昨日は久しぶりの宮地嶽神社参拝でした。。社殿の奥庭には古民家苑があり、谷いっぱいに江戸花菖蒲が栽培されています。なんでも百種10万株も植えられているのだそうです。
そろそろ見ごろと思って出かけました。折から花菖蒲祭りが開催されていて、梅雨入りが宣言された小雨も降る平日ですが、いつもと違いかなりな人出でした。参道の階段にも鉢植えが置かれ、拝殿前の玉砂利のところにも一面に菖蒲が配置してあり今が盛りの時でした。
今回はルートを古代の官道にとって、宗像大社の手前から山間の細い道を辿りました。万葉集で坂上郎女が名児山の歌を残している大坂越えです。
奴山古墳群の間を縫って走ると、多数の古墳が次々に迫ります。小さな円墳や前方後円のやや大きな古墳は、今も古代豪族、宗像一族のロマンを秘めて古代の眠りの中です。こちらは6年ぶりのコースでした。
宮地嶽神社の奥ノ院には、6世紀末のものとされる横穴古墳があり、全長23mの石室は、5メートル級の巨石で組まれています。
江戸期に山崩れで開口した古墳からは、馬具、刀装具など300点余が発見され、内17点は国宝指定されています。(その一部は九州国立博物館で常設展示されています)特に龍虎紋の透かし彫り宝冠、中国六朝時代の壷鐙などの馬具は見事なものです。
ここ宮地嶽は、やはり九州古代王朝の聖域でしょう。一説にこの古墳は胸形君・徳善(高市皇子の母、尼子娘の父)のものではないかといわれています。
花菖蒲は八つ橋とともに琳派の画題としてしばしば登場する花で、連想は自然に伊勢物語の昔男の「から衣きつつなれにし妻しあれがはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」の歌へと通います。じっと見つめていると、「井筒」の装束をつけた女が立ち現われてきそうです。
たおやかな花に対してまっすぐに伸びた葉先は「尚武」と呼ぶ言葉へも通い、アジサイ以上にこの季節を代表する日本の花だと思いました。
補注 奴山古墳群に関してはこちらのブログに多くの写真とともに詳しく記されてい ます。
高市皇子に関して
謎の多い皇子です。天武天皇の第一皇子で、壬申の乱では勝利への立役者でした。不破では軍事の全権を執行。
母の出自から、天皇として即位することなく、持統天皇即位の折は太政大臣となり、皇族最高位についています。
正妃は天智天皇皇女(御名部皇女、長屋王はこの二人の間の御子)
異母姉十市皇女の急死の折の情熱的な挽歌が万葉集にのこされています。高市皇子の死に際して柿本人麿は挽歌で「わ が大王」と呼びかけています。死後に「後皇子尊」ノチノミコノミコトと尊称が贈られています。
(古代九州王朝説をとる方たちは天皇として扱っています。)
そろそろ見ごろと思って出かけました。折から花菖蒲祭りが開催されていて、梅雨入りが宣言された小雨も降る平日ですが、いつもと違いかなりな人出でした。参道の階段にも鉢植えが置かれ、拝殿前の玉砂利のところにも一面に菖蒲が配置してあり今が盛りの時でした。
今回はルートを古代の官道にとって、宗像大社の手前から山間の細い道を辿りました。万葉集で坂上郎女が名児山の歌を残している大坂越えです。
奴山古墳群の間を縫って走ると、多数の古墳が次々に迫ります。小さな円墳や前方後円のやや大きな古墳は、今も古代豪族、宗像一族のロマンを秘めて古代の眠りの中です。こちらは6年ぶりのコースでした。
宮地嶽神社の奥ノ院には、6世紀末のものとされる横穴古墳があり、全長23mの石室は、5メートル級の巨石で組まれています。
江戸期に山崩れで開口した古墳からは、馬具、刀装具など300点余が発見され、内17点は国宝指定されています。(その一部は九州国立博物館で常設展示されています)特に龍虎紋の透かし彫り宝冠、中国六朝時代の壷鐙などの馬具は見事なものです。
ここ宮地嶽は、やはり九州古代王朝の聖域でしょう。一説にこの古墳は胸形君・徳善(高市皇子の母、尼子娘の父)のものではないかといわれています。
花菖蒲は八つ橋とともに琳派の画題としてしばしば登場する花で、連想は自然に伊勢物語の昔男の「から衣きつつなれにし妻しあれがはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」の歌へと通います。じっと見つめていると、「井筒」の装束をつけた女が立ち現われてきそうです。
たおやかな花に対してまっすぐに伸びた葉先は「尚武」と呼ぶ言葉へも通い、アジサイ以上にこの季節を代表する日本の花だと思いました。
補注 奴山古墳群に関してはこちらのブログに多くの写真とともに詳しく記されてい ます。
高市皇子に関して
謎の多い皇子です。天武天皇の第一皇子で、壬申の乱では勝利への立役者でした。不破では軍事の全権を執行。
母の出自から、天皇として即位することなく、持統天皇即位の折は太政大臣となり、皇族最高位についています。
正妃は天智天皇皇女(御名部皇女、長屋王はこの二人の間の御子)
異母姉十市皇女の急死の折の情熱的な挽歌が万葉集にのこされています。高市皇子の死に際して柿本人麿は挽歌で「わ が大王」と呼びかけています。死後に「後皇子尊」ノチノミコノミコトと尊称が贈られています。
(古代九州王朝説をとる方たちは天皇として扱っています。)