岐阜市教育委員会は6日、岐阜公園内の織田信長公居館跡発掘調査で、茶室とみられる遺構が見つかったと発表した。
市教委は昨年12月に西隣りで見つかった遺構を、茶室または蔵と推定していたが、二つの遺構の位置関係から、昨年見つかった遺構は居館、今回見つかった遺構は茶室の可能性が高まったとみている。
遺構として見つかった石垣はL字形に造成され、延長約15m。居館跡を囲んでいた溝は長さ約10mで、石で組んであった。
織田信長は1567年(永禄10年)、金華山(稲葉山)山頂の稲葉山城(注1)を斉藤龍興から攻め落とし、城を岐阜城と改め入城。安土城が築城されるまでの9年間拠点とした。1600年、関ヶ原の合戦の前哨戦で福島正則や池田輝政らに攻め落とされ、居館も焼き落とされた。
居館は、金華山の西の山裾にあったことが複数の史料で判明しており、これまでの発掘調査では巨石を並べた居館への入り口とみられる遺構、かまどや井戸跡などが見つかっている。
昨年12月に西隣りで見つかった遺構を、茶室または蔵と推定していたが、その後、その西側から建物跡が見つからず、東側(山側)から今回の建物跡が発見された。建物跡東側は山斜面となっており、ほかに建物があったとは考えられないことから、昨年見つかった遺構は居館で、今回見つかった遺構は茶室の可能性が極めて高いと結論付けた。
1569年に居館を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが著書「日本史」に書き残した著書に「4階建てで2階には大部屋と奥方の部屋がある。3階は山側の(別の)建物にある茶室と通路でつながっている」との記述がある。これは西側地区にあった建物群を1階部分と認識し、今回の東側の建物跡(3階建て)を2階以上の部分と見ていたのではないかという解釈をした。
市教委は今後も調査し、2009年度の国史跡指定を目指す。
現地説明会を11日午後1時~3時から、明治大帝像前にて開催する。(少雨決行)
[参考: 読売新聞、中日新聞、岐阜市HP→信長の居館発掘→織田信長公居館跡発掘調査]
注1:岐阜城(稲葉山城)は、建仁元年(1201)に鎌倉幕府政所執事・二階堂行政が金華山(稲葉山)に築城したとの説、戦国時代の永正6年(1509)に美濃国守護土岐氏に仕えた守護代斎藤氏による築城説がある。
市教委は昨年12月に西隣りで見つかった遺構を、茶室または蔵と推定していたが、二つの遺構の位置関係から、昨年見つかった遺構は居館、今回見つかった遺構は茶室の可能性が高まったとみている。
遺構として見つかった石垣はL字形に造成され、延長約15m。居館跡を囲んでいた溝は長さ約10mで、石で組んであった。
織田信長は1567年(永禄10年)、金華山(稲葉山)山頂の稲葉山城(注1)を斉藤龍興から攻め落とし、城を岐阜城と改め入城。安土城が築城されるまでの9年間拠点とした。1600年、関ヶ原の合戦の前哨戦で福島正則や池田輝政らに攻め落とされ、居館も焼き落とされた。
居館は、金華山の西の山裾にあったことが複数の史料で判明しており、これまでの発掘調査では巨石を並べた居館への入り口とみられる遺構、かまどや井戸跡などが見つかっている。
昨年12月に西隣りで見つかった遺構を、茶室または蔵と推定していたが、その後、その西側から建物跡が見つからず、東側(山側)から今回の建物跡が発見された。建物跡東側は山斜面となっており、ほかに建物があったとは考えられないことから、昨年見つかった遺構は居館で、今回見つかった遺構は茶室の可能性が極めて高いと結論付けた。
1569年に居館を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが著書「日本史」に書き残した著書に「4階建てで2階には大部屋と奥方の部屋がある。3階は山側の(別の)建物にある茶室と通路でつながっている」との記述がある。これは西側地区にあった建物群を1階部分と認識し、今回の東側の建物跡(3階建て)を2階以上の部分と見ていたのではないかという解釈をした。
市教委は今後も調査し、2009年度の国史跡指定を目指す。
現地説明会を11日午後1時~3時から、明治大帝像前にて開催する。(少雨決行)
[参考: 読売新聞、中日新聞、岐阜市HP→信長の居館発掘→織田信長公居館跡発掘調査]
注1:岐阜城(稲葉山城)は、建仁元年(1201)に鎌倉幕府政所執事・二階堂行政が金華山(稲葉山)に築城したとの説、戦国時代の永正6年(1509)に美濃国守護土岐氏に仕えた守護代斎藤氏による築城説がある。