歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

明日香村・キトラ古墳 朱雀の消えた羽の先端部 赤い顔料が泥に転写

2008年10月31日 | Weblog
 文化庁は31日、奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末-8世紀初め)の石室から昨年2月に剥ぎ取った四神図「朱雀」」(縦約15cm、横約40cm)のはぎ取り部で、表面を覆った泥の裏側に羽の先端部とみられる赤色顔料や墨の線を確認したと発表した。「朱雀」は左羽の半分以上の下地の漆喰が欠け、既に失われたとされていたが、羽の先端部分の絵が泥に転写し残ったようだ。
 左羽の先端に接していた泥の裏側に、長さ1・2cm、幅6mmにわたって鋭角上の図柄が描かれていた。風切羽(かざきりばね)の先端部分とみられる黒い輪郭線の内側に赤色顔料(縦5mm、横2mm)が塗られ、羽の一部と判明。泥の厚さはわずか1mm程度だったという。
 文化庁は今後、泥をはがすかどうかなど保存方法を検討する。
 現在、村内の修理施設で保存されており、2010年の公開が検討されている。
[参考:共同通信、産経新聞、朝日新聞]
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香南市・大崎遺跡 弥生後期の竪穴住居ほか四つの時代が重なり合う

2008年10月31日 | Weblog
 高知県埋蔵文化財センターは30日、香南市徳王子の大崎遺跡から弥生時代前期・後期、中世の遺構及太平洋戦争時に作られたとみられる壕跡が見つかるなど、4つの時代が重なる遺跡と判明したと発表した。
 弥生時代前期の遺構からは、2基の土坑がみつかり、出土土器から前期前半とみられる。土杭はともに1.5×4mの長方形であり、規模からみて住居ではなく簡単な屋根をつけた貯蔵庫の可能性が考えられる。県内の弥生時代開始時の在り方を知る貴重な事例である。
 弥生時代後期の竪穴住居3軒が見つかり集落の一端が明らかとなった。円形、方形、多角形で、いずれも床面にベッド状高まりが造られていた。後期の竪穴住居は、南国安芸道路に係る発掘調査では初めての出土。
 さらに、中世の側溝や、太平洋戦争時に作られたとみられる壕跡(深さ1・8m)が見つかった。壕の規格から、機関銃を設置したと考えられる。
 現地説明会来月1日午後1時半から。少雨決行。問い合わせは、同センター(088・864・0671)。
日 時: 平成20年11月1日(土) 13時30分~15時 (小雨決行)
場 所: 徳王子大崎遺跡発掘調査現場(香南市香我美町徳王子) 
問 合: (財)高知県文化財団埋蔵文化財センター
[参考:毎日新聞、高知県教育委員会]
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福山市 池之坊墳墓群 B地点発掘調査説明会 11/2

2008年10月31日 | Weblog
 福山市教委は、池之坊墳墓群(神辺町東中条)で弥生後期から古墳時代初期の墳墓である石棺墓と木棺墓、土坑墓が見つかったと発表した。3種類が一緒に見つかるのは備後地方では珍しいという。
 市教委はJR福山駅から北へ約11kmの標高約75mの丘陵にある同遺跡群を9月中旬から発掘調査を行っていた。
 2、3世紀に作られたとみられる。墳墓群は溝によって南北2ブロックに分かれ、南側の方が人の配置を意識した作りであることから、北側より新しいようだ。埋葬後も集落を見渡せるように斜面に土坑墓を掘ったのではとみられる。
 市教委は2日、現地説明会を開く。
日 時: 平成20年11月2日(日) 午後1時30分~
場 所: 福山市神辺町大字東中条 池之坊墳墓群 発掘調査現地
      (雨天時は,福山市中条公民館にて説明会を開催)
問合先: 福山市教育委員会 社会教育部 文化課
      福山市埋蔵文化財発掘調査団
[参考:中国新聞、福山市]
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高島市 西万木遺跡 15世紀の屋敷遺構を確認

2008年10月31日 | Weblog
 市教委は30日、同市安曇川町の西万木(にしゆるぎ)遺跡から室町時代(15世紀)の屋敷の遺構の一部を確認、外周から花瓶に使ったと見られる中国銅製双耳長頸瓶(そうじちょうけいへい)が出土したと発表した。
 双耳長頸瓶は高さ約19cm、底部約8cm、口径約4cm、渦巻文「雷文」などがある。文様などから元代と推定される。長頸瓶など中国の古銅器をモデルにした銅器は「仿古(ほうこ)銅器」と呼ばれ、室町時代以降に流行し日本に多数輸入されたという。同器は全国で十数個の出土例があるが、長頸瓶の出土は全国4例目。
 当時、地域を治めていた万木氏の居館の可能性があるという。
屋敷跡は縦横約40mで壕を二重に巡らしていた。茶臼や硯、信楽焼や常滑焼などの陶器、籾殻、中国製の青磁、白磁なども出土した。
 現地説明会は2日午後1時半から。JR安曇川駅から徒歩15分。
[参考:10/30京都新聞、11/4産経新聞、(財)滋賀県文化財保護協会]

近江源氏佐々木氏支流万木氏
 治承四年(1180)八月、頼朝が伊豆で挙兵し源平合戦が始まると、佐々木秀義の子・四兄弟は頼朝のもとに馳せ参じ目覚しい活躍をする。頼朝の最初の合戦で伊豆の目代山木兼隆の首をあげたのは佐々木三郎盛綱である。佐々木氏は恩賞を得て近江の旧領地に帰還する。盛綱の兄・定綱以下の系図で、惟綱が万木氏を名乗ったとみられる。
 秀義(1112-1184)→定綱(1142-1205)→広綱(?-1221)→惟綱(万木氏)→範定(万木ニ郎)
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