大阪の名村造船所跡地で、SNS映え抜群のアートフェス
巨大芸術作品やグルメが楽しめるアートフェスティバル『すみのえアート・ビート2021』が、11月14日に「クリエイティブセンター大阪」(大阪市住之江区)で開催される。
2009年に「すみのえミュージックフェスタ」として始まった同イベント。規模や内容を拡大しながら毎年おこなわれていたが、昨年は新型コロナウイルス感染拡大の影響により中止となり、今回は2年ぶりの開催となる。
「名村造船所跡地」の会場にはオランダ人アーティストのフロレンタイン・ホフマン氏による作品「ラバー・ダック」が浮かぶほか、北加賀屋ゆかりのアーティストの作品展示も。来場者が思い思いに写真を撮って楽しめるよう設計されているという。
造船で栄えていた町
大阪はかつて、紡績と造船に代表されるわが国最大の工業都市として、「東洋のマンチェスター」と呼ばれていました。「東洋のマンチェスター」発祥の地こそが、大阪市街西端を南流する木津川の沿岸、つまり木津川筋です。大阪市住之江区北加賀屋とその周辺は淀川の分流・木津川の左岸にあり、明治・大正期18年ごろ、大阪府の主要造船所として60社余りが名を連ね、19年、日本の造船は建造量が米国、英国に次いで世界3位に、大阪もその一翼を担い下流に佐野安造船所、名村造船所、藤永田(ふじながた)造船所の3社が並び、戦後の70年代まで大勢の人たちが働いていました。三つの造船所は「川筋3社」と呼ばれ、「鬼の佐野安、地獄の名村、情け知らずの藤永田」と言われかつての仕事の厳しさを指した言い方として残されています。3社のうち今も造船を続けているのは、北加賀屋に隣接する西成区南津守のサノヤス造船大阪製造所だけになりそれも新造船ではなく船の修繕や改造の仕事のみになっています。
藤永田造船所 敷津工場跡(住之江区柴谷町) 同社は、ここで最盛期と最期を迎えることになり1919 年(大正8 年)海軍指定工場となって、その後駆逐艦「藤」をはじめ軍艦 56 隻をここで製造していました。 最後の輝きが、1963 年( 昭和 38 年)の 「川幅ぎりぎりの進水」の歴史的成功になった。艦船の大型化はさらに進みこの時の
「トウキョウオリンピックス号」 24,000 トンの全長は 178 メートル、木津川の川幅 198 メートルとほとんど差がない中で、技術力を結集し進水を成功させました。しかしながらこの歴史的成功は木津川筋での新造船事業の限界を示す出来事で、1967 年(昭和 42 年)三井造船に吸収され、278 年の歴史に幕を閉じました。
その後昭和初期に、バレーボールの「東洋の魔女」として有名なニチボー貝塚に主力工場の座を明け渡し、戦時中は軍需工場となり、大阪大空襲の爆撃で全焼しました。
大日本紡績津守工場ができた時 鶴見橋商店街(西成区鶴見橋通)、数年後鶴見橋通の中央部に寄宿舎が建てられると、女子工員の新世界への通路としてこの商店街が開き この商店街は、巨大工場が造った繁華街で巨大工場の痕跡と言えます。当時の女子工員の過酷な生活は、束の間の休息や娯楽を楽しむために通った道がこの商店街ということになり、東西両方の入口に最寄り駅(四つ橋線・花園町駅、新阪堺・鶴見橋通駅)が設置され、「大阪の三橋」として、
心斎橋、天神橋筋と並び称されるほどの賑わいであった名残を感じさせていました。 中山製鋼所(大正区鶴町) 当社は 1919 年(大正8 年)中山悦治が創業し、戦前は有数の高炉メーカーで松田優作の遺作であるハリウッド映画『ブラックレイン』でメインのロケ地となった場所としても知られています。今日、いわゆる「工場萌え」の方々を中心に、剥き出しの配管や煙突などの工場風景が注目されています。
木津川筋・「スチュワーデス」も「ダットサン」も「シボレー軍用車」もこの地から ここには飛行機や自動車の物語も残る。伊丹空港以前、木津川飛行場という民間飛行場がありました。日本初の女性客室乗務員はここで生まれ、久保田権四郎の実用自動車製造が「ダ ットサン」を、米 GM が軍用車で有名な「シボレー」を造ったのもこの木津川筋でした。
ひと昔前 東洋のマンチェスターと呼ばれ栄えていたここ造船所周辺も、またいつかモノづくりの町として再び脚光を取り戻せるよう社員一同仕事に励んでいきます。(^_^)v
参考文献
木津川筋産業史探訪(森島克一氏)