歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

岩手県矢巾町 徳丹城跡から道路遺構 古代の官道か

2008年10月04日 | Weblog
 矢巾町教委が発掘調査を進める国史跡徳丹城跡から、奈良・平安時代の官道とみられる道路遺構が見つかった。
 出土した3本の溝跡は側溝で、西側溝と中央溝の間隔は律用国家時代の「天平尺」で20尺(約6m)、東側溝と中央溝との間隔は14尺(約4.2m)で、計34尺(約10.2m)であり、その直線的形状や道幅の規格は古代官道の特徴と合致する。
 徳丹城(812年ごろ造営)より古い時期に造られたとみられる。国府多賀城(宮城県多賀城市)以北の官道ルート解明への手掛かりとなる。
 道路遺構が徳丹城造営より古く、南北に延びているため、道は徳丹城以前に造営された志波城へ向かう可能性がある。
 蝦夷が住む東北地方を支配下に収めるため、律令国家が建設した行政・軍事拠点「城柵」として、岩手県内では802年に胆沢城(奥州市)、803年に志波城(盛岡市)が造られた。この2つは坂上田村麻呂の造営である。811年に志波城が水害に遭い、812年に文室綿麻呂の建議により南東11kmに移転・造営したのが徳丹城である。
[参考:10/3岩手日報]

写真は志波城址
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平泉町・無量光院跡 古い溝跡、導水路か

2008年10月04日 | Weblog
 平泉町文化財センターは、国特別史跡「無量光院跡」の20年度発掘調査で、池の西側土塁の裾で用水路の下から古い溝跡を確認した。溝の底が砂となっていることから、12世紀のものであれば池に水を引く導水路の可能性があるとして遺物の科学的分析を進める。
 溝跡は長さ2・3m、幅0・7m、深さ0・3m。また、昨年板状の部材が見つかった池の縁である西側土の近くで新たな板の一部(幅40cm、厚さ2,3cm)も出土した。何に使われていたのかなど検証する方針とする。
 さらに本堂から北東約100mの場所で、池の北端とみられる土塁も見つかった。
 調査は9月31日に終了する予定で、一般の人を対象にした現地説明会を4日午後2時15分から行う。
[参考:9/30岩手日日新聞、10/3毎日新聞]
備考
吾妻鏡文治5年(1189)己酉 9月17日 甲戌
無量光院(新御堂と号す)の事
 秀衡これを建立す。その堂内の四壁の扉に観経の大意を図絵す。しかのみならず秀衡自ら狩猟の躰を図絵す。本仏は阿弥陀の丈六なり。三重の宝塔・院内の荘厳、悉く以て宇治平等院を模す所なり。

写真は、現地・無量光院跡の案内板
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小浜市 若狭武田氏館跡 現地説明会

2008年10月04日 | Weblog
 福井県小浜市世界遺産推進室は2日、同市男山の旧小浜小学校跡地の校庭で進めてきた若狭武田氏の館跡の発掘調査で館が建設された16世紀中ごろの堀跡とみられる遺構を発見したと発表した。
 文献などによると、武田氏は後瀬山(のちせやま、標高168m)の山頂に城を築くのに合わせて北側の山裾に館を造営し、東、西、北の三方に堀を巡らせたとしており、文献にある堀の存在が裏付けられたとする。
 館は1522年、後瀬山城を築いた若狭武田氏5代の元光(1494~1551)が同時に山麓に構えた。
現在の空印寺から旧小浜小にかけての範囲にあったとみられている。
 館跡周辺の発掘は、市の重要事業として2006年度から4カ年計画で実施し、これまでに校庭から石組み遺構の上端部分が見つかっていた。
 本年度は、校庭に4本の試掘坑を設けた中から、同一延長線上の2本で堀跡を確認した。
 空印寺との境界に近い試掘坑からは深さ2・5m、幅5mの堀跡が見つかった。堀の外周側は土で固め、館建設当初の姿を残し、館側の面は5段に石を積んでいた。確認された堀跡は長さ約6m、底の幅が約3m。館の外側にあたる西側の堀は素掘りで、深さは約1m。近くで見つかった食器などの年代から、武田元光が大永2年(1522)に館を建てた際に設けた堀とみられる。
 一方、館の内側にあたる東側面の堀は深さ約2mで、ほぼ垂直の石組み。石垣の下段は石が規則正しく並んでおり、武田氏の滅亡後に若狭国を治めた織田信長の重臣、丹羽長秀(1535~85)が再整備し築いた堀の可能性があるという。上段は、幅1mほどの大きな石が積まれ、補強のための裏込め石もあった。石の並びが不規則で、後世に度々組み直されたと思われる。長秀の後に同地に居住した浅野、木下、京極氏らの時期のものらしい。
 堀底からは、武田氏の時期の素焼きの土師器皿、越前焼のすり鉢などが出土。昭和前期のガラス瓶なども見つかっていることから、校庭を造成した昭和30年代ごろまでは、堀の遺構がくぼ地として残っていたとみられている。
 約30m離れた試掘坑からも堀跡と石垣が見つかり、連続性が確認された。
堀は山側以外の三方を囲む形で、当時の絵図などを参考にすると、南北約120m、東西約110mの長さに及んでいたと推測。
空印寺と旧小浜小の境界付近には土塁とみられる盛り上がりがあることから、武田氏の館は、堀と土塁を巡らせた戦国大名にふさわしい守りの強固な造りだったとする。
 後瀬山城は、1997年に約35ヘクタールが国史跡に指定された。市は、来年度も旧小浜小周辺で補足調査を行い、文化庁に国史跡・後瀬山(のちせやま)城跡のの指定範囲拡大を申請する方針。市は、指定範囲拡大を目指す方針。
 4日午後2時から、現地説明会を開催(雨天決行)。
[参考:10/3福井新聞、読売新聞]
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