歴歩

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茅ケ崎市・下寺尾七堂伽藍跡 伽藍跡遺構見つかる

2008年10月25日 | Weblog

下寺尾官衙遺跡群出土瓦類と懸仏。 2011.6.14「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて撮影。

 奈良時代から平安時代の遺跡とされる茅ケ崎市の下寺尾七堂伽藍跡から寺院の主要建物と見られる遺構が見つかった。
 同伽藍跡は78年の第1回確認調査で古代の寺院跡と分かった。今回の調査では、一辺8m以上の寺院の主要建物の一つらしい基礎の造成部分が地中60~70cmで見つかった。主要建物はお堂や塔などが考えられるが、はっきりしていないという。また、寺院の中心を囲んでいた溝も確認された。

下寺尾七堂伽藍跡 第13次確認調査 現地説明
 日 時: 平成20年10月26日(日) 第1回 午前10:00~、 第2回 午後13:00~ ※小雨決行
 場 所: 下寺尾七堂伽藍跡 現地 (茅ヶ崎市下寺尾151)
【下寺尾七堂伽藍跡について】
 昭和53年に行われた第1回確認調査で、寺院跡であることが確認された。
その後、出土した瓦の研究などから、国分寺より古い相模国における初期寺院であることが指摘されている。また、近接の県立茅ヶ崎北陵高校校地内から、同じ古代の役所跡である「高座郡衙」が発見され、役所と寺院とが近接する事例として全国的にも注目されている。
【保存整備に伴う発掘調査成果】
 保存整備のため平成12年度より12回の確認調査が実施されている。
その結果、伽藍を区画する遺構が確認され、遺跡の状況から、奈良時代初期(7世紀末)の創建期と9世紀頃の改修期があることが判明。
寺院に関連する遺物が出土しており、寺院になる前には古墳時代の集落が営まれていたことがわかった。また、寺院が廃絶された後の中世において土地改変を受けていたなどの成果が上がっている。
[参考:10/25毎日新聞、茅ヶ崎市教育委員会]

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武蔵府中熊野神社古墳 上円下方墳で初めての、1段目に「前庭部」

2008年10月25日 | Weblog
上円下方墳で初めての、1段目に「前庭部」
 府中市は24日、復元工事を進めていた武蔵府中熊野神社古墳(西府町2)で、石室の入り口に続く前庭部を発見したと発表した。上円下方墳でこのような遺構が見つかるのは初めてで、古代の多摩地域と畿内との強い結びつきを示すとみる。
 遺構は熊野神社本殿の真下で、今まで手つかずであったが、今回の復元工事のために本殿を西側に移動し20~30cmほど盛り土を取り除いたところ、奥行き約4.5m、横幅約2mのシルト岩を並べた縁石が露出した。
 縁石は3段構造の古墳の1段目に「ハ」の字を描くようにして前庭部を形成していた。上円下方墳では、2段目にだけ前庭部を持つのが一般的。
 今回見つかった遺構は埋め戻されるが、市は来春までに保存工事を終え、古墳を一般に公開する。
[参考:毎日新聞]

“ウィキペディア”によると、「武蔵府中熊野神社古墳の主体部は複室構造の横穴式石室で、八の字に開く前庭部と呼ばれる墓前域、そして入り口側から前室、後室、玄室という3室があり、一段目墳丘上に造営されている。』と書かれている。
しからば、「1段目に前庭部は初」とは何を示すのか、写真あるいは詳細な情報を待ちたい。

[9/30掲載分]
 標題のニュースが9月に入り、読売新聞、朝日新聞、日経新聞などで取上げられている。要約すると、
 埋葬施設の横穴式石室を埋め戻し、当時と同様に版築工法を用いて墳丘を再現する。壁面は玉石を積み重ねた石張りにする。完成時の高さは6.5m。その工事が始まった。墳丘のあった場所に建っている現在の神社本殿、山車小屋など建物は可能な範囲で移設する。来春公開する予定。
ということである。

《最古・最大規模》
上記記事の共通のキーワードとしては、「最大、上円下方墳、国史跡、(横穴式)石室、来春までに復元」であるが、気になるワードとして「最古」と書いているものがある。もちろん、上円下方墳としての中でのことであるが。
文化庁は、平成17年5月20日付けの文化審議会答申「史跡等の指定等について」で熊野神社古墳の年代について「古墳の築造時期は横穴式石室や鞘尻金具の特徴から、7世紀中頃から後半と考えられる。本古墳は、調査で確認された上円下方墳としては、史跡石のカラト古墳(京都府・奈良県)、清水柳北1号墳(静岡県)に次いで3例目であり、このうちで最も大きく、かつ古くなる可能性が高い。」と記している。
すなわち、三鷹市の天文台構内古墳が昨年12月に上円下方墳と確認され、さらに今年になって須恵器の壺が出土し、そこから7世紀の中頃と時代が判明するまでは最古と言えたが、今は熊野神社古墳が最古とは言えない。ところが、今月6、7日に行われた天文台構内古墳の現地説明会の資料では、「天文台構内古墳を上円下方墳のひとつの類型とし、熊野神社古墳を典型的な上円下方墳」と記しているのが気になる。
備考:
上円下方墳と確認されたもの
 ①武蔵府中熊野神社古墳(府中市、7C中~後半) ②石のカラト古墳(奈良と京都の県境、7C末~8C初頭) ③清水柳北一号墳(沼津市、8C初頭)
上円下方墳の可能性があるもの
 ①宮塚古墳(熊谷市) ②山王塚古墳(川越市) 

 三鷹市天文台構内古墳(三鷹市)はどちらに入るのであろうか。一般的には確認されたとみるが、専門的には確定ではないのかも?
 山王塚古墳は、川越市教育委員会(現地案内板)によると、市指定史跡であり、方形部63m、円形部径47m、高さ4.5mの東日本最大の上円下方墳だろうと記している。もし、この古墳が発掘調査の上、上円下方墳ということになれば最大規模となる。

《北緯35度40分上の3古墳》
 北緯35度40分ライン上の、多摩川の西側に北大谷古墳(八王子市)、東側に熊野神社古墳がある。古墳形状が違うものの築造の特徴が似ており、さらには同じライン上に同じような特徴の古墳があるのではと推測されていたらしい。天文台構内古墳が発掘される毎に、それがはっきりと当てはまるようになってきた。
 北大谷古墳は円墳ないし方墳であり、熊野神社古墳および天文台構内古墳は上円下方墳である。周辺の他の古墳を凌駕する規模である、中軸は角度の差があるもの南北方向である、版築工法を使用する、シルト岩を利用している、複室構造胴張り形横穴式石室を持つ、玄室床面に敷石を置く、埴輪がない、周溝(または周濠)がある、築造時期は7世紀である、などの共通点がある。多摩川周辺の有力者の連合の現われか興味のあるところ。
[天文台構内古墳 前出1 前出2 前出3]
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羽曳野市・峯ヶ塚古墳 周濠南側内堤に土塊を用いた盛土

2008年10月25日 | Weblog
 22日、羽曳野市教委は、百舌鳥・古市古墳群・峯ヶ塚(みねがづか)古墳(5世紀末~6世紀初め)で、周濠南側の(内)堤が、質の違う土塊を用いた盛土によって構築されていたと発表した。
北側は2重の周濠が巡るが、南側についてはわかっていなかった。今回、堤(内堤)の所在を確認できた。
 今回出土した堤(幅9m、高さ2m)の断面から、ラグビーボール大の粘土質土の塊を約1m間隔で盛り上げ、その透き間を黄色い砂質土で埋め、固く締まるようにしていたことが判明した。形状から粘土質土は鋤、砂質土は運搬道具のもっこで運んだらしい。
 市教委は「当時としては高度な土木技術。陵墓指定されている巨大古墳は発掘できず、同様の工法がとられていたことが推測できる」としている。強固にするための工夫で、巨大古墳の築造技術の解明につながる手がかりになりそうだ。
現地説明会は、25日午前10時~午後2時に行われる
場 所: 羽曳野市軽里所在峰塚公園内 峯ヶ塚古墳調査現場
最寄駅: 近鉄南大阪線古市駅下車徒歩西へ約1km
[参考:読売新聞、羽曳野市教育委員会社会教育課]

峯ヶ塚古墳 (羽曳野市軽里2丁目)
周辺には仁賢陵古墳や白鳥陵古墳の大型前後円墳が多く築かれている。
墳丘長96m、後円部径56m、前方部幅74mの前方後円墳。二重の周濠と堤をもつ。昭和49年に国の史跡に指定。
5世紀末から6世紀初頭に築かれた、大王陵クラスの古墳とみられる。
これまで9回の発掘調査が行われ、なかでも第4次調査では後円部の主体部が調査され、幅広の竪穴式石室か竪穴系横口式石室の一部と豪華な副葬品が発見された。阿蘇産凝灰岩の石棺が納められていたとみられ、石室内部には金銅製の魚形の飾りを付けた太刀15本以上や挂甲・馬具・ガラス玉や管玉など3,000点を越える副葬品が発見された。
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宮城県 多賀城跡 政庁創建時の西辺の石垣発見

2008年10月25日 | Weblog
 県多賀城跡調査研究所は23日、多賀城政庁跡外側から、8世紀前半の政庁を創建する際に造成した整地層の南辺と西辺の石垣の一部を発見したと発表した。
 石垣は政庁跡南側に続く政庁南面地区から見つかり、石垣は高さ1―2m、長さは南辺が約2m、西辺が約4mの規模。
 外郭南門周辺の田屋場地区では、外郭南門跡の南に延びる「南北大路跡」(幅約18―25m)を確認。さらに南側で既に発見され場所と一直線上につながることが分かった。
 現地説明会が25日(土)午前10時から行われる。
◆会場:多賀城跡第80次発掘調査現場(多賀城市市川字田屋場・城前地内)
[参考:河北新報、宮城県宮城県教育庁文化財保護課 ]
多賀城跡 政庁創建時の石垣発見 県調査研 (河北新報) - goo ニュース
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宮城県亘理町 三十三間堂官衙遺跡現地説明会予定

2008年10月25日 | Weblog
 宮城県教育庁文化財保護課より、11月1日に行われる現地見学会の新たな情報が発表されました。
 郡庁院(役所の中心施設)の東部から新たに役所に関連する建物跡とは宿泊施設である「館(たち)」と考えられようです。
[宮城県教育庁文化財保護課]

[10/7掲載分]
 三十三間堂官衙遺跡は、宮城県の南部、阿武隈川が太平洋に注ぐ河口に位置し後背は阿武隈高地の北端となる亘理町にあり、平安時代の郡衙を中心とする遺跡で、宮城県内の官衙遺跡でも最南にある。遺跡には礎石群が10箇所以上あり、郡(こおり)という地名と規模の大きさから郡衙跡と推定され、奥州藤原氏の始祖である亘理権大夫・藤原経清(?~1062)の居城地としての関連が有力視され平成4年、国の史跡に指定された。
 調査から9世紀前半から10世紀前半にかけて存在した陸奥国亘理郡衙の施設であることが明らかになっている。
 これまでに、郡庁跡と見られる「コの字」型に並ぶ掘建柱建物跡や礎石式倉庫跡などが発見されている。

 三十三間堂官衙遺跡(平安時代前半の郡役所跡)では、9月から今年度の発掘調査を実施しており、郡庁院(役所の中心施設)の東部から新たに役所に関連する建物跡や溝跡などが発見された。
 調査成果説明会開催が予定されている。
  日時:11月1日(土曜日) 午後1時30分から午後3時
  場所:三十三間堂官衙遺跡 (逢隈下郡椿山・JR逢隈駅西部)
[参考:亘理町HP]
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