駅まで三十分くらいはたっぷりと歩いた。そこから、
路面電車で比治山下に乗り、山を登って、広島市現
代美術館でやっている「交わるいと 「あいだ」を
ひらく術として」展を見にいってきた。
平野薫の無題ーred NIKE-はシューズを糸の
状態へと戻してある。存在の解体である。ひいては人
類の文明、歴史の解体でもある。存在とは常に解体の恐
怖にさらされているかのようである。
関島寿子のクルミ、コウゾ、ケヤキ、などを使って構築
された構造物には目を見張る。構造物として、一つの到達
点をみたかのような洗練と自然の一体化である。ここま
でにするのにこの作家は、いかように努力されたか計り知
れない。それから、ボクが注目したのが、福本潮子の作品
である。麻を使ってあり、藍が効果的に都会的センスを伴っ
て、しかも、原風景をとらえて離さない。いかようにも、その
イマジネーションは横溢していく。ボクらはその前に立ち
才能ある人間が到達できる洗練された答えの存在をそこに
見ることになる。ボクらは「遠野」をみて、その地平に
驚愕するのみなのである。
と、あまりの時間の集積に、いや、これは、三十年、五十年、
とかかった仕事であるからして、見る方も疲れるのは当然。
朝日コーヒーで、ミックスサンドとコーヒーを所望した。
コーヒーはたっぷりとあり、濃ゆかった。
そのあと、「町の名前をひとつ」を見た。コレクション展
2017-Ⅲと題されたものだったが、さすがに収蔵された作
品群は見ごたえがあった。「町」「街」がテーマだ。
浜口陽三の「雲」などひとつの、都会で暮らす人の抱える
問題が提示されつつ、答えも同時に存在しているのではな
いか。
ボクも「街」は好きである。「町」より「街」の方が好
みである。比治山から見下ろす「街」を見て、「広島」
の街が赤穴宏の作品と頭ン中でトリミングしていた。
美術館にはひとがひとりいたくらいだった。ぜひ、たく
さんの人に見てみたいものである。といっても、ボクは
関係者でもなんでもないんだけれどね。
路面電車で比治山下に乗り、山を登って、広島市現
代美術館でやっている「交わるいと 「あいだ」を
ひらく術として」展を見にいってきた。
平野薫の無題ーred NIKE-はシューズを糸の
状態へと戻してある。存在の解体である。ひいては人
類の文明、歴史の解体でもある。存在とは常に解体の恐
怖にさらされているかのようである。
関島寿子のクルミ、コウゾ、ケヤキ、などを使って構築
された構造物には目を見張る。構造物として、一つの到達
点をみたかのような洗練と自然の一体化である。ここま
でにするのにこの作家は、いかように努力されたか計り知
れない。それから、ボクが注目したのが、福本潮子の作品
である。麻を使ってあり、藍が効果的に都会的センスを伴っ
て、しかも、原風景をとらえて離さない。いかようにも、その
イマジネーションは横溢していく。ボクらはその前に立ち
才能ある人間が到達できる洗練された答えの存在をそこに
見ることになる。ボクらは「遠野」をみて、その地平に
驚愕するのみなのである。
と、あまりの時間の集積に、いや、これは、三十年、五十年、
とかかった仕事であるからして、見る方も疲れるのは当然。
朝日コーヒーで、ミックスサンドとコーヒーを所望した。
コーヒーはたっぷりとあり、濃ゆかった。
そのあと、「町の名前をひとつ」を見た。コレクション展
2017-Ⅲと題されたものだったが、さすがに収蔵された作
品群は見ごたえがあった。「町」「街」がテーマだ。
浜口陽三の「雲」などひとつの、都会で暮らす人の抱える
問題が提示されつつ、答えも同時に存在しているのではな
いか。
ボクも「街」は好きである。「町」より「街」の方が好
みである。比治山から見下ろす「街」を見て、「広島」
の街が赤穴宏の作品と頭ン中でトリミングしていた。
美術館にはひとがひとりいたくらいだった。ぜひ、たく
さんの人に見てみたいものである。といっても、ボクは
関係者でもなんでもないんだけれどね。