悪い」と自己嫌悪に陥る子供がいるが

これはトンデモナイ大間違い(錯覚)である

学級内でのイジメを解消できない大人の方に責任があるのであって そもそも「学校に行くことが人間としての価値」になるわけではない

地動説を主張して火炙りにされそうになることもある 多数に同調することが「正しい」わけではないのである

「教育の義務」というものを「小中学校に強制的に通わせれることだ」と勘違いしている大人も非常に多い

そもそも「教育の義務」というのは 経済発展途上において親の都合で子供に仕事をさせてしまうことで 子供が学びたいという意思を尊重させないようになるのを防ぐのが主旨であり 別に「子供を強制的に学校に行かせる」ことが「教育の義務」ではなく 学ぶ方法論なら他にいくらでもある

学校に行かなくても 子供が学びたいを思っていることを学べれば良いのであって 教育というものが受験のための学力偏差値競争が目的にすり替わっているフシがあり またそういう「お受験産業」だけは異常なまでにシステム化され 多数の親が無意識に同調することで金儲けに利用されているが それが原因で子供の主体性が失われ 自分の頭で物事を考えないバカが増えてしまったという弊害もある

大多数の「他の子供」と同じ様に学校生活が送ることができないと 観念的な不安にはなるかも知れないが 別に大多数に迎合することが人間としての価値基準になるわけではない

むしろイジメがあるような学級に迎合同調し馴染んでしまうことの方が 人間としては無能なのである

慶応大学を卒業していても 東大に入れなかった劣等感から東大生をイジメている社会人というのもいるくらいである そんな「塾員」は社会的には「迷惑者」であり 社会効率から見ても多様性を受け入れられない無能者であり たとえどんなに年収が高くても 「人間」としては最低である

多数派に迎合同調することの方が気分(主観)的には安心かも知れないが それは客観的には人間としての価値基準にはならない

「意味なく群れるよりも 意思ある孤立を」って 何かのCMで言ってたが ナチス政権に迎合して生き延びるよりも 反対してスイス山中で自決する方が人間としては優れているのである

とは言え 別に自己犠牲の全てが人間性の論証になるわけではない

自爆テロだの鉄砲玉だの特攻隊が 命がけで組織の利益に供する行動を採ったからといっても 組織自体が腐敗していれば腐敗に加担しているに過ぎないのである

命がけで地下鉄に毒ガスを撒いて「人類の救済だ」などと主張されても 迷惑にしかならない

 

ヒトはどうしても「同じ」であることを求めようとしてしまうが それこそが多様性を受容できない「心の狭さ」の原因である

イジメの加害者集団というのは イジメをすることが「楽しい」という共通点から共鳴共感し イジメ競争によってイジメに歯止めがかからなくなり 自滅への暴走に陥るのである

そして 学級内の8割は傍観放置(日和見)することによって利己的安全を確保するのである

イジメの標的というのは 本当は誰でも良いのであって イジメている側の全員が「自分だけは被害者になりたくない」という強迫観念から誰でも良いから標的にしているだけであって 被害者側に落ち度などない

「面白いことをして目立ったらイジメられなくなった」だとか 「徹底的に反撃して首謀者をボコボコにしたらイジメられなくなった」などというのは 何の自慢にもならない

子供の薄っぺらな価値観に迎合しても 人間性の根拠には一切ならないのである

だから学級というのは大人が制御統率する必要がある

人員が足りないのであれば 監視カメラでイジメの現場を把握し イジメが酷くなる前に加害者側のケア(治療)をすることが必要である

酷くなって自殺者が出てからでは取り返しがつかない

子供は子供だけで集団生活させておけば 必ずイジメは発生するものである 「失敗」を一切しない子供などいないのである

むしろ子供の失敗が小さい段階から教訓として学ぶことによって 大きな失敗への発展することのないように導くのが大人の役割である

加害者の子供に失敗を失敗だと自覚させるためには 大人による冷静な理詰めの説得が必要で 事態が酷くなってから「懲罰」によって抑圧するのは逆効果である

失敗から学ぶことによって 取り返しのつかない大失敗に陥らないように導くことが 加害者の人生にとって有益なことであり 被害も最小限に抑えられるのである

ヒトは必ず間違えるものである

子供であればなをさらである

誰も人生は一度きりであり 子供は人生の初心者であるから 熟練した大人が失敗というものから学ぶ術を教えて伝えることが最も重要である

間違える事そのものが悪いのではなく 間違えたら改めることが人間として重要なのであり 改められない大人にも責任はある

 

その意味においても刑法懲罰制度は無駄なのである

国家権力を用いて暴力的に抑圧しても 自律的な社会的責任判断能力は身につかないからだ

ましてや児童ポルノ販売で罰金50万円などというのは もはや「ふざけている」としか言いようがない

女子中学生を何年も拉致監禁しておいて「懲役9年」という判決にも意味がない

「犯罪者同士の罰の公平性」などという わかったような訳のわからぬ屁理屈は 犯罪を犯していない者からすると意味がさっぱりわからない

自分の頭で自律的に物事を考えない犯罪者というのは 利己的な快楽と罰を天秤にかけるだけであって 罰が軽いなら利己的快楽の方を優先するというサルみたいな行動選択しかしないのである

人間性の根源とは 自律的に社会的責任判断選択をすることであって 既存の制度上で快楽と罰を天秤に量ることで発揮されるようなものではない

司法役人達も自分達の既得権(組織の利益)を優先し 「本当の社会的責任(目的)」を取らないのであれば どんなに法手続き上合法であっても 人間としては最低で 社会的にも無能なのである

温室効果ガス削減のために必要なのは 個人が自律的に社会的責任として行動判断する必要がある

イジメだの犯罪などという糞くだらないことに手間を取られている時間的猶予なんぞ本当はないのである

 

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不自由なスパイラル

2021年11月10日 11時46分48秒 | 意識論関連

イジメの加害者というのは 基本的に自己肯定感の低い子供がやるのであって これを改善しないことにはイジメはなくならない

自己肯定感というのは自信とは違うので 自信たっぷりにイジメをする子供の方が多いので ここを勘違いしてはいけない

イジメの標的は誰でも良くて イジメる標的が集団以外に見つけられない場合には集団内部で順位序列の低い子供が標的にされてしまうため 誰でも構わないから集団の外に標的をでっち上げておかないといけないという強迫観念によってイジメは実行されるのである

イジメ集団の中で順位序列が低いと標的にされかねないため 率先してイジメを行うことによって集団内部で競うようにイジメを行うようになる

より酷いイジメをすることで 集団内部での序列を高めようとする競争が始まるのである

連合赤軍が組織内部での殺し合いになったのも それが原因である

イジメなどの「悪いこと」をする集団内部では 如何に「悪いこと」ができるのかを競うことによって 集団内部での順位序列を決定しようとするのである

イジメをやりたいと思っている者同士で気分的に共鳴(共感)すると イジメ競争が自動的自然にシーケンシャルに始まるようにヒトはできているのである

これは自然界におけるキツネにも見られる習性であり 統率協調性を促す生物学上の先天的な社会形成習性による行動バイアスによるものであるため 集団で誰かをイジメていると「楽しい」ものなのである

ヒトに限らず 動物の行動習性というものは 「楽しい」感覚を作り出す脳内麻薬によって促され 何に「楽しい」と感じるのかは個人が主体的には選択することができない

ヒトの祖先 ヒト以前の野獣の段階では 集団組織的に獲物を追い詰め よってたかって殺傷して喰うという行動をしていたのであり 集団統率的に危害を加えることは本能的に「楽しい」ようにできているのである

フォートナイトというゲームがあり これはチームを結成してチーム同士で殺し合い争いをするゲームであるが これがとんでもなく大人気である

ゲームなら人畜無害だが これが現実の同級生となると重大事象に陥ることになる

フォートナイトでは 味方(チームメンバー)に射撃をしても味方には影響がなく 弾の無駄遣いになるだけである

フォートナイトでの得点は 殺された段階での生き残りの数で競われるため チームで協調して他のチームメンバーを殺害することの方が得点には有利であり 味方チーム内部での序列に構わっている暇はない

フォートナイトの現実版とも言えるのが連合赤軍であり 国家警察に追い詰められて逃げ場がなくなり 反撃不能と判断すると 集団内部での順位序列の低いメンバーに対する暴力が始まった

もちろん合理性などない

イジメも合理性があってやっているわけではなく あくまで目先の気分的な「楽しさ」だけでやっているのであって サルが目の前のエサにしか興味がないのと同様に 人生全体におけるトータルな価値観に意識が働かないため 目先の「楽しさ」しか見えなくなっているのが根本原因である

イジメというのは 標的にイジメをしている時だけは「楽しい」のだが 集団内部での序列争いは強迫観念であり恐怖でしかない

イジメをしている間の快楽のために むしろ自己肯定感をどんどん喪失し 喪失した自己肯定感を埋めるように益々イジメが酷くなってゆくのである

イジメをやっている加害者も イジメが「悪いこと」であることは知っているし イジメ集団内部での順位序列競争はむしろ恐怖でしかないのだが 一度イジメに手を染めてしまうことによって イジメ集団から除外される恐怖の方が上回ることで イジメ集団内部での順位序列競争に歯止めが効かなくなるのである

頭ではわかっている イジメなんぞが無い方が良いと その方が余程安心して生活できると知っていながらも 一度イジメが始まると自分がイジメられるのではないかという脅迫観念によって イジメ競争のスパイラルに陥ることになるのである

 

イジメ加害者がイジメを行うのは 自己肯定感の低さによるものである

純粋に個人的に楽しめることがあれば 弱者を攻撃して楽しむような卑劣な集団に加わる必要はないのだが 生きていて他に「楽しい」と思えることが何もないストレスから 弱者を攻撃する「楽しみ」しか見えなくなっているのである

こうした盲目性というものは 家庭内における序列 家庭内カーストが影響しているのである

家庭内で順位序列が低く扱われていると 主体性を尊重してもらえないため 自分で物事を判断する能力が働かなくなる

それこそ学力偏差値競争への強迫的評価が行われていると 子供はストレスを溜め込み そのストレスを発散するためにイジメに手を染めるようになるのである

親が学力偏差値競争を強要するのは 子供の将来を心配しているわけではなく 実は子供を家庭内での順位序列を低く見積もるためであって 家庭内での順位序列を低く扱うことによって親に服従させるための「威厳を保つ」ことが目的であり どんなに学力偏差値が高くなっても家庭内での順位序列が上がることはない

そういう不条理な「無理ゲー」を家庭内で強いられているからこそ イジメという非合理な快楽中毒に陥ることになるのである

博士ちゃん的に熱中できることがあれば イジメ集団に加わる暇はない

純粋に個人的に楽しいと思えることがあれば 非合理で不条理な「悪いこと」に対する「楽しみ(快楽)」は個人の中で優先順位が低くなるからである

子供が何に熱中できるのかは 子供それぞれであり ある程度実際にやってみないとわからないものでもある

ところが 親が子供を服従させることを優先し 家庭内での順位序列を低く見積もることばかりに執着していれば 子供は自分が個人的に楽しいと思えることを探すことができなくなり 学力偏差値などの「他人との比較」でしか評価が得られなければ イジメなどの目先の「楽しみ」に無意識に流されるようになってしまうのである

他人を攻撃し 貶めていれば 攻撃している間だけは相手よりも自分の方が優位に立った感覚を得られるのだが イジメという行動自体を客観的に見れば「悪いこと」であり卑劣な行為であることも「知っている」ため 更に自己肯定感を喪失し その自己肯定感の喪失を自覚したくないために 自分の頭で物事を客観的に考えることを全くしなくなるのである

自分が如何に卑劣で「悪いこと」をしているのかを自覚すれば気分が悪くなる

その認知的不協和を解消するために 自己客観的自覚(意識・論理客観的考え・合理性)の方を放棄するのである

イジメというのは 加害者側の自己洗脳であり 精神の病気である

 

イジメも連合赤軍もミャンマー軍事政権の民衆弾圧も 合理性など何もない 国益にすら供することはなく むしろ国を崩壊へと導くことにしかならないのだが 民衆を武力で弾圧している間だけは自分達が優位や正義に立ったような主観的感覚が得られるために 中毒的に加害行為を正当化しようとするのである

軍隊というのは上意下達の封建的序列社会であり 兵隊個人の主体性など全く重要視されることはない

家庭内が軍隊のように封建的序列を子供に強要していれば 結果的に兵隊のように「自分では何も考えないバカ」が出来上がるのである

統率をしている上官や親がいる間は統率がとれているが 子供だけで集団生活をさせれば服従すべき統率相手がいなくなった途端に自分が統率者になってしまう

躾を間違えた小型犬が 飼い主に対して「自分よりも序列が低い」と判断した途端に 飼い主の手を噛むようになるのと行動バイアスは同じである

イヌにとって服従は快楽である イヌの統率協調性としての先天的な社会形成習性は非常に強いため 訓練によって飼い主を「上(服従対象)」とみなすようにしつければ 盲導犬や介助犬のように従順に服従するようにもなるのだが イヌは訓練という生育環境に依存し 決して主体的にヒトにとって都合良く服従するようになるわけではなく ヒトが勝手にイヌの主体性を尊重したりすれば 逆に飼い主を見下して噛み付くようになるのである

だが ヒトはイヌとは異なり むしろ個人の主体性を尊重することによって自律的に自分の行動を律するようになるものである

これは先天的知的障害があっても同じであり むしろ個人の主体性を尊重しないとストレスから暴れるようになることある

知的障害も 実際にはスペクトラムであり 決して完全に「知的障害の全くないヒト」などあり得ない

大多数の「普通の人」であっても 何らかの認知的欠陥は存在しており だからこそ詐欺なんぞが成立するのである

有限の大脳容積しかなく しかも先天的行動バイアスによって行動が促される限り 先天的に常に人間性しか発揮しないヒトなど存在しないのである

「自分だけは絶対に大丈夫だ」そう主観的に思っていれば満足感は得られるのだろうが それこそがバカになる根源的原因である

主観的満足感自体が先天的に促されているものであって 野獣の祖先から受け継いだ錯覚に他ならない

野獣は自分の行動を客観視し 主体的に合理性ある目的行動選択をすることはできない

自分が所属する集団内部でイジメが起きれば 自分がイジメられないようにイジメ競争の順位序列に執着し 率先してイジメを行うようになるのである そうなれば大脳容積など糞の役にも立たなくなり 典型的なバカになるのである

「怖い相手に逆らわない」方が楽である

イジメをするような奴は「怖い」ので 「怖い」相手の価値観に同調迎合し 忖度服従しておいた方が利己的「生存」にとっては有利に働くものである

こうした先天的バイアスによって ヒトは暴力者への服従統率による封建的独裁が形成されるのである

テレ朝の玉川氏が安全性を優先して「エスカレーターで真ん中に立ってどかない」と主張しても 衆愚は臆面もなく「勝てないから冷静ではない」などと言い出すものである

「怖い」相手に忖度し 逆らわずに迎合同調して服従しておいた方が気分的に「楽」なものである

東京電力福島第一原子力発電所において 上司の顔色を窺って 原発の津波に対する脆弱性を傍観放置しておいた方が 組織の利益でもあり 個人が集団に迎合するには有利な行動選択である

「怖い」上司に逆らわず 自律的な社会的責任など放棄しておいた方が「楽」なものである

そうやってヒトは無意識な大多数に迎合し 自律的な社会的責任を放棄することを正当化するようになるのである

ヒトには先天的にそうした認知的欠陥が存在していることを前提に これを補うための「意識」が必要である

ハードウェア的な先天的欠陥に対し ソフトウェア的なパッチ(修復)を当てることによって ヒトは無意識で非合理な行動バイアスから逃れ 「本当の目的」に適する行動選択ができるようになるのである

先天的本能習性に無為に流されていたのでは 到底「自由」でも何でも無いのである

 

 

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする