【インド】
ダライ・ラマは声明を出した。
「すべてのチベット人は、オリンピックを妨害するべきではない」
【ロンドン】
6日、北京への聖火リレーが行われたが、祝福ムードはなく、リレーを阻もうと沿道から次々と人が飛び出す。 そして、リレー走者は、それらをかわしながら走る異様な雰囲気になった。 チベットの旗を掲げた人々と警官隊がもみ合う。 聖火を消そうとしたり奪おうとする。 消火器を持ち出す人もいた。中国と英国の警備隊はランナーを二重三重に囲みながら聖火を守る緊迫した事態となった。
【パリ】
聖火リレーは7日、フランス・パリに入る。 春に華やぐパリでのショータイムだ。
【北京】
中国共産党の高官たちは、苦虫を3匹、口の中でつぶしながら、オリンピック組織委員長・劉淇の粛清を検討し始めている。 中国の顔に泥を塗った者の末路はどうなるか決まっている。
【東京】
桜に浮かれているのか、北京に怖気ついているのか、共産帝国・中国の前にひれ伏すだけだ。
日本への聖火リレーは、長野市の発表によれば、北京2008オリンピック聖火リレー(善光寺スタート、長野市内五輪施設を巡る)が、4月26日(土)に式典と共に開催される。
★
映画 「靖国」。
昨日の田原のサンプロ。世界はチベットと北京オリンピック問題だが、田原は靖国とは。
親中国派の4人が話し合っていたが、上映反対派からは出演を断わられたと田原は不満を言う。それは、そういう議論をするのに機が熟していないと知るべしだ。
加藤紘一は、日本における中国の代理人として、中国人・監督が作ったこの映画を見るべきだと盛んに宣伝していた。 そして、この映画の製作会社は文化庁の規定に合致しているから助成金を貰ったと擁護するが、この会社は中国であることを明らかにしなかった。 中国映画に我々の税金である750万円を助成金としてくれてやったのだから、文化庁は犯罪的ですらある。
中国映画「靖国」 (配給会社アルゴ・ピクチャーズ)を、都内の映画館が、上映を取りやめることを決めたが、大阪ではやるという。
言論統制と表現発表の制限はすべきでないが、人間の御霊を安置している宗教所に土足で上がりこむべきではない。
なぜなら、この種の映画は、政治的色彩を帯びることから自由ではありえない。
製作者の特定の意図と思想なくして映画「靖国」は作れない。
かつて、ヒットラー・ナチスが、映像を巧みに操り、ナチスの台頭を招いたように、映像はそういう危険と裏腹にある。つまり、事実は真実を伝えない。
この映画には、ナレーションは無いからいいではないかと田原は言う。だから中立性があると言う。しかし、そういう短絡的な論理でもって、ある特定の政治的プロパガンダを排除することはできない。
靖国はその歴史、宗教性、人間の情念が深く織り交ぜられている場所だ。
その靖国の呪縛から逃れるには、まだ、あの戦争は遠くにはなっていない。
歴史の時間軸の中で、いつか冷静に語れる日が来るまで、そっと見守るしかないのだと思う。いつか、靖国を語れる日が来るだろう。
その時までは、世俗の政治的思惑に靖国を利用しないで頂きたい。
この映画は、中国人の李纓氏(44)の監督作品だが、「なぜ日本と中国の間で戦争に対する認識のギャップが残っているのか、問いかけたい」 と李監督は言う。
しかし、靖国を引き合いに出した戦争論は誤解を生むだけであり、人の家に土足で上がりこむような行為だ。 そういう戦争論は靖国の外でやるべきだ。
靖国は、戦死者の霊廟所であり、御霊を鎮める神聖な場所である。
例え、帝国主義の潮流にあったとしても、清冽な若者たちが我が日本の為に生命を捧げていった魂の拠り所であった。 そして、その責任を取る形で、日本の戦争指導者達は、絞首刑台の上に立ったのだ。
靖国を題材にして戦争を語ることは、無益な感情論の議論を引き起こすだけだ。
靖国は、ひっそりとした森に囲まれて、御霊に御参りし、平和の誓いを立てる場所である、と今は言おう。
(ムラマサ、月光に蒼く冴える)
ダライ・ラマは声明を出した。
「すべてのチベット人は、オリンピックを妨害するべきではない」
【ロンドン】
6日、北京への聖火リレーが行われたが、祝福ムードはなく、リレーを阻もうと沿道から次々と人が飛び出す。 そして、リレー走者は、それらをかわしながら走る異様な雰囲気になった。 チベットの旗を掲げた人々と警官隊がもみ合う。 聖火を消そうとしたり奪おうとする。 消火器を持ち出す人もいた。中国と英国の警備隊はランナーを二重三重に囲みながら聖火を守る緊迫した事態となった。
【パリ】
聖火リレーは7日、フランス・パリに入る。 春に華やぐパリでのショータイムだ。
【北京】
中国共産党の高官たちは、苦虫を3匹、口の中でつぶしながら、オリンピック組織委員長・劉淇の粛清を検討し始めている。 中国の顔に泥を塗った者の末路はどうなるか決まっている。
【東京】
桜に浮かれているのか、北京に怖気ついているのか、共産帝国・中国の前にひれ伏すだけだ。
日本への聖火リレーは、長野市の発表によれば、北京2008オリンピック聖火リレー(善光寺スタート、長野市内五輪施設を巡る)が、4月26日(土)に式典と共に開催される。
★
映画 「靖国」。
昨日の田原のサンプロ。世界はチベットと北京オリンピック問題だが、田原は靖国とは。
親中国派の4人が話し合っていたが、上映反対派からは出演を断わられたと田原は不満を言う。それは、そういう議論をするのに機が熟していないと知るべしだ。
加藤紘一は、日本における中国の代理人として、中国人・監督が作ったこの映画を見るべきだと盛んに宣伝していた。 そして、この映画の製作会社は文化庁の規定に合致しているから助成金を貰ったと擁護するが、この会社は中国であることを明らかにしなかった。 中国映画に我々の税金である750万円を助成金としてくれてやったのだから、文化庁は犯罪的ですらある。
中国映画「靖国」 (配給会社アルゴ・ピクチャーズ)を、都内の映画館が、上映を取りやめることを決めたが、大阪ではやるという。
言論統制と表現発表の制限はすべきでないが、人間の御霊を安置している宗教所に土足で上がりこむべきではない。
なぜなら、この種の映画は、政治的色彩を帯びることから自由ではありえない。
製作者の特定の意図と思想なくして映画「靖国」は作れない。
かつて、ヒットラー・ナチスが、映像を巧みに操り、ナチスの台頭を招いたように、映像はそういう危険と裏腹にある。つまり、事実は真実を伝えない。
この映画には、ナレーションは無いからいいではないかと田原は言う。だから中立性があると言う。しかし、そういう短絡的な論理でもって、ある特定の政治的プロパガンダを排除することはできない。
靖国はその歴史、宗教性、人間の情念が深く織り交ぜられている場所だ。
その靖国の呪縛から逃れるには、まだ、あの戦争は遠くにはなっていない。
歴史の時間軸の中で、いつか冷静に語れる日が来るまで、そっと見守るしかないのだと思う。いつか、靖国を語れる日が来るだろう。
その時までは、世俗の政治的思惑に靖国を利用しないで頂きたい。
この映画は、中国人の李纓氏(44)の監督作品だが、「なぜ日本と中国の間で戦争に対する認識のギャップが残っているのか、問いかけたい」 と李監督は言う。
しかし、靖国を引き合いに出した戦争論は誤解を生むだけであり、人の家に土足で上がりこむような行為だ。 そういう戦争論は靖国の外でやるべきだ。
靖国は、戦死者の霊廟所であり、御霊を鎮める神聖な場所である。
例え、帝国主義の潮流にあったとしても、清冽な若者たちが我が日本の為に生命を捧げていった魂の拠り所であった。 そして、その責任を取る形で、日本の戦争指導者達は、絞首刑台の上に立ったのだ。
靖国を題材にして戦争を語ることは、無益な感情論の議論を引き起こすだけだ。
靖国は、ひっそりとした森に囲まれて、御霊に御参りし、平和の誓いを立てる場所である、と今は言おう。
(ムラマサ、月光に蒼く冴える)