矢巾町教委が発掘調査を進める国史跡徳丹城跡から、奈良・平安時代の官道とみられる道路遺構が見つかった。
出土した3本の溝跡は側溝で、西側溝と中央溝の間隔は律用国家時代の「天平尺」で20尺(約6m)、東側溝と中央溝との間隔は14尺(約4.2m)で、計34尺(約10.2m)であり、その直線的形状や道幅の規格は古代官道の特徴と合致する。
徳丹城(812年ごろ造営)より古い時期に造られたとみられる。国府多賀城(宮城県多賀城市)以北の官道ルート解明への手掛かりとなる。
道路遺構が徳丹城造営より古く、南北に延びているため、道は徳丹城以前に造営された志波城へ向かう可能性がある。
蝦夷が住む東北地方を支配下に収めるため、律令国家が建設した行政・軍事拠点「城柵」として、岩手県内では802年に胆沢城(奥州市)、803年に志波城(盛岡市)が造られた。この2つは坂上田村麻呂の造営である。811年に志波城が水害に遭い、812年に文室綿麻呂の建議により南東11kmに移転・造営したのが徳丹城である。
[参考:10/3岩手日報]
写真は志波城址
出土した3本の溝跡は側溝で、西側溝と中央溝の間隔は律用国家時代の「天平尺」で20尺(約6m)、東側溝と中央溝との間隔は14尺(約4.2m)で、計34尺(約10.2m)であり、その直線的形状や道幅の規格は古代官道の特徴と合致する。
徳丹城(812年ごろ造営)より古い時期に造られたとみられる。国府多賀城(宮城県多賀城市)以北の官道ルート解明への手掛かりとなる。
道路遺構が徳丹城造営より古く、南北に延びているため、道は徳丹城以前に造営された志波城へ向かう可能性がある。
蝦夷が住む東北地方を支配下に収めるため、律令国家が建設した行政・軍事拠点「城柵」として、岩手県内では802年に胆沢城(奥州市)、803年に志波城(盛岡市)が造られた。この2つは坂上田村麻呂の造営である。811年に志波城が水害に遭い、812年に文室綿麻呂の建議により南東11kmに移転・造営したのが徳丹城である。
[参考:10/3岩手日報]
写真は志波城址