街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
袋井宿東本陣跡
袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。
一、宿内惣家数百九拾五軒
内
本陣 凡建坪弐百九拾坪半 門構・玄関附 宇新町 壱軒
同 凡建坪弐百拾九坪 門構・玄関附 宇本町 壱軒
同 凡建坪百六拾六坪半 門構・玄関附 同 壱軒
三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられていました。3本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行った問屋場の最高責任者である問屋をも勤めています。本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり、その規模の大きさがうかがわれます。平成12年7月28日袋井市教育委員会
本陣の宿泊
袋井宿東本陣の利用状況は、元和四年(1618)から寛永十一年(1634)までの十七年間の状況を記した袋井指定文化財「本陣御宿帳」からうかがい知ることができます。袋井宿が開設されてから二年後に始まる幕藩体制初期の宿帳は大変貴重なものです。
その記載は極めて簡略で、利用の月日、休・泊の別、休泊料、そして利用者のみの記載となっています。この十七年間のすべてについて、月毎にその休泊の状況を整理すると、全体として宿泊と休憩はいずれも30回を超えています。若干休憩が多いようですが、ほぼ半々となっており、宿の設置は他の宿より十五年遅れましたが、開設当初から宿泊の利用がかなり盛んであったと考えられます。また、年間を通しての利用回数をみると、20~40回程度の年が大半で、寛永三年(1626)と寛永十一年(1634)は将軍の上洛の影響によって70回を超えて利用されていることは注目されます。また月別の利用をみると、他の月に比べて十二月の利用が多くなっています。参勤交代が制度化されて以降は、外様大名の交代期四月と、譜代大名の交代期六月が多くなっているようですが、残念ながらこの宿帳は寛永十一年までで終わっているため、その翌年に武家諸法度が改訂され、参勤交代が制度化されて移行の状況を知ることはできません。
十七年間で繰り返し東本陣を利用したのは伊勢国神戸城一万五千石の一柳直盛と三河国宝飯郡形原五千石の松平清直で、領地と江戸を往復するのに利用したと考えられます。
本陣の利用
大名が本陣を利用するにはそれなりの手続きがありました。まず各本陣に対して休泊の予約を伝え、利用可能なら本陣から調書を提出します。この後、他の大名との差合を避けるために先触れを発し、家臣は大名の発籠に先立って現地に入り、宿割りを行い、関札を掲げ、玄関には定紋付きの幕を張り、提灯を灯し、本陣当主は礼装して宿はずれまで出迎えます。行列の出発は午前四時頃が習慣であったため、準備の時間を考えると午前一時~二時の起床であったと考えられます。
本陣の経営
本陣の主たる収入は休泊料ですが、この休泊料には特に定められたものはなく、「御祝儀」と呼ぶにふさわしい性格のものでした。東本陣を数多く利用した一柳直盛と松平清直は一貫文から二貫文(千文~二千文)でしたが、金銭だけでなく、袷羽織・帷子(たれまく)・反物・色紙などで支払われることも多かったようです。また幕府から下賜金や各種の補助がありましたが、建坪200坪を超える大建造物を、常に休泊に応じられるように維持することは大変な苦労でした。「きせるなどは50本出せば10本返ってくるのはまれである」といわれたように、本陣備え付けの椀・皿などの什器類から、はては屏風・布団・衣類にいたるまで持ち去られ、これらの補充に要する出費もかなりのものだったようです。
本陣の経営は享保の頃からしだいに苦しくなり、戊辰戦争時には利用率が若干多くなりますが、明治維新以降、田代家は本陣を廃業し、伝馬所(明治元年6月に問屋場から名称変更)の元締役となりました。郵便業務の開幕とともに、その取次所も兼ねることなり、東本陣の建物は、最初の袋井郵便局となりました。
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