街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
東新屋道標
▲既に袋井市に入っている
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
東新屋道標
▲既に袋井市に入っている
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
町中の浮世絵(袋井)
隷書、双筆とは字体のことか?
▲隷書東海道53次袋井 初代歌川広重 寛永2年(1849)
▲左 双筆東海道53次袋井 3代歌川豊国 右不明
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2011年6月13日 8回目
東海道どまん中東小学校
静岡県袋井市広岡
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2011年6月13日 8回目
久津部一里塚跡
静岡県袋井市広岡
▲江戸から60里
一里塚とは、街道両側の一里(約4km)ごとに土を盛り上げて道のりの目じるしにした江戸時代の塚のことで、多くは榎(えのき)や桧がその上に植えられていました。久津部一里塚は江戸からちょうど六〇里にあたり、明治時代までは老松が立っていました。現在は街道両側の塚とも残っていませんが、現在地付近がその跡と言われています。昭和四七年には袋井東小学校創立百年を記念して一里塚碑が立てられるなどして現在にいたっています。ここに、歴史を末永く後世に伝えるために新たに塚を設置しました。 平成十二年八月改修
▲袋井東小学校
袋井小学校創立百年記念 東海道久津部一里塚跡碑
徳川幕府は慶長九年(1604)二月(昭和四十七年より三百六十八 年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはか った。当時本村久津部の地は、江戸より六十里の地点であったか ら、道をはさんで両側に高かく土を盛り松を植えて一里塚を築い た。その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅地で、国道 より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは 現在地である。明治十年(1887)に伐るまでは老松がそびえていて 旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが、袋井東小学 校創立百年を記念に復元をいたした次第である。 平成十二年八月改修 (昭和四十七年説明板設置)
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2011年6月13日 8回目
名栗の先にある松並木
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2011年6月13日 8回目
東海道案内図と浮世絵(袋井宿)
▲袋井宿まで4.2km
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2011年6月13日 8回目
名栗
静岡県袋井市
「東海道中膝栗毛」の一節に次のようにあります。 「はやくもなくりのたてばにつく ここは花ござをおりてあきなふ 道ばたにひらくさくらの枝ならでみなめいめいにをれる花ござ」江戸時代には旅人が休息する場所(立場)として知られ特に花茣蓙は有名でした。 北西一帯に広がる坂尻遺跡には奈良時代郡家(ぐうけ)(郡役所)や駅家(うまや)が置かれていたらしく古くから東西交通の要衝の地であったことがわかります。
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2011年6月13日 8回目
間の宿原川
間の宿(あいのしゅく)とは、宿と宿の間の街道に沿った小さな集落で、旅人に休息の場を提供していました。原川は掛川宿まで1里18町(約6キロメートル)、袋井宿まで33町(約3.6キロメートル)に位置します。街道の南北両側には現在も松並木が残っており、行き交う旅人が木陰で休息をとっていた往時をしのばせてくれるかのようです。
▲袋井宿←間の宿原川←掛川宿
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原川松並木
官道として東海道が開かれたのは1200年位前で、鎌倉幕府開設以後、京都・鎌倉間の交通頻繁化に伴い急速に発展し、国内第一の幹路となり駅なども整備されました。その後江戸時代には、街道の駅路を修理し両畔に松樹を植え一里塚を設け、東海道五十三次を定めました。このうち掛川には掛川宿と日坂宿の二宿があり、ともに明治維新まで栄えました。現在では国道一号線、東名高速道路、東海道本線、新幹線が通り東西交通の要路として重要な位置をしめております。松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、岡津・原川間に僅かに残っているだけです。記載内容
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大池一里塚跡
静岡県掛川市大池
▲江戸より五十九里目の一里塚 袋井宿まで6.7km
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日本橋から230km地点
▲掛川市二瀬川
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掛川の町並み
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掛川城蕗の門
静岡県掛川市掛川
蕗(ふき)の門(掛川市指定文化財) 掛川市掛川459 円満寺
この門は、掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門である。廃城後の明治5年(1872)に円満寺が買い受けて、現在地に移築した。その時に、柱の下を二尺五寸(約76cm)切り取って山門にしたといわれている。昭和35年5月31日指定 掛川市教育委員会
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2011年6月13日 8回目
掛川城大手門
静岡県掛川市城下
大手門は天守閣に続いて平成7年(1995年)に復元されたもので、大きさは間口7間(約12.7メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の二階建です。
掛川城の表玄関にふさわしい桜門造りの本格的な櫓門は、木造日本瓦葺き入母屋づくりになっています。白壁で板ひさしが配され、棟上にはシャチ瓦が飾られた勇壮な構えです。 実際は現在地より50メートルほど南にありました。
▲歴代の城主が書かれた木札
大手門おおてもん番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所です。嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたのが現在の建物です。明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和53年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和55年(1980)市の文化財に指定されました。発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644~1647)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成7年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約50メートル北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。掛川市教育委員会
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2011年6月13日 8回目
菓子処 もちや
静岡県掛川市葛川
当店は創業より200年、旧東海道沿い掛川宿に茶店を営んでまいりました。名物「振袖餅」は、大福餅を着物の振袖の細長の形にあしらったのが名前の由来とされています。創業当時は五文で買えた餅として「五文餅」とも呼ばれていました。菓子処 もちやホームページより抜粋
▲掛川宿 名物 振袖餅と刻まれている。
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