慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

戦国の声を聞く3(関ヶ原の戦い他)最終回

2021年04月12日 | 歴史
🌸戦国の声を聞く3(関ヶ原の戦い他)最終回

⛳島津の強みは銃にあり
 ☆徳川幕府は、薩摩を滅ぼさず明治維新で薩摩にやられた
 *関ヶ原後での処置が近代史にまで影響した
 ☆徳川は薩摩を外せなかったのは、大坂城に豊臣秀頼がいたから
 *西国には豊臣系の大名がひしめいていた
 ☆しかし、徳川が薩摩を潰せなかった理由はまだ別にある
 *家康が薩摩の島津軍の強さに戦慄していたから
 *関ヶ原で島津義弘は有名な中央突破による撤退戦を敢行
 *家康のほうに向かって突進してきて、徳川軍に甚大な損害がでた
 ☆島津軍は主君島津義弘一人を逃がすため全軍が命を捨てる
 *島津軍は、「捨てかまり戦法」で千人が60人になった
 ☆島津軍の強さの秘密は火力にあった
 *当時の武士は鉄砲を卑怯な飛び道具と考えた
 *足軽に持たせたが、武士は持たなかった
 *薩摩ではこの考えがうすく、身分のある武士も鉄砲を使った
 ☆島津義弘の中央突破で、大量の銃で徳川の要人を死傷させた
 *それが、家康を恐怖させ薩摩征服をあきらめさせた


⛳井伊直政が撃たれた理由
 ☆関ヶ原合戦で、徳川軍の先鋒大将井伊直政は被弾し二年後に死んだ
 *直政ほどの高級指揮官が敗走する敵に撃たれて
 *むざむざ殺されたのか?家来は人垣を作って守らなかったのか?
 ☆「井伊家慶長記」によると
 *直政にむけ種子島鉄砲での待ち伏せ攻撃で撃たれた
 *田あぜに隠れた薩摩の二人組が潜んでいた
 ☆関ヶ原での薩摩軍は大半が戦死と思われている
 *この狙撃手たちのように実は時間をかけて相当数が生還している
 ☆武士は家臣でもあるが、自立した領主でもある
 *合戦では手柄をたて領地を増やそうと独自の動きをする
 *合戦参加は自分の手柄高名が第一であり、主君の護衛は二の次
 *自分の家が、大切というのが武士の本音
 ☆日本人は君国に忠義にみえるが
 *根っこには「家の利己主義」で、直政はそれで死んだ

新幹線で関ヶ原を通過する愉しみ(家康篇)
 ☆東海道新幹線は関ヶ原古戦場が見物できる
 ☆関ケ原の家康の本陣がおかれた赤坂の丘
 *関ヶ原当日、朝もやのなか、家康は二人の侍女とこの丘で寝ていた
 ☆本陣より、家康軍は、長蛇の列で関ヶ原のほうへと行軍した
 *途中で、家康は南官山を見上げたに違いない、恐怖があったであろう
 *毛利勢がこの山から攻め下ってきたら
 *長くのびた家康の軍列は、瞬く間に切り裂かれ壊滅した
 ☆ところが毛利勢は動かなかった

⛳新幹線で関ヶ原を通過する愉しみ(三成編)
 ☆東海道新幹線は関ヶ原古戦場が見物できる
 ☆本能寺の変後、秀吉が明智光秀を破った古戦場
 ☆山崎付近の裏山が天王山、三成の主君、秀吉公の宝寺城があった
 ☆「米原を通過」と電光掲示が出たらそこら一帯が三成の故郷
 *トンネルを抜けると伊吹山がみえそこが関ヶ原
 ☆一瞬みえる白い関ヶ原病院の建物
 ☆そのかなたにみえる丘が三成の陣所
 ☆最後に三成は、ここで「小早川はひきょう」と一声叫ぶ
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『歴史の愉しみ方』より




戦国の声を聞く3(関ヶ原の戦い他)最終回
(ネットより画像引用)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« パレスチナ問題10(現代の... | トップ | 朝日は、新聞人権侵害大国・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事