起点の国清寺駅から四哩五分(7.2㎞)、三番工区の干拓地に開かれた
三蟠港に接続する地に鉄道の終着駅・三蟠駅が設けられた。
駅の付近の干潟では潮干狩りが楽しめたという。
対岸の福島等の地区が干拓されるのは昭和に入ってからの事で、当時は
まだ遠浅の海が広がっていたようだ。
又高島公園・高島神社が備前八景の一つとして案内されている。
「月はなほ 松の梢に高嶋の 波の玉にも影を宿して」
池田綱政が詠んだ「高嶋秋月」の詩である。
今日の旧駅の周辺は、内山工業、ヤンマー農機製造会社、岡山生コン
クリート会社等の工場が立地し、それを取り巻くように住宅も沢山建ち
並んでいる。
恐らくこれらによって当時の面影は消え、変ってしまったのであろう。
三蟠駅では汽車の到着と連絡して、各方面へ連絡船が運航されていた。
目前の対岸、児島半島飽浦には旅客と貨物を混載した発動機船が出ていた。
児島湖西端の八濱へは一日三便、反対の東方、小串や番田方面へは二便の
連絡船が出ていた。
長距離便としては、牛窓に向けて水門、久々井、宝殿、子父雁、西脇、
鹿忍を経由する便が毎日一往復運航されている。
更に四国・高松に向けた連絡船も有り、毎正午に出港し犬島、小豆島の
土庄、池田、下村を経由して高松に連絡していた。
三蟠港には、石炭の積み込み場等もあったようだが、今は堤防の護岸
工事により巨大な堤防の下に埋め込まれ港は消滅した。
元々この鉄道の目的は沿線に出来た工場などへ燃料となる石炭を輸送す
るもので、貨物輸送は経営の生命線であった。
当初、旅客も貨物も最大のライバルは、旭川の船便であった。
時代が昭和に入ると、旅客輸送では急速に進出を広げる乗合自動車と旅
客を奪い合う新たな競争も始まった。(続)
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