🌸戦国の声を聞く3(関ヶ原の戦い他)最終回
⛳島津の強みは銃にあり
⛳島津の強みは銃にあり
☆徳川幕府は、薩摩を滅ぼさず明治維新で薩摩にやられた
*関ヶ原後での処置が近代史にまで影響した
☆徳川は薩摩を外せなかったのは、大坂城に豊臣秀頼がいたから
*西国には豊臣系の大名がひしめいていた
☆しかし、徳川が薩摩を潰せなかった理由はまだ別にある
*家康が薩摩の島津軍の強さに戦慄していたから
*関ヶ原で島津義弘は有名な中央突破による撤退戦を敢行
*家康のほうに向かって突進してきて、徳川軍に甚大な損害がでた
☆島津軍は主君島津義弘一人を逃がすため全軍が命を捨てる
*島津軍は、「捨てかまり戦法」で千人が60人になった
☆島津軍の強さの秘密は火力にあった
*当時の武士は鉄砲を卑怯な飛び道具と考えた
*足軽に持たせたが、武士は持たなかった
*薩摩ではこの考えがうすく、身分のある武士も鉄砲を使った
☆島津義弘の中央突破で、大量の銃で徳川の要人を死傷させた
*それが、家康を恐怖させ薩摩征服をあきらめさせた
⛳井伊直政が撃たれた理由
☆関ヶ原合戦で、徳川軍の先鋒大将井伊直政は被弾し二年後に死んだ
*直政ほどの高級指揮官が敗走する敵に撃たれて
*それが、家康を恐怖させ薩摩征服をあきらめさせた
⛳井伊直政が撃たれた理由
☆関ヶ原合戦で、徳川軍の先鋒大将井伊直政は被弾し二年後に死んだ
*直政ほどの高級指揮官が敗走する敵に撃たれて
*むざむざ殺されたのか?家来は人垣を作って守らなかったのか?
☆「井伊家慶長記」によると
*直政にむけ種子島鉄砲での待ち伏せ攻撃で撃たれた
*田あぜに隠れた薩摩の二人組が潜んでいた
☆関ヶ原での薩摩軍は大半が戦死と思われている
☆関ヶ原での薩摩軍は大半が戦死と思われている
*この狙撃手たちのように実は時間をかけて相当数が生還している
☆武士は家臣でもあるが、自立した領主でもある
☆武士は家臣でもあるが、自立した領主でもある
*合戦では手柄をたて領地を増やそうと独自の動きをする
*合戦参加は自分の手柄高名が第一であり、主君の護衛は二の次
*自分の家が、大切というのが武士の本音
☆日本人は君国に忠義にみえるが
*根っこには「家の利己主義」で、直政はそれで死んだ
⛳新幹線で関ヶ原を通過する愉しみ(家康篇)
⛳新幹線で関ヶ原を通過する愉しみ(家康篇)
☆東海道新幹線は関ヶ原古戦場が見物できる
☆関ケ原の家康の本陣がおかれた赤坂の丘
☆関ケ原の家康の本陣がおかれた赤坂の丘
*関ヶ原当日、朝もやのなか、家康は二人の侍女とこの丘で寝ていた
☆本陣より、家康軍は、長蛇の列で関ヶ原のほうへと行軍した
*途中で、家康は南官山を見上げたに違いない、恐怖があったであろう
*毛利勢がこの山から攻め下ってきたら
*長くのびた家康の軍列は、瞬く間に切り裂かれ壊滅した
☆ところが毛利勢は動かなかった
⛳新幹線で関ヶ原を通過する愉しみ(三成編)
☆東海道新幹線は関ヶ原古戦場が見物できる
☆本能寺の変後、秀吉が明智光秀を破った古戦場
☆山崎付近の裏山が天王山、三成の主君、秀吉公の宝寺城があった
☆「米原を通過」と電光掲示が出たらそこら一帯が三成の故郷
*トンネルを抜けると伊吹山がみえそこが関ヶ原
☆一瞬みえる白い関ヶ原病院の建物
☆そのかなたにみえる丘が三成の陣所
☆最後に三成は、ここで「小早川はひきょう」と一声叫ぶ
(敬称略)
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⛳出典、『歴史の愉しみ方』より
戦国の声を聞く3(関ヶ原の戦い他)最終回
(ネットより画像引用)
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