https://youtu.be/cgusyOwqBlo
中日新聞プラス
05:00
難関の国家資格「第一級アマチュア無線技士」の試験に、島田市伊太小学校六年生の阿部光貴(こうき)君(11)=同市伊太=が見事合格した。一級は法規に加えて短大程度の無線工学の理解が必要で、小学生の取得はまれ。同じ一級を持つ祖父渡辺春夫さん(66)と二人三脚で試験勉強に取り組んだ。「日本全国の人と交信したい」と夢は広がる。
アマチュア無線の免許は四段階に分かれ、最難関の一級から取得が最も容易な四級までがある。アマチュア無線技士は全国で三百四十万人おり、阿部君が合格した一級は1%に満たない三万人程度。合格率は五割弱となっている。
阿部君は三年生の時、渡辺さんの勧めで四級を受験し合格。県内の愛好者を中心に無線を楽しんでいたが、より遠くの人と交信できる免許を取りたいと、四年生の時から二級の取得に向けて勉強を始めた。しかし試験では回路図や数式、専門用語が出題され、当初は歯が立たなかった。「分からなくてもいいから、とにかく問題集を三回は通読させた」と渡辺さん。阿部君は法規の教科書も読み返し、暗記した。
二級は昨年十二月、五度目の挑戦で合格。過去問題で対策して臨んだ四月の一級試験は一発でパスした。阿部君は「苦手な部分が出なかったのも良かった」と笑顔で話す。「無線は格好いいし、いろいろな人と話せるのが面白い」。まずは四十七都道府県すべての人と話すことが目標だ。(池田知之)』
他の地域の人に分かりやすく愛知県島田市と書くべきです。
二級は昨年十二月、五度目の挑戦で合格し、四月の一難関の国家資格「第一級アマチュア無線技士」級試験は一発でパスしたのは、阿部君の諦めなかった粘り勝ちです。無線好きの阿部君、好きこそものの上手なれの諺通り
です。小学生六年生の阿部君の柔らか頭で見事難関突破ですね。今西の学校教育では見いだせない子どもたちには、皆同じそれぞれ独自の才能があると言う証です。
04月26日 06:00
最新!「就職人気ランキング」ベスト300社
(東洋経済オンライン)
メガバンクが1-2フィニッシュ(撮影:尾形 文繁)
就職情報が解禁されて約2カ月が経過。2017年卒の採用活動は、就職情報解禁が昨年通りの3月スタートだったが、選考開始日は、「指針」改定により6月1日へと2カ月繰り上がった。そのため企業は年明けから活発に動き、例年にない早いペースで活動を続けている。
それでは学生の意識はどうか。東洋経済オンラインは、2017年春に大学や大学院を卒業予定の学生を対象として、就職人気が高い「ベスト300社」の最新ランキングをお届けする。
このランキングは、文化放送キャリアパートナーズ就職情報研究所の調査をもとにしたものだ。同調査は、就職活動の前半と後半の年2回実施。調査対象者は、同社の就職サイト「ブンナビ!」に登録している学生だ。今回掲載する2017年卒の調査は2016年2月10日から4月10日までに実施された(調査の詳細は7ページ目を参照)。
今回のランキングには参考情報として16年卒の総合結果や男女、文理系別の個別順位も併載した。就活・採用市場の変動もあり2016年卒と2017年卒では、単純比較が難しいことをあらかじめお伝えしておく。
トップ10のうち7社が金融企業
2017年卒・前半ランキングで1位に輝いたのはみずほフィナンシャルグループ、2位は三菱東京UFJ銀行とメガバンクがワンツー となった。トップ10のうち、金融業界から7社がランクイン。「採用人数の多さと企業としての安定感は多くの学生を惹きつけている。学生の就職意識にマイナス金利政策の影響は見られない」(文化放送キャリアパートナーズ)。
3位に全日本空輸(ANA)、4位にJTBグループ、10位に日本航空(JAL)がランクインするなど、旅行関連も堅調。2020年の東京五輪だけでなく、昨今の訪日客増という観点でも注目度が高い。昨年、好調だった商社は資源投資による業績の巨額損失を受け、伊藤忠商事をのぞいて下落傾向だ。
文化放送キャリアパートナーズが3月に実施したモニター調査によれば、学生が「人気が下がる」とした業界は「電気機器メーカー」に集中。不正会計問題や海外企業による買収など、業界についての報道が学生の評価を厳しくしているのだろう。ランキングは、1ページあたり50社ずつ掲載しており、ぜひ300位までをご覧いただきたい。』
金融業界のメガバンクも大手証券会社も大手生命保険会社も皆同じ業務をしていると言えます。、不況にも強く、安定し他業種に比べ給与体系も高いですが、一流大学出身者の学閥も未だに強く将来の昇進の条件になると思います。
『 仮免許試験合格前の生徒に路上で無免許運転させたとして、静岡中央署は2日、道路交通法違反(無免許運転)教唆の疑いで、届け出自動車教習所「マルシン教習所」職員のS容疑者(67)=静岡市葵区川合=を逮捕した。S容疑者は「間違いない」と容疑を認めている。
逮捕容疑は2月8日午前11時ごろ、仮免許試験合格前の女性に自動車教習を行う際に、助手席に同乗して同区内の市道で数キロにわたって普通乗用車を運転するよう指示し、無免許運転させたとされる。
同署によると、2月中に「路上で無免許運転させている」と情報提供があり発覚。S容疑者は夫と2人で届け出自動車教習所を運営しており、磐田市内でコースを借りて場内教習を行っていたという。』
仮免許試験合格前の生徒に路上で無免許運転させたのは良くないと思います。いつも常習になっていたのではありませんか。仮免許試験合格後の路上教習で交通事故を起こしたケースもあります。自動車教習所に通っていて交通事故を起こすと自動車教習所の信用問題ににかかわると思います。
15:18
美祢社会復帰促進センター。手前は入り口、左手は収容棟=山口県美祢市で住田里花撮影
(毎日新聞)
官民共同で運営する刑務所「美祢社会復帰促進センター」(山口県美祢市豊田前町)で、刑務作業を指導する民間の委託業者が男性受刑者に対し暴言を浴びせたとして、県弁護士会は同センターに再発防止の勧告をした。勧告は22日付。
男性受刑者が2014年6月、同会に人権救済を求める申し立てをしていた。
同会によると、センターの作業室でパソコンのプログラムの作成などを指導していたIT関連企業の60代男性社長が、40代男性受刑者に対し「社会から抹殺する。指を切り落とす」と脅すなどしたとしている。また、他の受刑者の前で水から出された魚の動きを実演させたとしている。
同センターも調査を実施し、こうした行為を確認した。同センターによると、IT関連企業との契約は15年3月までで、その後は更新していない。センターは委託業者の指導中は刑務官1人を同席させているが、センターの調査に対し刑務官は「民間企業にはこういう指導があると思った」と話しているという。【杉山雄飛】
今時極道の世界でも指を切り落とす事はありません。お金で片をつけています。頭が古すぎるのではないでしょうか。ヤクザの世界よりも怖い発言をした社長です。こんな怖い考えのIT関係の社長では、基本的人権を尊重する精神を忘れ、犯罪を犯した受刑者の更生への暖かい人間性が有りません。自分は、今犯罪を犯していないと思っても経営者としての法的責任を問われる事態いつ遭遇するか分からない御時世です。
(読売新聞) 01月15日 23:46
『「カレーハウスCoCo壱番屋」を展開する壱番屋が廃棄した冷凍ビーフカツの不正転売事件で、岐阜県は15日夜、転売先の「みのりフーズ」(岐阜県羽島市)から、壱番屋の製品以外の冷凍食品が大量に見つかったと発表した。
みのりフーズはいずれも産業廃棄物処理会社「ダイコー」(愛知県稲沢市)から入手したと説明。大半が賞味期限切れで、岐阜県は、これらも横流しされた廃棄品の可能性があるとみている。
見つかった冷凍食品は、ビンチョウマグロのスライス49箱や焼き鳥のモモ136箱(1箱約14・4キロ)、骨付きフライドチキン20箱など。壱番屋がダイコーに処分を委託した廃棄品のカツなどと一緒に、冷凍庫に入っていたという。』
人間は、悪いことは出来ないと言うことです。叩けば、埃ばかりです。悪事千里に伝わるです。食中毒や病気に夏たら誰が補償するのでしょうか。日本は法治国家なので、違法行為に対して損害賠償を各社とも請求されるのでは有りませんか。消費者は手間でも家で造らないといけない危険な時代です。
ライフ
カトパン、学歴コンプレックスで涙した過去「ひとりだけ恥ずかしい」
トレンドニュース(GYAO) 12月7日(月)18時41分配信
加藤綾子/Ayako Kato, Mar 20, 2014 : 「笑っていいとも!」後番組「バイキング」の会見=2014年3月20日撮影
カトパンこと、フジテレビの加藤綾子アナウンサーが、就活生だった頃、自身の学歴に引け目を感じて涙したこともあったと告白した。
人気アナ・カトパンに激似の美少女とは
12月6日放送のフジテレビ系「ボクらの時代」では、加藤綾子、椿原慶子、山崎夕貴たちフジテレビアナウンサーがトークを繰り広げた。加藤と同じ2008年入社の椿原は、入社試験での加藤を「個性が出てた。よくしゃべる、ケラケラ笑う可愛い子がいるなと思った。受かるだろうなと思ってた」と称賛した。
リラックスして試験を受けられた理由を、加藤は「無理だろうなっていう感覚」があったからだと告白する。国立音楽大学出身の加藤の周りでは就活生が少なく、そのため会社説明会では慶応や早稲田といった有名大学の学生の中で「ひとりだけ……。うわっ、恥ずかしい」という思いを抱いていたという。家に帰ってから「絶対無理」だと泣いたこともあったそうだ。
加藤は当時を「入社試験を受ける前にボコボコにされた感じがあった」と振り返る。しかし会社説明会の時点でショックを受け、「もういいや!」と吹っ切れることができたからこそ、肝心の入社試験では緊張をまったくしなかったと語った。
(文/原田美紗@HEW)
マスコミ関係は、早稲田大学の学閥が昔から強いですが、音楽大学出身でもよいではありませんか。人それぞれ秀で、適した道があります。
音楽を大学で学んだことが、これからの仕事上で、加藤さんの感性と持ち味として生かされると思います。自分の学歴と主人の学歴をを自慢したタレントもいましたが、今の日本で、自慢した学歴以上のタレントもいるではありませんか。偏差値や大学の名前だけで、人間を評価するのは間違いです。
【東大卒・元マッキンゼー】芸人・石井てる美「大切なのは、流されず自分自身を信じること」
11月02日 17:00
東大を卒業して世界最大の外資系コンサルティング会社「マッキンゼー・アンド・カンパニー」に就職。そこでなぜか心機一転して会社を辞め、お笑い養成所に入学。お笑いの世界に足を踏み入れた異色の女性芸人・石井てる美さん。なぜ順風満帆のキャリアを捨て、お笑いの道に飛び込んだのでしょうか。また、受験勉強とコンサルティング会社で鍛えたその頭脳を、「お笑い」というフィールドでどのように活かしているのでしょうか。石井さんのこれまでの経歴と、これからの展望について聞いてみました。
お笑いの世界には、正しい答えがどこにもない!
――芸人になってから苦労したことは何ですか?
石井:まず、ネタが全然できなかったですね。私はもともとお笑いをそんなに見ていたわけじゃなくて…。学生の頃から、友達に冗談を言ったり、人前に出てふざけたり司会みたいなことをやったりするのが好きで、そこから芸人になりたいと思っただけなんです。
だから、最初はネタの作り方も分からなかったし、自分がやりたいことを形にするにはどうすればいいかも見えていませんでした。でも、いま思うと、養成所にいる間はお笑いの世界の厳しさもよく分かっていなくて、あまり危機意識も持っていなかったかもしれないですね。
――昔から友達を笑わせたりするのは好きだったそうですが、そのやり方がプロの世界では通用しなかった、ということでしょうか。
石井:そうですね。私は、自分では昔から友達をガンガン笑わせていたと思っていたので、芸人になっても同じようにお客さんを笑わせられるはずだと思っていたんですよ。でも、いざ舞台に出てみたら全然ウケないし、これはまったく違うことなんだなって思いました。
最近になってようやく、一周回って結局は同じことなのかも、とも思うようになってきました。友達を笑わせるときに言っているようなことを、大勢のお客さんの前でも言えるかどうか、っていうのがポイントなんですが、それって実は結構勇気が要ることなんです。自分のことを全く知らない大勢の人の前でも、いつもの素の自分をちゃんとさらけ出すことができれば、人を笑わせることができるのかもしれない、という気がしています。
――石井さんの学力を生かして、お笑いの世界をロジカルに攻略することはできないのでしょうか?
石井:いやあ、全然できないですね。大学受験の問題って、必ず答えがあるじゃないですか。東大の入試問題も、義務教育の教科書の範囲内で解けるという前提で作られているんです。過去の入試問題を調べて、問題の答えを見て、そこにどうやってたどりつくかを考えればいいだけなんですよ。
でも、お笑いの世界では答えがありません。何を目指して、どの答えに向かって走っていけばいいか分からない。それがクリエイティブな世界っていうことなんでしょうね。学校の勉強では与えられたものをこなしていけばいいんですけど、お笑いでは何もないところから始めて、ゼロから1を作り出さないといけないんです。
東大に一度入ると、「これに乗れば大丈夫」っていう人生のレールがたくさん敷かれていて、ある程度は食いっぱぐれない安定の人生が保証されている。そして、基本的にはそれを求める人が入る大学なんですよね。もちろん東大に入った人の中でも、何らかの分野で圧倒的な才能がある人なら、それを伸ばしていけばいいのかもしれません。
おそらく私みたいな凡人は、せっかく東大に入れたんだから、そこに乗っかっていた方が安泰な人生を生きられたと思うんですよね。実力も才能もないのに、わざわざ丸腰で勝負しなきゃいけない世界に飛び込むのは無謀なことなんでしょう。けれども私は、せっかく生まれてきたのに、チャレンジしないで先が見える安定の人生を送るのが楽しいとは思えませんでした。リスクを承知で、この世界に飛び込んだんです。
勤務中に笑いなんてもってのほか! 渾身のギャグもスルーされたマッキンゼー時代
――マッキンゼーで働いていたときの、職場の雰囲気はいかがでしたか。冗談で同僚を笑わせたりすることはあったのでしょうか?
石井:一度、仕事が終わった後のディナー中に私が冗談を言ったら、男性の上司に「石井さん、プロフェッショナルとしての自覚を持ってください」ってピシッと言われたことがありました。それで新人だった私はすごく萎縮しちゃいました。たまたまそのときにその方がちょっとピリピリしていただけで、全員が全員そういうタイプっていうわけじゃないですけどね。
ただ、「コンサルの人にしか通じないジョーク」みたいなのはあるかもしれません。あるとき、先輩の男の人が女の人の顔の好みについて話していて、「顔全体は○○だけど、鼻は△△な人がいいなあ」って言うので、「先輩、それミーシーじゃないですよ」と返したら、すごくウケてましたね。たぶん意味が分からない人が多いと思うんですけど、コンサル用語に「ミーシー(MECE=重複なく、漏れなく)」という言葉があって、それを使ったら笑ってもらえました。
あと、ワークショップでチーム分けをするために、「社員を3つのグループに分けるので、順番に1、2、3と1人ずつ言っていってください」という指示が出たときがありました。ちょうどその時期に、世界のナベアツさんの「3がつく数字と3の倍数でアホになる」というネタが流行っていて。私だけそのネタを真似して、小声で「3!」ってアホっぽく言っていたら、誰も何もツッコんでくれなくて、ただただスルーされたことがありましたね(笑)。本当に皆さん真面目に働いているので、私の経験上では、勤務時間中にギャグを言うとかふざけるとか、そういうことができる雰囲気はなかったです。
売れている人はみんな「周りに流されず、自分自身を信じている」人
――最近のお仕事の調子はいかがですか?
石井:今年に入ってようやく、初めてテレビでネタをやることができたんです。これは目標の1つだったので嬉しかったですね。次の目標は「自分が心からやっていて楽しいと思えるネタでテレビに出る」ということです。今まで作ったネタの中で、個人的にいちばん好きなのは「短足時代」というネタ。韓国のアイドル「少女時代」のパロディーキャラで、私が「短足時代」というアイドルを名乗って、短い足をさらけ出して踊る、っていうだけのネタなんですけど(笑)。
――これまでに、石井さんの身のまわりにいた芸人仲間が、ほぼ無名の状態から一気に売れていく過程も何度か見てきていると思いますが、そういう人たちの特徴って何かありますか?
石井:同じ事務所のあばれる君さんもやしろ優さんも、のちに売れている方って、昔から周りの目を気にしていないというか、ただ自分の信じることを最初からずっと続けてきた方なんですよね。若手の頃って、いろいろな噂話とか他人の評判とか意見が耳に入ってきて、どうしても振り回されがちになるんです。でもそういう声に流されて、周りを気にしてばかりの人はだいたい続かなくて、途中で辞めていってしまうことが多いんです。
やしろ優さんは昔から全然そういうことを気にされていない感じがしました。自分が面白いと思うことをただ素直に表現していて、それを心から楽しんでいるように見えるんです。今のように世に出る前から、「いつか売れたときのために、今はこういうライブをやっているんだよね」とか、そういうことをサラッと言っていて。そうやって、自分の心が求めていることと実際にやっていることのチャンネルがかっちり合っている人が、何かのきっかけで売れていくものなんでしょうね。
私自身、学生の時から「目標達成至上主義」みたいなものが身についてしまっていて。なかなかプロセスを楽しむことができなかったんですが、やっぱり「魂が喜ぶことを素直にやる」というか、猛烈な思いみたいなものが、笑いに繋がっていくのかなって、最近実感しています。
――石井さんの今の目標を教えてください。
石井:まずはもっともっと面白いネタを作ること。あとは、最近講演会に呼んでいただくことがあって、私の経験が少しでもだれかの役に立つのなら、と積極的にお受けしていて、そういう機会をもっと増やせたらと思います。そして2018年の平昌(ピョンチャン)冬季五輪でレポーターをすること! フィギュアスケートが昔から大好きなので、何とかそれを実現させたいですね。
東大卒、マッキンゼー出身という肩書きだけを見ると、エリート街道を突き進むバリバリのキャリア女性を想像してしまうかもしれませんが、実際の石井さんはそのイメージとは正反対。未知の世界で不器用にもがきながらも必死に知恵を絞り、次々に新しい課題に挑んでいく姿が印象的でした。前向きに仕事に取り組むその姿勢は、職種は違っても働く人すべてにとって参考になるのではないでしょうか。
石井てる美さん/プロフィール
1983年、東京都出身。東京大学工学部卒業、同大学院修了。2008年、経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・ジャパン入社。お笑い芸人になることを志し、2009年夏に退社。同年10月、芸能事務所ワタナベエンターテインメントのお笑い芸人養成所ワタナベコメディスクールに11期生として入学。現在、ワタナベエンターテインメント所属のお笑い芸人として活動中。TOEIC 990点、英検1級。著書に『私がマッキンゼーを辞めた理由―自分の人生を切り拓く決断力―』(角川書店)
WRITING:ラリー遠田+プレスラボ PHOTO:安井信介
大切なのは、流されず自分自身を信じること」石井てる美さんは、御年32歳にして既に人生を悟られた頭の良い女性です。宗教家でも悟り得ない立派な人生哲学です。今のお笑い芸人突込みがくど過ぎて、その次の話への話題転換が下手です。
これからお笑い芸人だけではなく、マルチタレントとして、大きく御活躍くださいませ。
- 【社会ニュース】 2011/08/08(月) 18:56<iframe class="hatena-bookmark-button-frame" title="このエントリーをはてなブックマークに追加" frameborder="0" width="50" scrolling="no" height="20" allowtransparency="true" style="WIDTH: 50px; HEIGHT: 20px"> </iframe><plusone></plusone><script src="/js/g/b/national.js" type="text/javascript"></script><script language="JavaScript" src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js"></script><script src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/r20110727/r20110719/show_ads_impl.js"></script><script src="http://googleads.g.doubleclick.net/pagead/test_domain.js"></script><script src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/render_ads.js"></script><script></script><script language="JavaScript1.1" src="http://googleads.g.doubleclick.net/pagead/ads?client=ca-pub-7347432970795393&output=js&image_size=300x250&lmt=1312798813&num_ads=5&skip=0&channel=2297944308%2B3441689066%2B6815391240%2B5317228744&ad_type=text%2Cimage%2Cflash%2Chtml&ea=0&feedback_link=on&flash=10.0.32.18&url=http%3A%2F%2Fnews.searchina.ne.jp%2Fdisp.cgi%3Fy%3D2011%26d%3D0808%26f%3Dnational_0808_219.shtml&dt=1312798813722&shv=r20110727&jsv=r20110719&saldr=1&correlator=1312798813762&frm=4&adk=2604457712&ga_vid=1638326353.1307091203&ga_sid=1312798752&ga_hid=720979712&ga_fc=1&u_tz=540&u_his=8&u_java=1&u_h=768&u_w=1024&u_ah=738&u_aw=1024&u_cd=32&u_nplug=0&u_nmime=0&dff=ms%20pgothic&dfs=21&biw=1003&bih=587&ref=http%3A%2F%2Fnews.searchina.ne.jp%2F&fu=0&ifi=1&dtd=70"></script>台湾、旧日本軍要塞を歴史遺産に 離島の弾薬庫や特攻基地
震洋
震洋(しんよう)は、第二次世界大戦の日本海軍の特攻兵器。秘匿名称は「○四(○の中に四)金物」(マルヨンかなもの)。
概要
小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。上陸船団に体当たり攻撃することが目標とされた。 末期は敵艦船の銃座増加に伴い、これを破壊し到達するために2発のロケット弾が搭載された。また、2人乗りのタイプもあり、こちらには機銃1~2丁が搭載され、指揮官艇として使用された。
なお、陸軍の四式肉薄攻撃艇(マルレ)とともに特攻兵器として知られるが、震洋と異なりマルレは最初から特攻艇として開発されたものではない(四式肉薄攻撃艇#開発の経緯)。
陸軍海上挺進戦隊のマルレとともに、フィリピン、沖縄諸島、日本本土の太平洋岸に配備された。1945年にはフィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍を迎撃し、幾ばくかの戦果を挙げてはいる。沖縄戦にも実戦投入された。アメリカの資料によると、終戦まで連合国の艦船の損害は4隻[1]。
マルレとは違い防衛司令官の直轄扱いではなく、攻撃の有無・成否・戦果などが部隊ごとの記録となった。実戦では部隊ごと全滅してしまうことが多かったことから、特に実戦投入に関する実情は不明なところが多い。従って現行の文献では米軍の記録した水上特攻戦果に対し、震洋、マルレ共に配備された地域では日本軍側の戦果報告記録が無い場合(混乱の中で消失もしくは部隊ごと消滅した場合)「マルレもしくは震洋によるもの」とされることが非常に多い。
日本本土決戦時には、入り江の奥の洞窟などから出撃することが計画され、日本各地の沿岸に基地が作られた。九州・川棚の訓練基地跡や、終戦直後に高知県の第128震洋隊で起きた悲劇的な事故が有名。
開発の経緯
1944年3月、軍令部は戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し、このうち秘匿名称「○四金物」(船外機付き衝撃艇)として開発されたのが震洋である。1944年6月、マリアナ沖海戦で日本海軍は大敗北を喫し、それに伴うサイパン島陥落と戦局が悪化する中で、空母機動部隊の再建を事実上諦めて特殊奇襲兵器を優先的に開発、準備するようになる。この軍令部の構想に基づき、艦政本部の全面的な同意を得て艦政本部第四部が主務となり設計を開始した。船体は量産を考慮し木製とし、エンジンにトヨタの四トン積トラックの自動車エンジンを設計を強化して採用、速力は最低20ノット以上、30ノットを目指した。爆装については横須賀海軍工廠による実験の結果、300kgの爆薬であれば水上爆発でも喫水線下に約3mの破口を生じ、商船クラスであれば撃沈できるとの結果が出たが、震洋の小型船体では300kgの爆薬の搭載は無理なので250kgに減らされた上で直ちに試作にかかった。
試作艇は木造艇5隻と極薄鋼板艇2隻が作られ、船体は魚雷艇の船型を基礎としⅤ型船底を持つものであった。これらは1944年5月27日の海軍記念日に完成し直ちに試験が開始され、耐波性が不足していることが判明した為に艇首を改良した他は所期の性能を発揮し、8月28日に正式採用されこの際に「震洋」と名づけられた。これが一型艇である。この直後に2人乗りの五型艇も開発され生産された。さらにロケット推進式の六型艇(ベニヤ製)七型艇(金属製)、魚雷2装備の八型艇が開発されていたがこれらは実用に至らなかった。震洋は特攻艇として開発されたが設計の初期から舵輪固定装置を搭載しており、搭乗員は航空救命胴衣を着て船外後方に脱出できるようにもなっていた[2]。武装は一型艇で250kgの爆薬の他、12cm噴進砲(ロサ弾)2基を搭載しており、五型艇はこれに13mm機銃一挺を追加し更に一部に無線電話装置が装備された。 設計時から量産を考慮して設計された為製造が比較的容易であり、民間軍需工場でも生産されたため終戦まで月間700~150隻が生産され終戦時までに各型合わせて6,197隻が生産された。設計主務部員班長を務めた牧野茂は、「震洋」は技術的に見て軽量高性能であり、満足できる設計だったと述べている[3]。
乗員は他の特種兵器搭乗員及び機体が無いために余剰となった航空特攻要員であった学徒兵、海軍飛行予科練習生出身者を中心としていた。軍の作戦の一環として、若い将兵を集めて特攻隊が編成されたといえる。主に長崎県大村湾の水雷学校分校と鹿児島県江の浦の2箇所で育成が行われ国内及び海外拠点各地に海上輸送により配備されたが、海上輸送線の途絶に伴い潜水艦、航空機による移動中の被害が多く、また出撃できぬまま陸戦に巻き込まれるなどして実戦に参加できぬまま、支援要員も含めて2,500名以上が戦死したとされる。終戦時には本土決戦に対する備えとして4,000隻近くが実戦配備についていた。オーストラリアのシドニーの戦争記念博物館に1隻のみ保存されている。
諸元
区分 | 一型艇 | 五型艇 |
---|---|---|
全長(m) | 5.1 | 6.5 |
全幅(m) | 1.67 | 1.86 |
全高(m) | 0.8 | 0.9 |
喫水(普通/満載(m)) | 0.326/0.380 | 0.55/0.60 |
排水量(トン) | 1.295 | 2.2 |
機関 | トヨタ特KC型ガソリンエンジン×1 | トヨタ特KC型ガソリンエンジン×2 |
馬力 | 67HP | 134HP |
最高速度(特別全力) | 16ノット(23ノット) | 27ノット(30ノット) |
航続距離 | 110海里/16ノット | 170海里/27ノット |
兵装 | 爆装250kg、ロサ弾×2 | 爆装250kg、ロサ弾×2、13mm機銃×1 |
乗員 | 1名 | 2名 |
基地[4]
部隊名 | 指揮官 | 編成年月日 | 部隊編成 | 配置 | 死者数 |
第1震洋隊 | 東京都父島釣ヶ浜 | ||||
第2震洋隊 | 東京都父島宮ノ浜 | ||||
第3震洋隊 | 東京都母島西浦 | ||||
第4震洋隊 | 東京都母島東港 | ||||
第5震洋隊 | 東京都父島巽湾 | ||||
第6震洋隊 | ボルネオ島サンダカン | ||||
第7震洋隊 | コレヒドール島 | 特攻108名(昭和20年2月20日) | |||
第8震洋隊 | レガスピー | 特攻99名 | |||
第9震洋隊 | コレヒドール島 | 特攻245名 | |||
第10震洋隊 | コレヒドール島 | 特攻135名 | |||
第11震洋隊 | コレヒドール島 | 特攻126名 | |||
第12震洋隊 | コレヒドール島 | 特攻130名 | |||
第13震洋隊 | コレヒドール島 | 特攻209名 | |||
第14震洋隊 | 比島進出途中海没 | ||||
第15震洋隊 | 比島進出途中海没 | ||||
第16震洋隊 | 吉田義彦(中尉) | 東京都八丈島洞輪沢 | |||
第17震洋隊 | 鹿児島県奄美大島(加計呂麻島三浦) | ||||
第18震洋隊 | 鹿児島県奄美大島(加計呂麻島呑ノ浦) | (出撃直前に終戦) | |||
第19震洋隊 | 沖縄県石垣島川平湾 | ||||
第20震洋隊 | 台湾高雄 | ||||
第21震洋隊 | 台湾高雄 | ||||
第22震洋隊 | 沖縄県金武 | 特攻74名 | |||
第23震洋隊 | 沖縄県宮良 | ||||
第24震洋隊 | 馬公 | ||||
第25震洋隊 | 馬公 | ||||
第26震洋隊 | 沖縄県石垣島(竹富小浜島) | ||||
第27震洋隊 | 神奈川(三浦小網代) | 石井少尉戦死(昭和20年7月30日) | |||
第28震洋隊 | 台湾海口 | ||||
第29震洋隊 | 台湾高雄 | ||||
第30震洋隊 | 台湾海口 | ||||
第31震洋隊 | 台湾高雄 | ||||
第32震洋隊 | 海南島新村 | ||||
第33震洋隊 | 海南島三亜 | ||||
第34震洋隊 | 鹿児島県上甑島 | ||||
第35震洋隊 | 香港南了島 | ||||
第36震洋隊 | 香港南了島 | ||||
第37震洋隊 | 廈門 | ||||
第38震洋隊 | 沖縄県石垣島宮良 | ||||
第39震洋隊 | 比島進出途中海没 | ||||
第40震洋隊 | 鹿児島県奄美大島(喜界島早町) | ||||
第41震洋隊 | 沖縄県宮古島(宮古島平良) | ||||
第42震洋隊 | 沖縄進出途中海没 | ||||
第43震洋隊 | 台湾進出途中海没 | ||||
第44震洋隊 | 大島(奄美大島久慈) | ||||
第45震洋隊 | 済州島城山浦 | ||||
第46震洋隊 | 舟山島盤崎 | ||||
第47震洋隊 | 鹿児島新庄 | ||||
第48震洋隊 | 細島(宮崎土々呂) | ||||
第49震洋隊 | 高知県須崎 | ||||
第50震洋隊 | 高知県宇佐 | ||||
第51震洋隊 | 静岡県下田(静岡小稲) | ||||
第52震洋隊 | 舟山島泗礁山 | ||||
第53震洋隊 | 井上叔保(中尉) | 昭和20年5月25日 | 鹿児島長崎鼻山川 | ||
第54震洋隊 | 丸井重雄(少尉) | 昭和20年5月25日 | 油津(宮崎大堂津) | ||
第55震洋隊 | 神浦性太(少尉) | 昭和20年5月25日 | 千葉県勝浦鵜原 | ||
第56震洋隊 | 岩館康男(中尉) | 昭和20年5月25日 | 油壺(三浦) | ||
第57震洋隊 | 下田和歌浦 | ||||
第58震洋隊 | 千葉県銚子外川 | ||||
第59震洋隊 | 千葉県館山州崎 | ||||
第60震洋隊 | 三重県鳥羽 | ||||
第61震洋隊 | 鹿児島県垂水 | ||||
第62震洋隊 | 長崎県(長崎上五島) | ||||
第63震洋隊 | 福地壽一(二主) | 昭和20年7月25日 | 鹿児島谷山 | ||
第64震洋隊 | 武井原夫(中尉) | 昭和20年7月25日 | 佐世保(鹿児島垂水) | ||
第65震洋隊 | 岩切法雄(大尉) | 昭和20年7月25日 | 長崎京泊(雲仙市南串山) | ||
第67震洋隊 | 満野功(大尉) | 昭和20年7月25日 | 江ノ浦(静岡三津浜) | ||
第68震洋隊 | 佐藤武彦(中尉) | 昭和20年7月25日 | 千葉笹川 | ||
第101震洋隊 | 台湾進出途中海没 | ||||
第102震洋隊 | 台湾淡水 | ||||
第103震洋隊 | 海南島サルモン | ||||
第104震洋隊 | 舟山島盤嶼 | ||||
第105震洋隊 | 馬公(台湾淡水) | ||||
第106震洋隊 | 川棚(鹿児島指宿) | ||||
第107震洋隊 | 香港南了島 | ||||
第108震洋隊 | 廈門コロンズ | ||||
第109震洋隊 | 川棚(長崎松島) | ||||
第110震洋隊 | 天草茂串 | ||||
第111震洋隊 | 大島(喜界島小野津) | ||||
第112震洋隊 | 鹿児島間泊 | ||||
第113震洋隊 | 廈門 | ||||
第114震洋隊 | 舟山島菰茨島 | ||||
第115震洋隊 | 舟山島泗礁山 | ||||
第116震洋隊 | 細島(宮崎土々呂) | ||||
第117震洋隊 | 油津(宮崎大堂津) | ||||
第118震洋隊 | 唐津外津浦 | ||||
第119震洋隊 | 済州島 | ||||
第120震洋隊 | 済州島高山里 | ||||
第121震洋隊 | 佃島(宮崎門川) | ||||
第122震洋隊 | 佃島(宮崎美々津) | ||||
第123震洋隊 | 鹿児島県坊ノ津 | ||||
第124震洋隊 | 鹿児島県片浦 | ||||
第125震洋隊 | 鹿児島県知覧聖ヶ浦 | ||||
第126震洋隊 | 宮崎県油津(南郷外浦) | ||||
第127震洋隊 | 高知県御畳瀬 | ||||
第128震洋隊 | 高知県手結 | 爆発事故で111名死亡(昭和20年8月16日) | |||
第129震洋隊 | 千葉県勝浦 | ||||
第130震洋隊 | 橋本是(少尉) | 昭和20年5月25日 | 鹿児島県野間池 | ||
第131震洋隊 | 直井正數(少尉) | 昭和20年5月25日 | 鹿児島県川内出口 | ||
第132震洋隊 | 渡邊國雄(中尉) | 昭和20年5月25日 | 高知県土佐清水 | ||
第133震洋隊 | 昭和20年5月25日 | 鹿児島県喜入 | |||
第134震洋隊 | 半谷達哉(中尉) | 昭和20年5月25日 | 宿毛(高知柏島) | ||
第135震洋隊 | 中村太喜三郎(中尉) | 昭和20年5月25日 | 千葉(安房小湊) | ||
第136震洋隊 | 齋木進吾(中尉) | 昭和20年5月25日 | 静岡県江ノ浦(静岡清水美保) | ||
第137震洋隊 | 前野安司(少尉) | 昭和20年5月25日 | 静岡県下田(静岡永津呂) | ||
第138震洋隊 | 渡邊剛州(少尉) | 昭和20年5月25日 | 福島(福島小名浜) | ||
第139震洋隊 | 千葉県飯沼 | ||||
第140震洋隊 | 静岡県下田(静岡稲取) | ||||
第141震洋隊 | 福島県小名浜 | ||||
第142震洋隊 | 宿毛(泊浦) | ||||
第143震洋隊 | 川棚(天草牛深) | ||||
第144震洋隊 | 近松正雄(中尉) | 昭和20年7月25日 | 川棚(天草富岡) | ||
第145震洋隊 | 上村進(大尉) | 昭和20年7月25日 | 徳島県阿波橘 | ||
第146震洋隊 | 宮澤常雄(大尉) | 昭和20年7月25日 | 宮城県宮戸島 | ||
第147震洋隊 | 不明 |
注記
- ^ NHK 証言記録 兵士たちの戦争 ベニヤボートの特攻兵器-震洋特別特攻隊―より
- ^ 牧野『艦船ノート』p.263
- ^ 牧野『艦船ノート』p.268
- ^ 特別攻撃隊一覧表(海軍)
参考文献
- 牧野茂『艦船ノート』(出版共同社、1987) ISBN 4-87970-045-2
- 『「震洋」の建造について』 牧野は大和型戦艦設計者。「震洋」の設計にも携わった。
関連項目
- 回天
- 伏龍
- 島尾敏雄 - 小説家。第十八震洋隊を率いて加計呂麻島に駐屯するも、出撃前に終戦。当時の状況は、駐屯中に知り合った大平ミホ(後の妻)との逢瀬を描く『島の果て』、特攻隊員として出撃を待つ『出発は遂に訪れず』等に詳しい。
- 田英夫 - 社会民主党の元参議院議員、出撃前に終戦。
- 三島敏夫-サイパン島出身のハワイアン歌手。和田弘とマヒナスターズなどでボーカルとしても活躍。出撃前に終戦。