足腰大丈夫な内に出来る限り、不要雑物処分・身辺片付け整理をしよう等と思い込んでからすでに久しいが、正直なかなか進んでいない。それでもここ2~3年には、押し入れや天袋、物置、書棚等に詰まっていた古い書籍類等は、かなり大胆に処分してきた。ただ、中には「これ、面白そう・・」等と目が止まり、残してしまった書籍もまだまだ結構有る。その中に、漫画家赤塚不二夫著、元東京学芸大学附属高等学校教諭石井秀夫指導の古典入門まんがゼミナール「枕草子」(学研)が有る。多分、長男か次男かが、受験勉強中に使っていた「枕草子」の解説本・参考書の一つのようだが、錆びついた老脳でもなんとか読めそうな、まんがで描いたくだけた内容、その内いつか目を通してみよう等と仕舞い込んでいたものだ。ふっと思い出して、やおら引っ張りだしてみた。当然のこと、本格的な「枕草子」解説本、参考書とは異なり、限られたサワリの部分に絞ったものであるが、学生時代に多かれ少なかれ齧っていたはずの日本の代表的な古典、清少納言の「枕草子」も、ほとんど覚えていないし、「古典」に疎く、苦手な人間でも、十分楽しめそうで、御の字の書である。
「枕草子覚え書き」・まんがゼミナール「枕草子」 その35
第319段 「この草子、目に見え、心に思ふ事を」
清少納言が「枕草子」の成立や流布のいきさつを語った跋文(後書き文)。最初に断り書きがあり、「つれづれなる里居」の時に書いた等と、執筆の場所が語られている。次に「枕にこそは侍らめ」と答えたことから書くはめになった等、執筆の動機と題名の由来が語られている。随筆文学の祖とされる「枕草子」の事情が良くわかる段。
自分の心にすばらしいと感じたことを、人にも語り、このように書き付ければ、中宮様の御ためには、軽々しいようでおまして、いとおそれ多いことでおます。
されど、この草子は、目に見え、心に思うことを、人が見るとは考えもせずに、つれずれなる里住まいの間に、書きつづったものでおました。
あいにく、人にとっては、不都合な失言まがいのことも所々にあるよって、よう隠しおいたつもりでおましたのに、心ならずも、世間にもれ伝わってしまいました。
中宮定子様に、兄上である内大臣の伊周(これちか)様が、真新しいとじ草子(白い紙のゴージャスなノート)を献上されはりました。
中宮定子「これに何を書いたらよろしおすやろ・・・、帝は、「史記」という書を写されたそうやけど」
清少納言「帝が、しき「敷」物でおわすなら、中宮様は、「枕」がよろしおす」
中宮定子「あらっ!、エッチ!」
清少納言「キャ!」
中宮定子「でも、とても気が利いたしゃれやワ。この「枕」、そなたに賜うで」
清少納言「キャーッ!、やったあ!」
ありがたく、いみじくしあーわせ。
というわけで、このエッセイ集は、「枕草子」なのでおます。このようにぎょうさんある紙に、書き尽くす意気でおましたが、わけもようわからん事も、ずいぶん書いてしまったようどす。ほかの和歌や物語と肩並べ、人並みに批評されようなんて思うてもおらへんどした。せやから、人に読まれたのは、残念に思うとります。
原文だよーん
この草子(さうし)、目に見え、心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居(さとゐ)の程に書き集めたるを、あいなう、人のために便(びん)なき言ひ過ぐしもしつべきところどころもあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、心よりほかにこそもり出(い)でにけり。宮の御前(おまえ)に、内の大臣のたてまつり給へりけるを、「これになにを書かまし。上(うへ)の御前には、史記といふ書(ふみ)をなむ書かせ給へる」など宣(のたま)はせしを、「枕にこそは侍(はべ)らめ」と申ししかば、「さば、得てよ」とて、賜(たま)はせたりしを、あやしきを、こよやなにやと、尽きせず多(おほ)かる紙を、書き尽くさむとせしに、いともの覚えぬことぞ多かるや。
(注釈)
この草子は、私の目に映り、心に思うことを、他人が見るはずがないと思って、所在のない里居の時に、書き集めたものなのですが、困ったことに、他人に対して不都合な言い過ごしもしてしまいそうないくつかの箇所もあるので、十分隠して置いたと思っていたのに、心ならずも、世間にもれ出てしまいました。中宮様に、内大臣伊周様が献上なさって紙を前にして、中宮様が、「これに何を書いたらよいかしら。天皇様は、「史記」という書物をお書きあそばしたようだが」等とおっしゃるので、私が、「それでは、「枕」でございましょう」と申し上げたところ、「それなら、お前が取りなさい」と言って、その紙を下さったのですが、つまらないことを、あれよこれよと限りもなく沢山の紙に、全部書き尽くそうとしたので、そのために実に分けの分からないことが多いのですよ
清少納言のイメージ
(おしまい)