簾 満月「バスの助手席」

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菱川吉衛(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-27 | Weblog


 身分は岡山県平民で菱川合名会社代表社員、生まれは弘化元(1844)年
九月十五日の江戸末期、岡山城下磨屋町に生まれ、明治、大正に活躍、
昭和初めに没。この人物、名を「菱川吉衛(きちえ)」と言う。



 鉄道敷設に情熱を傾け、大正13(1924)年、岡山臨港鉄道の開設の免
許を申請している。
岡山駅を起点に鹿田(後に都市計画で路線が付け替えられ大元駅)、二日
市、七日市を経て、御津郡福浜村に至る約8.9㎞の宇野線蒸気鉄道計画だ。 
   
 合わせて福浜港の水深を整備し、千トン級の船舶が横付け出来るよう拡
幅、港と市街地を最短距離の鉄道で結ぶ計画だ。



 菱川の申請書を受けた県知事は、水陸の連携は重要だが、三蟠鉄道の経
営に甚大な影響を与えることを憂慮し申請を却下した。
又、三蟠鉄道の社長も旭川の対岸に鉄道ができると、両者の競争が激しく
なり、自社の存続は難しくなる、と敷設に反対する陳情書を提出していた。



 菱川は、これまでの岡山市の交通体系の不統一と整備の遅れを大いに危
惧していた。特に三蟠港や宇野港等主要な港が岡山駅に繋がっていない。

 三蟠鉄道や西大寺鉄道も市内で路面電車との接続は有るが、岡山駅とは
直接繋がっていない。このように水陸交通の連絡・連携、一体化が出来て
いないのが岡山市の発展を妨げていると考えていた。



 しかし菱川のこうした思いは伝わらず、計画は頓挫した。
後の時代になり、岡山臨港鉄道は旭川右岸の岡山港から国鉄宇野線・大
元駅を結ぶ鉄道で、昭和26(1951)年実現している。

 菱川の計画は、この一代前のもので、実現は出来なかったが、この開
通で先見の明を証明した。
 三蟠鉄道の廃線跡歩きを機に関連の資料を調べるまで、「菱川吉衛」
の名は知らなかったが、岡山の鉄道史では欠く事の出来ない人物らしい。


 
(三蟠鉄道廃線跡を歩く・完)(写真:宇野港周辺)

次回から、「東海道五十三次歩き旅 近江の国編」が始まります。



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