花・昆虫との田舎暮らし暦

田舎暮らしも13年目、木々・草花・鳥・昆虫等々、自然は初めて知ることが多く楽しい。色々な経験を紹介していきたい

生老病死 四苦八苦 鷲田清一 森於菟 耄碌

2016年03月07日 | 日記

この歳になると自然と”死”と言うことを意識する。が、イヤなこととしてではなく人生の終盤戦をどう生きるのかの思いである。言い換えればどれだけ残っているのかわからない余生(好きではない言葉だが)に何をするのか、と言うことである。1つではないだろうあれもこれも・・・考えれば面白いものである。

仏語に”生老病死(しょうろうびょうし)”と言う言葉がある。デジタル大辞林によれば”避けることのできないこの世での人間の4種の苦悩。生まれること、老いること、病気をすること、死ぬこと。四苦。”とある。楽しいことも多い人生、生まれるも苦悩(?)と思ったものだが”苦”とは、”苦しみ”のことではなく”思うようにならない”ことを意味するようだ。楽しいことを望み、実行して生きてきた人生だが今になって振り返るとこの言葉の意味がほんの少し、分かる気になる。

辞典の最後にある”四苦(しく)”も仏語で”四苦八苦”の四苦である。八苦は”生老病死”の四苦に、

  ・愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること

  ・怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと

  ・求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと

  ・五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと   ーウィキペディアよりー

を加えたものである。こうしてあらためて考えてみると”思うようにならない”ことは多いもので特に後の四苦はどれも苦しみを伴うものばかりだ。朝日新聞の朝刊に鷲田清一氏選の”折々の言葉”と言うのが連載されている。先日は死に関し森鴎外の長男で医者の森於菟(おと)氏の言葉が紹介されていた。 

明瞭な意識の中に突如訪れる死は悲惨だ。だから“完全なる暗闇に入る前に薄明の中に身を置き”、現実の“あくどさとなまぐささ”をいったん失うことが寛容。“現実を忘れるどころか、この調子では死ですら越えて夢見そうである”という境地に入れば死は“夢のつづき”であるばかりか“望みうる唯一の生”かもしれない。

鷲田清一氏の文章では最初に”耄碌寸前  人生を模糊たる霞の中にぼかし去るには耄碌状態が一番よい”と書かれていた。死を迎える状態に至った時、心身ともこの境地に至りたいものである。

知り合いの木工家具会社から”倉庫の整理”と言うことで”薪ストーブで燃やして”と色々な木材を頂いた。燃やすには”もったいない”でボチボチと制作に取り組んだ。先ずは庭の片隅にベンチを、そして食卓テーブル上に物が散乱するのを避けるための小物入れである。下段はソファ前のテーブル横に置く本立て兼物入れ棚である。右側の写真に写るスマホ・メガネ置きは後から付け加えた。この工作中、メガネを置いて見るために製作場所に現物を持って行った。測った後、メガネを落としたのを知らず、踏んでしまった。メガネ置きを作ったのは良いが置くメガネを壊す。大きな声では言えぬオチである。

   

   

 

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