慶喜

心意気
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江戸の公家(岩倉具視)

2014年12月24日 | 知識取得
江戸時代の公家

岩倉具視 ⇒政治家、維新の十傑












江戸の公家(ネットより引用)



新幹線から見たプレクリスマスイブ富士山

岩倉具視の生誕
容姿や言動に公家らしさがなく、朝廷儒学者伏原は、岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦

八十八卿列参事件
幕府老中が、日米修好通商条約の勅許を得るため上京
岩倉は、条約調印に反対の立場で、岩倉らの反対によって勅許は与えられなかった
岩倉による初めての政治運動であり、勝利でした

安政の大獄
大老・井伊直弼が独断で日米修好通商条約を締結
井伊は、続いてオランダ、ロシア、イギリスと次々に不平等条約を締結
幕府は、抗議した水戸藩主徳川斉昭や福井藩主松平慶永(春嶽)らを謹慎処分
孝明天皇は、水戸藩に対して井伊を糾弾するよう勅令を下した(戊午の密勅)。
幕府は、水戸藩士・鵜を打首にするなど、尊攘派や一橋派に対する大弾圧(安政の大獄)を発動
岩倉は大獄が皇室や公家にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧し、岩倉自身は幕府寄りの姿勢をとる

和宮降嫁
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、安政の大獄は収束して公武合体派が幕府内で盛り返す
岩倉は「皇国の危機を救うためには、朝廷の下で人心を取り戻す」のが必要と考えでした
岩倉は、急げば内乱となるとし、今は「公武一和」を天下に示すべきとの考えでした

岩倉失脚
長州藩主・毛利慶親が議奏・正親町三条実愛を通じて「航海遠略策」を孝明天皇に献策した
朝廷主導の公武合体、現実的開国、将来的攘夷を唱えたこの書は天皇から高い評価を受けた
孝明天皇は、諸臣に対して先に幕府老中が連署で提出した10年後の攘夷決行をおこなう誓書を公表
岩倉は、朝廷権威の高揚に努めていたのだが、結果的には和宮降嫁に賛成し、尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされた
尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになる
三条実美、姉小路公知など13名の公卿が連名で、岩倉具視らを「四奸二嬪」として弾劾する文書を関白近衛忠煕に提出
孝明天皇にまで親幕派と疑われ、岩倉は蟄居処分、岩倉は逆らわず辞官して出家し朝廷を去る

岩倉蟄居時代
岩倉は、京都から退去しなければ首を四条河原に晒すといった天誅の予告文まで受けた
岩倉は僧体になって霊源寺へ逃げ込む、翌年孝明天皇が天然痘により崩御
政治混乱期の突然の崩御で、毒殺説があり、岩倉が容疑者として疑われたが?
明治天皇が即位し摂政には二条斉敬が就任
二条城で大政奉還が行われ、公式には朝廷に政権が返上された

王政復古
岩倉は、慶喜に辞官納地をさせる計画に参加
岩倉らが、新政府人事と慶喜の処分を求める王政復古の大号令案を奏上した
有栖川宮を政府首班の総裁とし、松平春嶽・山内容堂らを議定、岩倉や大久保らを参与とする新政府が樹立
慶喜の処遇について、岩倉らが春嶽・容堂を論破して慶喜に辞官納地返上を命じることで決まる(小御所会議)
慶喜は辞官と領地の返納を謹んで受けながらも、配下の気持ちが落ち着くまでは不可能という返答をおこなった
慶喜が突然薩摩征伐を名目に、事実上京都占領を目的とした出兵を開始した(鳥羽・伏見の戦い)
岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢が決まりました

新政府は徳川慶喜征討軍を錦旗を掲げて東寺に進軍
徳川慶喜は敗北を悟り、側近数名とともにひそかに江戸へ逃れた。
徳川征伐に反対した松平春嶽の政府内での発言力は弱まり、賛成した岩倉の発言力が大きく増す

岩倉日本政府首脳へ
政府機構の再編が行われ、アメリカ合衆国の政治制度が参考にされ、行政部・立法部・司法部にわかれた三権分立型政府へ移行
岩倉はこのうち行政官の中の輔相という国内行政全般と宮中の庶務を監督する役職に就任
江戸が平定されると、天皇江戸行幸の期待が高まり、明治天皇が東京(江戸を改称)を行幸することが決まる

版籍奉還と廃藩置県
岩倉中心に、政府では版籍奉還が検討される
岩倉は版籍奉還に関する意見書を政府に提出し、行政官(知事)知事を任命し知事に領地を管理させる
支配の実態は確実に中央政府へ移し、知事個人には土地および人民は私有物ではないことを周知徹底させる
版籍奉還後、再び行政組織の再編で、古代の官制「省」を模した体制とした
政府首班を左右大臣・大納言・参議で構成、その下の行政組織として民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省の六省がおかれた
日本は一つの国家、一人の元首のもとで近代統一国家としてスタートを切る

岩倉使節団
外務卿になった岩倉には「条約改正」という難題が待ち受ける
アメリカ側は、日本の法律・諸制度が「万国公法」に準拠していないことを理由に不平等条約を要求
欧米に使節団を送り、文明開化を成し遂げた段階で条約交渉を政府方針とする
使節団には、外務卿である岩倉自らが特命全権大使として参加し、参議・木戸孝允や大蔵卿・大久保利通他
岩倉は、断髪令が出た後も髷は日本人の魂であると考え、落とすことを拒んでいた
訪米時も髷と和服姿であったが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに説得されシカゴで断髪

「征韓論」論争
西郷隆盛が依然鎖国政策をとって開国を拒否する李氏朝鮮に軍を派遣して開国させるべきだと主張
三条が閣議決定を明治天皇に奏上しようとしたが、天皇は岩倉の帰国を待って奏上するよう命じた
岩倉は、内務優先を唱えて征韓論に反対の立場を表明した
海軍卿の勝海舟も「日本には依然軍艦も輸送のための船舶も不十分で海戦はできない」という見解を示す
大蔵卿の大久保利通も「もし勝ったところで戦費に見合うだけの国益があるとは思えない」として反対
岩倉は、太政大臣代理となり、西郷隆盛の意見を退け征韓論をお流れとした
佐賀で江藤新平をかついでの不平士族の反乱(佐賀の乱)、西郷を担いだ西南戦争が勃発する

華族問題
明治初期の華族達は、する事も無く、大名出身者と公家出身者でたびたび衝突をおこしていました
岩倉の頭にあった華族とは欧州型の貴族であって、つまりその使命とは皇室を支えることにのみあるものでした
華族懲戒令(太政官達)を定めて、華族の品位を汚したものは処罰することとした
華族は、政府宮内省の管轄下へと移されました
最終的には帝国議会の貴族院が開かれたことで、旧武家も旧公家も同質化していき、華族間の対立は解消

立憲問題
岩倉もいよいよ考えを変えて、憲法制定の必要性を痛感するようになった
漸進派の伊藤はドイツ憲法を模範として議院内閣制はとらず君主大権を温存する憲法を主張した伊藤に任せる

岩倉の死去
東大医学部教授ベルツからは癌告知を受け、これが記録に残る日本初の癌告知です
明治天皇から数度の見舞いを受けたが回復することはなく、最後の天皇の見舞いの翌日死亡

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