歴歩

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平城宮跡 第1次大極殿院回廊跡で掘立柱塀の柱根確認  現地見学会

2008年10月01日 | Weblog
現地説明会に700人が見学
 掘立柱塀に使われた柱根や、仏の姿を土の板に型抜きした磚仏などが見つかった奈良市の平城宮跡で、奈良文化財研究所による現地説明会があった。
 公開されたのは、奈良時代に国家の重要な儀式などをした第一次大極殿院を囲んでいた回廊の西面の遺構。考古学ファンら約700人が詰めかけた。磚などが敷かれた柱根(直径約45cm)が残っている様子や、石が敷き詰められた雨落溝などを見学した。
[参考:毎日新聞10/1]

 26日奈良文化財研究所は、奈良市の平城宮跡で第一次大極殿院(奈良市佐紀町)を囲んでいた西面の築地回廊跡から掘立柱塀に使われた柱根と雨落溝の跡、磚仏が見つかったことを発表した。
 第一次大極殿院は奈良時代に国家の重要な儀式があった場所で、全体が築地回廊(南北318m、東西178m)で囲まれている。回廊はこれまでの調査で、瓦葺で基壇上に築地を設けて礎石立ちの柱が屋根を支えたいたとみられる。

①掘立柱塀の柱穴
 平城遷都の初めには、築地塀の両側に柱と屋根を付けて通路を設けた築地回廊が造られたが、その中で東西の面は740年に聖武天皇が平城京から恭仁京(木津川市)に遷都した際に伴って解体され、後に掘立柱塀(*1)が造られた。745年に都が再び平城京に戻ると塀は解体され、築地回廊が再建される。
 今回の西面の掘立柱塀の柱穴は(*1)のものとみられ、4・5m間隔で24個見つかり、そのうち3個にコウヤマキを材とした柱根(直径約45cm)が残っていた。               
 柱穴の底には磚(長さ30cm、幅15cm、厚さ8・5cm、重さ6・5kg)が6個並べられ、間を埋めるように欠けた瓦が敷かれていた。東面ではこうした工法は確認されておらず、西面の軟弱な地盤に建てる柱が沈むのを防ぐための古代の工夫とみられるという。西面では、これまでほかの部分でも同様の工法が確認されている。
②雨落溝
 築地回廊の内側を通っていた雨落溝の跡も見つかり、大きさの違う小石が層になっていることから、何度か造り替えられたことがよく分かるという。
③磚仏                      
 西面築地回廊の調査では、中世~近世の地層から、7世紀後半に作られたとみられる「磚仏」の破片が出土した。平城宮跡で磚仏が見つかるのは初めて。見つかった破片は縦7・7cm、横4・5cm、厚さ2・3cmで、如来坐像1体が浮き彫りされている。姿や大きさは桜井市・山田寺跡出土の十二尊連坐磚仏と似ており、本来は3段4列に配していたと考えられるという。
 古代の遺物が上層から出土したのは謎であるが、宮中の仏事に用いられた可能性があるという。磚仏は現地説明会で展示される予定。
④その他
 門や暗渠の跡が東面と同じ位置から見つかり、回廊が東西対称に造られていたことを再確認した。

 現地説明会は28日午後1時半から。場所:平城宮跡の復原工事中・第1次大極殿の西隣小雨決行。
[10/27 朝日新聞、毎日新聞、産経新聞]
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平泉・柳之御所遺跡 内堀、外堀に時期差 同時に存在せず

2008年10月01日 | Weblog
 岩手県教委は、柳之御所遺跡の発掘調査で南端部の内堀と外堀では造られた時期が、同時でなく差がある可能性を示した。
 県教委生涯学習文化課は、平成20年度柳之御所遺跡第69発掘調査で、同遺跡南端部で伽羅御所に接する部分の外堀や内堀(深さ2~3m)について、外堀を埋めて溝か堀を掘り、その後に内堀を掘った形跡を確認した。年代特定はできなかった。
 二重堀ではないため、軍事的目的の必然性がなくなった。
 柳之御所遺跡は奥州藤原氏の初代清衡、二代基衡の政庁の跡地である。
一般の人を対象とした現地説明会を10月4日午後1時から行う。
[参考:9/2岩手日日新聞、10/1毎日新聞]

 写真は、昨年4月27日撮影。右写真は現地案内版より地図部。赤で囲んだ部分が20年度調査部。現在地と記された場所から北側を撮影したのが左写真。
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信楽町・玉桂寺 木造阿弥陀如来像を京都・知恩院に安置へ

2008年10月01日 | Weblog
 滋賀県甲賀市信楽町の玉桂寺(ぎょっけいじ)に安置される木造阿弥陀如来像(重文)は浄土宗の宗祖・法然(1133~1212)の高弟、源智(げんち)(1183-1238年)が、法然を供養するために作らせたとされる。この仏像を法然の廟所がある知恩院(京都市東山区)に法然八百年忌(2011年)を前に安置する計画が進んでおり、玉桂寺と知恩院を含む全国の浄土宗寺院をまとめる宗教法人「浄土宗」(宗務庁、東山区)が検討している。
 この仏像は高さ約1mで、1979年の調査で、法然が亡くなって約11カ月後の1212(建暦2)年12月24日付の源智の願文が胎内から見つかった。
 法然の思想が、自力の行(ぎょう)を励み、この世で悟りを開くことを目指す「聖道門(しょうどうもん)」から、阿弥陀を信じて念仏し、あの世で悟りを開こうとする「浄土門」に転換したことなどが記されている。
[9/30 京都新聞]

玉桂寺 (高野山真言宗・秋葉山十輪院玉桂寺)
 寺伝によれば淳仁天皇が平城宮から仮御所として造営した離宮「保良宮」跡(761-762)に空海が開いたというが確証はない。[参考:玉桂寺HP]

玉桂寺・木造阿弥陀如来像(重文)
 鎌倉時代・建暦2年(1212)作。像高98.6cm。
 本像は、昭和49年(1974)5月、文化庁・県教育委員会による文化財調査の際、鎌倉時代初期の仏師快慶の作風を伝える、安阿弥様(あんなみよう)の阿弥陀像として評価された。その後、昭和52年にX線写真撮影により、体内に納入品があることが確認された。翌年(1978)県指定文化財に指定され、さらにその翌年(1979)に像の解体が行われ、金箔が張られた内ぐり部から、14件の結縁交名(けちえんきょうみょう)が発見された。結縁交名には、同時に納入されていた「建暦2年12月24日 沙門源智敬白」と記された造像願文から、法然の弟子である源智上人が建暦2年(1212)に亡くなった法然の一周忌に際して三尺の弥陀像を造立し、像内に4万6千人の姓名を収め、極楽往生を願ったと記されていた。作風は快慶風であるが、作者は快慶本人ではなく弟子筋の仏師と推定される。昭和56年(1981)重要文化財に指定された。[参考:甲賀市HP、浄土宗HP]
 玉桂寺のHPでは、快慶の作のままになっている。行快作との説もある。

源智上人(1183~1238)
 鎌倉時代前期の浄土宗の僧。父は平師盛。
 法然が亡くなるまで18年間随侍し、法然の亡くなる直前に『一枚起請文(きしょうもん)』を授けられた。文暦元年(1234)知恩院を再興する一方で、百万遍知恩寺の基礎を築いた。著書に『選択要決』、『御臨終日記』(醐醍本所収)、『一期物語』(同)がある。[参考:浄土宗HP]

■2011.1.25 追記 その後の玉桂寺蔵・木造阿弥陀如来像(重文)
2011.1.25 京都市・知恩院 800年ぶり師弟対面・法然(御影)と源智発願の阿弥陀如来立像

2010.2.3 宗教法人浄土宗 (浄土宗宗務庁:京都府京都市、東山区) が1日、高野山真言宗・玉桂寺 (甲賀市信楽町) 所蔵の源智上人ゆかりの木造阿弥陀如来立像 (重文) を有償で浄土宗へ譲渡されたことが発表された。
当面は佛教大学の宗教文化ミュージアムで保管・研究され、2011年3月に京都国立博物館で開催されるの「法然展」に出展される。 [参考:2010.2.3ぐるっと京都、2010.2.1京都新聞]

2010.2.2 浄土宗は、高野山真言宗玉桂寺(滋賀県甲賀市信楽町)所蔵の源智上人ゆかりの木造阿弥陀如来立像(重文)の請来を受け、2月1日午前、玉桂寺で里見法雄浄土宗宗務総長導師により遷座式(仏像等の安置場所を移す際に行う儀式)を行った。
 今回の遷座は、法然上人の800回忌を迎えるのを機に、関係者と協議を進め、本年1月18日に玉桂寺から浄土宗に所有権を移す契約を締結したことにより執り行ったもの。[参照:浄土宗HP]
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