大正時代の初め京都と大津間の最初の鉄道路線は、京都を出て南下し、
稲荷、勧修寺、大谷を経て大津に至る経路で計画されていた。
しかしこのルートは25‰の急勾配が連続し、輸送上のネックとなって
いた。そこで新ルートが検討され、東山トンネル(1865m)や新逢坂山
トンネル(2325m)等を通る現ルートが決定された。
元々この辺りは地質が良くなく、強度を維持するためトンネルの断面
を小さくする必要があった。新ルートは後に複線化、更に複々線化され
るが、その都度逢坂山の下にも新たなトンネルが穿たれた。
こうしてここには単線のトンネルが並列して掘削されることになる。
東海道は既に上り坂で、途中に「逢坂」の石碑があった。
その地名は、「日本書記」よれば神功皇后の将軍・武内宿禰(たけのう
ちすくね)が、この地で忍熊王(おしくまおう)とばったりとであった
という故事に由来すると言う。
その先に、「鉄道記念物 旧逢坂山ずい道東口」の案内看板が立って
いたので、街道を外れ立ち寄って見る。
日本人技術者が主体と成り、設計・施工を行い初めて造った山岳トンネ
ルで東海道線大津~京都間の旧線大津(現在の膳所)~大谷間にあった。
完成したのは、明治13(1880)年6月の事である。
一年八ヶ月を掛けて穿たれた全長664.8mのトンネルは、機械に頼らず
生野銀山の労働者が、ノミやツルハシを使い手掘りしたものという。
大正10(1921)年7月、線路変更で廃線となるまで、東海道下り線と
して使用されていた。 東海道筋からは、ほんの少しだけ離れた山の中な
のに、忘れ去られたかのように寂しく取り残されている。
再び街道に戻り坂を上るとその先で、国道1号線と合流するが、その辺
りは山を切り開いた切り通しの道で、沿線に民家は乏しくなる。(続)
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稲荷、勧修寺、大谷を経て大津に至る経路で計画されていた。
しかしこのルートは25‰の急勾配が連続し、輸送上のネックとなって
いた。そこで新ルートが検討され、東山トンネル(1865m)や新逢坂山
トンネル(2325m)等を通る現ルートが決定された。
元々この辺りは地質が良くなく、強度を維持するためトンネルの断面
を小さくする必要があった。新ルートは後に複線化、更に複々線化され
るが、その都度逢坂山の下にも新たなトンネルが穿たれた。
こうしてここには単線のトンネルが並列して掘削されることになる。
東海道は既に上り坂で、途中に「逢坂」の石碑があった。
その地名は、「日本書記」よれば神功皇后の将軍・武内宿禰(たけのう
ちすくね)が、この地で忍熊王(おしくまおう)とばったりとであった
という故事に由来すると言う。
その先に、「鉄道記念物 旧逢坂山ずい道東口」の案内看板が立って
いたので、街道を外れ立ち寄って見る。
日本人技術者が主体と成り、設計・施工を行い初めて造った山岳トンネ
ルで東海道線大津~京都間の旧線大津(現在の膳所)~大谷間にあった。
完成したのは、明治13(1880)年6月の事である。
一年八ヶ月を掛けて穿たれた全長664.8mのトンネルは、機械に頼らず
生野銀山の労働者が、ノミやツルハシを使い手掘りしたものという。
大正10(1921)年7月、線路変更で廃線となるまで、東海道下り線と
して使用されていた。 東海道筋からは、ほんの少しだけ離れた山の中な
のに、忘れ去られたかのように寂しく取り残されている。
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りは山を切り開いた切り通しの道で、沿線に民家は乏しくなる。(続)
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