先日の続き、いよいよ仁井田字大野へ。前回は国道から600メートルほど進んだ、「大野」バス停まで来ていた。
今回は、歴史を扱った内容が中心になります。現地の表示をざっと見たり、自分で調べたりしたことに基づいているので、勘違い・間違いがあるかもしれません。

大野バス停の先の十字路交差点を過ぎると、これまで一直線だった道が緩くカーブし始める。
沿道の家屋は相変わらず連続しているが、塀や生垣で囲まれた広い敷地に大きなお宅が並ぶようになり、今までの住宅街の街並みから、農村部らしい街並みに変化する。家並みは道路沿いだけで、裏側には畑などがある雰囲気。
「大野」バス停から400メートルほどの所の不整形の十字路交差点から先の左側は、「仁井田新田」から「仁井田字中新田」に変わる。(右側は引き続き字大野)
角の看板には「子供とお年寄に安心をこれが大野住人の願いです」
上の写真に写る政治家の看板にある相場(あいば)姓は、仁井田地区に非常に多い。
秋田市北部の飯島地区には保坂姓が多いけれど、仁井田にしても飯島にしても宅地化が進んで他地域から流入した人口が多い現在においても、一定の割合で相場さんや保坂さんがおられ、両地域の小中学校ではクラスに何人も在籍するようだ。まっさらの新興住宅地ではなく、古くからの農村と住宅地が共存しているということを示している。
その交差点の角に斑入りのアオキの葉に埋もれて、
「大野一区」バス停
こちらも上下兼用のポールだが、大野とは反対の上り側に設置。バス停名は手書きでなく、活字のようだ(ローマ字なし)。
【6日追記】前回、国道の交差点の標識に「大野まで1キロ」とあったが、その1キロ地点がこの辺り。

沿道にはお店はないが、1キロも歩けば、御野場の住宅地のコンビニやスーパーに行くことができる。家と田んぼの向こうには、市立御野場中学校がちらりと見えた。
ところで、今回の大野探訪には、地図サイト「マピオン」が大いに役立った。バス停の位置と名称、それに町の境界が分かりやすく掲載されているから。(googleマップでは分かりづらいしバス停の名は出ていない)
それによれば、この先で、大野線は右折することになる。曲がらずに道をこのまま進めば、雄物川の堤防に突き当たってしまうはず。
と思いながら大野一区から350メートルほど進むと、まだ新しそうな家が並ぶ新興住宅地になり、広い道に出てしまった。
これは、堤防沿いに茨島と御野場を結ぶ、新しい市道(茨島・大住アンパスの続き)だから、曲がる地点を見失って行き過ぎてしまったことになる。地名では「仁井田字新中島」と「御野場新町」。
新しい道を渡って撮影。右奥が来た道、左が雄物川方向、奥が羽越本線・茨島方向
新しい道路沿いには、「古川」という小さな川が流れている。
歴史的に見ると流路が変遷しているようだが、今は御野場・仁井田・牛島辺りをぐるりと迂回して猿田川に注いでいる。(猿田川→太平川→旭川→秋田運河)
いちおう雄物川水系ということになると思うが、ここでは雄物川と400メートルほどの距離をおいて、ほぼ並行しているのがおもしろい。
その400メートルの間には、「秋田工業用水場」や秋田市上下水道局の「仁井田浄水場」がある。あとは草地や畑で、住居はなさそう。
仁井田浄水場は、秋田市(河辺・雄和地域を除く)の大部分の地域に供給する水道水を作る施設(ほぼ対岸にもう1つの「豊岩浄水場」があるが、供給地域は新屋地区など限定的【2019年5月30日補足・現在は仁井田と豊岩の水が混合されて供給されるようだ。】【←2023年10月12日再訂正・やっぱり浄水場ごとに給水地域は区分されているようでした】)であり、僕は小学校3年生の時の社会科見学で、市営バスの貸切バスに乗って訪問した。
当時は、堤防沿いの市道はなかったわけだから、どこを通って行ったのだろう? 記憶にないが、もしかしたら、大野線のルートをたどったのかもしれない。
浄水場に向かう道路脇に石碑が(隣の畑はダイコン)
「大野村撫斬事件之供養碑」
「大野の撫斬(なでぎり)」は、元禄9年(1696年)、古川で釣りをしていた武士とそこを船で通りかかった大野の農民が交錯していざこざとなり、後日それを恨んだ武士が(藩の処刑としてという説もある)、大野の住民22名(当時の家主全員?)を斬り殺した--という事件だったようだ。
ちなみに、国道13号線の大野口のすぐ先、再び旧道が分岐する三叉路付近が「切上(きりあげ)」という地名だが、この事件にちなむらしい。
※詳細は、大野に住んでいた故・相場信太郎氏がまとめた資料やネット上で詳しくまとめておられるサイト(「大野の撫斬」等で検索!)があるので、それらをご覧ください。
バス路線へ戻る。
200メートルほど戻ると、小さな十字路があった。(大野一区からは100メートル強)
奥が国道、右が御野場中学校方向
駅からのバスは、奥から来て左へ曲がる(右折する)ようだ。

中型バスとはいえ、ここをバスが通って曲がるなんてすごい。
曲がってからも、農村の道が続く
より道が狭く、カーブが多くなったような気がする。
曲がってから230メートルほど、大野一区からは350メートルほどの所に、次のバス停「大野二区」があった。ポールは下り側のみに設置。
大野二区バス停と大木
バス停の先に大きな落葉樹があり、「大野のえのき」という名の保存樹の表示があった。
秋田で大木といえばケヤキの印象が強く、エノキの木自体、珍しいかもしれない。なるほどケヤキとは枝ぶりが違う。
振り返ってエノキと柿
さらに先には、ケヤキの保存樹もあった。
少し進んで振り返る。手入れされた生垣が美しい
何度も言いますが、この幅の道をバスが通るんですよ!
大野二区から300メートル強進むと、神社があった。
「大野八幡神社」
秋田の農村によくある、いわゆる旧「村社」という位置づけの神社かと思われる。(表示はなかったはず)
銅製の鳥居が立派で、境内や社殿もしっかりと維持されているようだ。
境内から外を見る。周囲は比較的住宅が密集している
境内には、いくつかの石碑があった
「日清日露出征記念碑」
「相場兼蔵君頌徳碑」大正7年5月建立
文久3(1863)年生まれで、明治時代に地域の農業の発展に貢献した方らしい。
もう1つ、「相場勘四郎君」の「彰徳碑」もあった。こちらは慶応元(1865)年生まれ、村議会議員や郡議会議員などを歴任し、「大野潟ノ開墾」などでやはり農業の発展に尽くしたようだ。
「菅江真澄の道 大野の里」
菅江真澄(すがえますみ。1754年-1829年)は、江戸時代の紀行家、博物学者。
愛知県豊橋の生まれだが、信州から北海道の辺りを巡って、今で言う民俗学な記録を残している。特に秋田には30年も住み、県内(藩内)各地を見て回った。
現在は、菅江真澄が訪れた秋田の各地に「菅江真澄の道」という表示が建てられている。表示は市街地から山間部までいろいろな場所で見ることができ、まさに“くまなく”回っていたことを感じさせられる。大野八幡神社の表示は、平成元年設置。
それによれば、著作「月の出羽路河辺郡」において、「文化12(1815)年」(3月か5月かと思われるが判読不可)に「大野の女は野菜を背負って久保田の市で売ると記録」しているそうだ。

「民草(たみくさ)の手向やすらむ ひろ前に 大野のはらの甜菜(あまな)辛菜(からな)を」
この表示では具体的にどんな野菜かは分からないが、ネットで調べてみると、「瓜、茄子、おほね(=ダイコン)、牛蒡など」との記述もあるようだ。
「久保田」は秋田の城下だから今の秋田市中心部(の旭川の西側)、そこで市(いち)が立つ場所といえば通町の辺りだろうか。大野からは歩いて1時間ほどか。
通町一帯に対して、藩から朝市を独占的に行うことが認められた(家督町)のは、この記録より少し後の文久4年(1864年)とのことだが、当時から既に市は立っていたことだろう。
菅江真澄は絵も残しており、「大野の湖」という大きな池の俯瞰図がある。
それによれば、大野から二ツ屋(羽州街道の猿田川の御茶屋橋)にかけた一帯が、当時は大きな湖と言うか潟だったそうだ。
今はその面影はないが、上記、明治時代に開墾された「大野潟」がそれだろうし、今の農業試験場跡地~大住~南高校~国道13号線の向かい側辺りまでが、潟だったことになる。
1962年に開校した県立秋田南高等学校の敷地は、「二ツ屋潟」を埋め立てたものだとは聞いていたが、それも「大野の湖」の一部で、かつてはもっと広かったのだろう。
参考:「菅江真澄研究第54号」平成16年12月31日菅江真澄研究会発行(国立公文書館デジタル化資料 http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_2626056_po_54go.pdf?contentNo=1)
神社があり、周りに家屋が集まっているこの辺りは、菅江真澄が訪れた当時から陸地だったと考えてよさそうだ。
神社の裏は畑
撫斬事件から315年、菅江真澄の記録から196年、そして1954年の仁井田村の秋田市への編入から57年。潟はなくなり、宅地が進んだ今でも、そうした「大野の里」の歴史を少しだけ感じることができた。
バス停2つ分しか紹介できませんでしたが、長くなったので今回はこの辺で。終点まではあと400メートル、次回はたどり着くことでしょう。
※この辺りの春の様子
※八幡神社の変化(リンク先中ほど)
今回は、歴史を扱った内容が中心になります。現地の表示をざっと見たり、自分で調べたりしたことに基づいているので、勘違い・間違いがあるかもしれません。

大野バス停の先の十字路交差点を過ぎると、これまで一直線だった道が緩くカーブし始める。
沿道の家屋は相変わらず連続しているが、塀や生垣で囲まれた広い敷地に大きなお宅が並ぶようになり、今までの住宅街の街並みから、農村部らしい街並みに変化する。家並みは道路沿いだけで、裏側には畑などがある雰囲気。
「大野」バス停から400メートルほどの所の不整形の十字路交差点から先の左側は、「仁井田新田」から「仁井田字中新田」に変わる。(右側は引き続き字大野)

上の写真に写る政治家の看板にある相場(あいば)姓は、仁井田地区に非常に多い。
秋田市北部の飯島地区には保坂姓が多いけれど、仁井田にしても飯島にしても宅地化が進んで他地域から流入した人口が多い現在においても、一定の割合で相場さんや保坂さんがおられ、両地域の小中学校ではクラスに何人も在籍するようだ。まっさらの新興住宅地ではなく、古くからの農村と住宅地が共存しているということを示している。
その交差点の角に斑入りのアオキの葉に埋もれて、

こちらも上下兼用のポールだが、大野とは反対の上り側に設置。バス停名は手書きでなく、活字のようだ(ローマ字なし)。
【6日追記】前回、国道の交差点の標識に「大野まで1キロ」とあったが、その1キロ地点がこの辺り。

沿道にはお店はないが、1キロも歩けば、御野場の住宅地のコンビニやスーパーに行くことができる。家と田んぼの向こうには、市立御野場中学校がちらりと見えた。
ところで、今回の大野探訪には、地図サイト「マピオン」が大いに役立った。バス停の位置と名称、それに町の境界が分かりやすく掲載されているから。(googleマップでは分かりづらいしバス停の名は出ていない)
それによれば、この先で、大野線は右折することになる。曲がらずに道をこのまま進めば、雄物川の堤防に突き当たってしまうはず。
と思いながら大野一区から350メートルほど進むと、まだ新しそうな家が並ぶ新興住宅地になり、広い道に出てしまった。
これは、堤防沿いに茨島と御野場を結ぶ、新しい市道(茨島・大住アンパスの続き)だから、曲がる地点を見失って行き過ぎてしまったことになる。地名では「仁井田字新中島」と「御野場新町」。

新しい道路沿いには、「古川」という小さな川が流れている。
歴史的に見ると流路が変遷しているようだが、今は御野場・仁井田・牛島辺りをぐるりと迂回して猿田川に注いでいる。(猿田川→太平川→旭川→秋田運河)
いちおう雄物川水系ということになると思うが、ここでは雄物川と400メートルほどの距離をおいて、ほぼ並行しているのがおもしろい。
その400メートルの間には、「秋田工業用水場」や秋田市上下水道局の「仁井田浄水場」がある。あとは草地や畑で、住居はなさそう。
仁井田浄水場は、秋田市(河辺・雄和地域を除く)の大部分の地域に供給する水道水を作る施設(ほぼ対岸にもう1つの「豊岩浄水場」があるが、供給地域は新屋地区など限定的
当時は、堤防沿いの市道はなかったわけだから、どこを通って行ったのだろう? 記憶にないが、もしかしたら、大野線のルートをたどったのかもしれない。


「大野の撫斬(なでぎり)」は、元禄9年(1696年)、古川で釣りをしていた武士とそこを船で通りかかった大野の農民が交錯していざこざとなり、後日それを恨んだ武士が(藩の処刑としてという説もある)、大野の住民22名(当時の家主全員?)を斬り殺した--という事件だったようだ。
ちなみに、国道13号線の大野口のすぐ先、再び旧道が分岐する三叉路付近が「切上(きりあげ)」という地名だが、この事件にちなむらしい。
※詳細は、大野に住んでいた故・相場信太郎氏がまとめた資料やネット上で詳しくまとめておられるサイト(「大野の撫斬」等で検索!)があるので、それらをご覧ください。
バス路線へ戻る。
200メートルほど戻ると、小さな十字路があった。(大野一区からは100メートル強)

駅からのバスは、奥から来て左へ曲がる(右折する)ようだ。

中型バスとはいえ、ここをバスが通って曲がるなんてすごい。

より道が狭く、カーブが多くなったような気がする。
曲がってから230メートルほど、大野一区からは350メートルほどの所に、次のバス停「大野二区」があった。ポールは下り側のみに設置。

バス停の先に大きな落葉樹があり、「大野のえのき」という名の保存樹の表示があった。
秋田で大木といえばケヤキの印象が強く、エノキの木自体、珍しいかもしれない。なるほどケヤキとは枝ぶりが違う。

さらに先には、ケヤキの保存樹もあった。

何度も言いますが、この幅の道をバスが通るんですよ!
大野二区から300メートル強進むと、神社があった。

秋田の農村によくある、いわゆる旧「村社」という位置づけの神社かと思われる。(表示はなかったはず)
銅製の鳥居が立派で、境内や社殿もしっかりと維持されているようだ。

境内には、いくつかの石碑があった


文久3(1863)年生まれで、明治時代に地域の農業の発展に貢献した方らしい。
もう1つ、「相場勘四郎君」の「彰徳碑」もあった。こちらは慶応元(1865)年生まれ、村議会議員や郡議会議員などを歴任し、「大野潟ノ開墾」などでやはり農業の発展に尽くしたようだ。

菅江真澄(すがえますみ。1754年-1829年)は、江戸時代の紀行家、博物学者。
愛知県豊橋の生まれだが、信州から北海道の辺りを巡って、今で言う民俗学な記録を残している。特に秋田には30年も住み、県内(藩内)各地を見て回った。
現在は、菅江真澄が訪れた秋田の各地に「菅江真澄の道」という表示が建てられている。表示は市街地から山間部までいろいろな場所で見ることができ、まさに“くまなく”回っていたことを感じさせられる。大野八幡神社の表示は、平成元年設置。
それによれば、著作「月の出羽路河辺郡」において、「文化12(1815)年」(3月か5月かと思われるが判読不可)に「大野の女は野菜を背負って久保田の市で売ると記録」しているそうだ。

「民草(たみくさ)の手向やすらむ ひろ前に 大野のはらの甜菜(あまな)辛菜(からな)を」
この表示では具体的にどんな野菜かは分からないが、ネットで調べてみると、「瓜、茄子、おほね(=ダイコン)、牛蒡など」との記述もあるようだ。
「久保田」は秋田の城下だから今の秋田市中心部(の旭川の西側)、そこで市(いち)が立つ場所といえば通町の辺りだろうか。大野からは歩いて1時間ほどか。
通町一帯に対して、藩から朝市を独占的に行うことが認められた(家督町)のは、この記録より少し後の文久4年(1864年)とのことだが、当時から既に市は立っていたことだろう。
菅江真澄は絵も残しており、「大野の湖」という大きな池の俯瞰図がある。
それによれば、大野から二ツ屋(羽州街道の猿田川の御茶屋橋)にかけた一帯が、当時は大きな湖と言うか潟だったそうだ。
今はその面影はないが、上記、明治時代に開墾された「大野潟」がそれだろうし、今の農業試験場跡地~大住~南高校~国道13号線の向かい側辺りまでが、潟だったことになる。
1962年に開校した県立秋田南高等学校の敷地は、「二ツ屋潟」を埋め立てたものだとは聞いていたが、それも「大野の湖」の一部で、かつてはもっと広かったのだろう。
参考:「菅江真澄研究第54号」平成16年12月31日菅江真澄研究会発行(国立公文書館デジタル化資料 http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_2626056_po_54go.pdf?contentNo=1)
神社があり、周りに家屋が集まっているこの辺りは、菅江真澄が訪れた当時から陸地だったと考えてよさそうだ。

撫斬事件から315年、菅江真澄の記録から196年、そして1954年の仁井田村の秋田市への編入から57年。潟はなくなり、宅地が進んだ今でも、そうした「大野の里」の歴史を少しだけ感じることができた。
バス停2つ分しか紹介できませんでしたが、長くなったので今回はこの辺で。終点まではあと400メートル、次回はたどり着くことでしょう。
※この辺りの春の様子
※八幡神社の変化(リンク先中ほど)