歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

福山市 二子塚古墳 地積調査を開始

2008年10月29日 | Weblog
 福山市教委は、国史跡指定を目指す福山市駅家町の前方後円墳「二子塚古墳」の地積調査を始めた。
 二子塚古墳は古墳時代後期に造られた西日本でも数少ない前方後円墳全長約70mで、前方部と後円部にそれぞれ横穴式の石室がある。後円部石室は、石積みの側壁がある墓道を含めると全長22.3mで全国最長級となる。
 墓道や石室からは、土器や鉄製品、馬具などが出土。太刀の柄を飾る金具である双竜環頭柄頭(そうりゅうかんとうつかがしら、長径7.7㎝)のデザインは、向かい合った2頭の竜が各々玉を口にくわえており、国内では他に出土例がない。(国産か舶来かは不明)
[参考:中国新聞]
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福岡市 元岡・桑原遺跡群 弥生時代中期のシカ、建物などが描かれた琴の側板が出土

2008年10月29日 | Weblog
 福岡市教委が29日、福岡市西区の元岡・桑原遺跡群で、シカ、太陽、建物、トリが一緒に描かれた弥生時代中期末(約2千年前)の木製の琴が出土したと発表した。4種類の絵がそろっている木製品が見つかったのは全国で初めて。画題はすべて稲作の祭りに関係し、弥生時代の農耕祭祀を知る貴重な資料となりそうだ。
 出土した木製品は、箱型の琴の側板で、長さ89cm、幅19cm、厚さ1cmのスギ材の板。
 音を共鳴させるために開けられた円形の穴は太陽を表現しており、それをはさんで、左側に2頭のシカ、1頭のシカの脚が彫り込まれている。穴の右側に大小二つの高床式の建物、さらにその右に鳥の胴と足の部分が彫り込まれている。
 市教委によると、穴は太陽を象徴し、シカは穀物の化身、鳥は稲穂を運ぶ使いとされている。建物は穀物を収めた高床式とみられる倉庫で、寄せ棟造りの珍しいものだ。これらの組み合わせで、弥生時代の農耕儀礼の様子を表しているという。
弥生時代の琴は100例ほど出土しているが、絵があるのは数例しかなく、4種類も絵があるものはこれまで発見されていない。
 同遺跡は、「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の一部とされる。祭祀用とされる丹塗(にぬ)りの土器などが大量に出土しており、琴も祭祀の儀式に使われたとみられる。
 出土品は11月1~9日、福岡市博多区の市埋蔵文化財センター(博多区)で一般公開する。
[参考:10/29朝日新聞、時事通信、西日本新聞]
福岡市西区・元岡遺跡群から出土 弥生中期末 赤い翳形木製品 「伊都国」の先進性示す(西日本新聞) - goo ニュース

[前出]


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源氏物語「梅枝」の写本に、原作に近い別本を発見 勝海舟の蔵書印も

2008年10月29日 | Weblog
 甲南女子大学(神戸市)の図書館で保存されている源氏物語第32巻「梅枝(うめがえ)」の写本が、鎌倉時代中期に書かれた「別本」と呼ばれるものだったことが29日、同大文学部の米田明美教授(日本文学)の調査で分かった。現存する「梅枝」の写本では「保坂本」と呼ばれるものと並び最古級という。
 源氏物語の代表的な写本の藤原定家編纂「青表紙本」とは異なる独自の文があり、「光源氏」と「紫の上」の会話の中などにこれまでにない描写が多数あり、米田教授は「紫式部が書いた原作に近い可能性もある」としている。
 米田教授は「これだけ古い別本が出てくることは、今後ほとんどないでしょう」と話す。同大が1973年に京都の古書店で購入した「梅枝の巻」の写本は、主流である「河内本」とされていたため、長年図書館の保管庫に保存され顧みられることはなかった。が、千年紀を機に再読していた米田教授はこれまでの写本と異なる記述があることに気づいた。
 光源氏が紫の上を「あなたの書は素晴らしい」とほめる場面。他の写本ではこれに対する紫の上のせりふはないが、この写本では「いたうなすかし給そ(ご冗談をおっしゃいますな)」と答えていた。
 これまで寡黙とされていた紫の上と、光源氏との仲むつまじさが伝わってくる記述で、米田教授は「まさか別本では」と胸が高鳴ったという。
 写本には「勝安芳」の蔵書印があり、江戸時代末期から明治にかけて活躍した勝海舟が、元号が明治に変わってから名乗っていた名前とみられ、軍艦奉行を罷免され、閉居していたときに読んでいたと推測される。米田教授は「『女が読むもの』と思われがちな源氏物語を、軍事の専門家が読んでいた。維新後、気持ちに余裕ができた海舟が恋物語を手に取ったのかななどと思いをめぐらせるだけでも楽しい」と話す。
 勝の半生を描いた「それからの海舟」の著者である作家、半藤一利さんは「面白い。でも勝は女性的なのが嫌いだから、本当に読めたのかなあ」と笑いながら話した。
 関西大の田中登教授(日本文学)に鑑定を依頼したところ、線が太く力強い書風や「斐紙(ひし)」と呼ばれる紙に書かれているなどのことから現存する「梅枝」の巻の写本では最も古い年代で、鎌倉時代中期の1240-80年ごろに書き写されたものと鑑定した。 
 54巻から成る源氏物語は作者紫式部が書いた原本はなく、書き写しで伝えられてきた。鎌倉時代初期に藤原定家が書写した青表紙本で現存するのは4巻だけとされ、梅枝は含まれていない。
[参考:10/29時事通信、共同通信、毎日新聞、産経新聞、読売新聞]
源氏物語の最古級写本 「梅枝」の巻、鎌倉中期 (共同通信) - goo ニュース
源氏物語に新描写の別本=鎌倉中期の写本、原作に近い?第32巻、甲南女子大所蔵(時事通信) - goo ニュース

[参考:2008.7.22前出]

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伊達市・宮脇遺跡 室町期の霊山寺跡 発掘調査現地説明会開催案内

2008年10月29日 | Weblog
 表題の現地説明会が予定されています。
 2006年に室町時代の寺院跡とみられる礎石や瓦、ほかに青磁、古瀬戸などが発見されました。1401年に大石地区に再興されたと伝えられる「霊山寺」の有力な候補になるとされ、このうち菊の文様が配された軒平瓦は、同市梁川町の伊達家が建立した筆頭寺院格である東昌寺跡でも発見されているため、伊達家の関与が示唆されました。
 2007年には、新たな礎石建物跡1棟と掘立建物跡1棟が発見され、霊山寺跡とほぼ断定されました。
 礎石建物跡には火災で倒壊した可能性があり、大量の瓦が出土していることから、当時では珍しい総瓦葺きの建物だったと推定されています。
 今年度は、新たに室町時代の建物跡が見つかりました。礎石が確認され、茶碗や茶壺の一部が見つかり、寺院の生活関連施設とみられます。

発掘調査現地説明会
 日 時: 2008年11月1日(土)午後1時30分~
 場 所: 宮脇遺跡(伊達市霊山町大石字宮脇)
 主 催: 伊達市教育委員会

[参考:福島民法、福島県文化財センター「まほろん」、10/29毎日新聞]

霊山寺概要: 福島県伊達市霊山町・相馬市
 2500から3000万年前の火山活動で生まれた霊山は奇岩がそそりたち、高山植物の宝庫、紅葉の名所として、国の史跡、名勝に指定されている。
 霊山城址に立てられている説明板には、下記が記されている。
 霊山(りょうぜん)は貞観元年(859)、比叡山延暦寺の座主円仁(慈覚大師)によって開山されたといわれ、釈迦が修行したというインドの霊鷲山(りょうじゅせん)に因み霊山と命名され、山号を南岳山山王院霊山寺と称した。往時は伊達・宇多・刈田を寺領とし、南奥における宗教・文化の中心地として栄えた。
 下って延元2年(1337)正月、陸奥の守北畠顕家は後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて霊山に拠り、南朝再興を策してここに国府を開いたが、貞和3年(1347)北朝方の勢力に抗しきれずついに落城し、山中の堂宇はことごとく消失した。今霊山山中には数多くの遺跡群が埋もれており、往時の栄華を今に伝えている。
 このような悠久の歴史を秘め、四季折々に山容を変える霊山は、玄武岩質の火山角礫岩によって構成されており、長い年月にわたる風化侵食作用によって出来た奇岩怪岩と、岩間に映える新緑、紅葉はすばらしく天下の景勝地として広く知られているところである。
          昭和60年12月     文化庁、霊山町教育委員会

 霊山寺は天台宗の東北中心として隆盛を極め、以来500年平泉の北奥文化に対し霊山は南奥文化として栄華を極めたといわれるが、その性格は全く異なる。最大標高825mの霊山、その標高約760mのところに霊山寺は建立され、3600坊の大伽藍を誇る東北山岳仏教文化の中心であった。
 現在、霊山に登るには「霊山こどもの村」の直ぐ上、標高約530mのところに駐車場があり、そこを利用すると便利である。直ぐに登山口がある。駐車場脇に説明板があり、下記が記されている。
 この山は元は不忘山と言ったが、貞観元年(859) 滋覚大師円仁が南岳山山王院霊山寺を創建し、霊山と改めた。以後天台修験の霊場となった。
 南北朝の争いで焼失後、伊達氏が再興し(注)霊山寺を中心に衆徒12坊があった。会津藩となって寺領を失い、堂宇破壊され現位置に移った。
 大正13年中腹の霊山寺跡が発掘調査され、千手観音堂を根本中堂とした僧坊3600と称された霊山寺の規模が明らかになった。
 霊山寺跡の隣の日吉神社は山王権現を祀ったものである。尚北麓の霊山神社は、明治14年南朝正統論の立場から創建されたもの。

(注) ここで、「伊達氏が再興し・・・」とあるが、再興した場所は霊山でなく、宮脇遺跡(標高約130m)ということになる。

[関連年表]
 貞観元年(859) 第3代天台座主円仁(慈覚大師)によって開山される
 元弘3年(1333) 後醍醐天皇は奥州政府開府のため、義良親王(後の後村上天皇)と陸奥国司・北畠顕家を多賀の国府へ下した。
 建武2年(1335) 顕家らは数万の奥州兵を率いて、京都の足利尊氏軍を追い払うのに成功し、凱旋帰国したが、まもなく足利方によって多賀城が危うくなる。
 建武4年(1337) 義良親王と顕家は霊山寺の勢力と南朝の有力武将であった伊達氏7代当主の行朝(行宗)、結城宗広入道を頼り、霊山寺に移った。国府を多賀城から移し、社寺仏閣を霊山城として利用した。
 建武5年(1338) 顕家が討死にし、北朝方に攻め込まれ堂宇のほとんどが焼失した。
 正平2年(1347)足利尊氏軍によりついに落城し寺院や城は消失。伊達氏は北朝に降った。
 応永8年(1401)頃 伊達氏宗(1371~1412)が宮脇遺跡の地に再建する。(衆徒21坊が存在)
 寛永17年(1641) 霊山寺跡から約6km北の場所である場所に移し、現在の霊山寺を再建した。
[参考: 宮脇遺跡第2次調査現地説明会資料(伊達市教育委員会)、「霊山寺縁起」]

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