歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

興福寺・五重塔 初層を5年ぶり公開

2008年10月17日 | Weblog
 奈良市の興福寺で、あす18日から、五重塔(国宝)の初層(1階部分)が5年ぶりに公開される。
 堂内の四面に釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師の如来三尊像が安置されているほか、心柱や心礎も見ることができる。11月24日まで。
 五重塔は730年に光明皇后の発願で建立され、雷や兵火での焼失と再建を繰り返した。現在の建物は 応永33(1426)年に再建された六代目で、高さ約51m。国内の五重塔では2番目に高い。
 特別公開では南円堂も公開する。南円堂は例年、10月17日しか拝観できない。鎌倉時代の仏師・運慶の父、康慶の作で、広く信仰されている不空羂索(ふくうけんざく)観音坐像(国宝)も見ることができる。

◎興福寺国宝特別公開-2008-
期間 10月18日~11月24日 午前9時から午後5時(受付終了は午後4時30分)
※南円堂内陣および五重塔初層内陣を特別に公開します。
拝観料:1,000円(東金堂拝観料含)
[参考:奈良新聞、9/14毎日新聞、興福寺]
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明日香村・高松塚古墳 排水用の溝出土

2008年10月17日 | Weblog
 文化庁は17日、高松塚古墳(7世紀末-8世紀初め)で墳丘内の排水のために造ったとみられる溝の一部が見つかったことを発表した。
[参考:共同通信]
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万葉歌刻んだ最古の木簡を発見 2003年石神遺跡出土木簡

2008年10月17日 | Weblog
 2003年11月22日(土)に行われた、明日香村石神遺跡第16次調査・現地説明会。その時の配布資料でも、出土した木簡に刻まれた留之良奈尓(注1)麻久 阿佐奈伎尓伎也(るしらなにまくあさなきにきや)の万葉仮名使用と読みは解説されていた。ただし、和歌であることはわかっていなかった。(注1:右側の尓は「にんべん」に「尓」)
 今回、それが、万葉集に収められた和歌であったことがわかった。そして、今まで最古の出土例であった滋賀県甲賀市の紫香楽宮(742~745年)跡から出土したものより60~70年さかのぼる最古の例となる発見で、飛鳥時代に万葉歌が詠まれていたことを示す貴重な物証となる。研究の上発見したのは、森岡隆・筑波大大学院准教授(日本書道史)。
 万葉集巻七 1391 「朝なぎに 来寄る白波見まく欲り 我はすれども 風こそ寄せね」の断片となる。
 原文: 朝奈藝尓 来依白浪 欲見 吾雖為 風許増不令依
 意: 朝なぎに寄せて来る白波を見たいと私は思うが、風が吹いてくれない。作者は不明。

万葉歌刻んだ最古の木簡 奈良・石神遺跡(共同通信) - goo ニュース
阿佐奈伎尓(朝なぎに)…万葉歌刻んだ最古の木簡が出土(読売新聞) - goo ニュース
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福井県美浜町 興道寺廃寺遺跡 如来仏の塑像の一部出土

2008年10月17日 | Weblog
 美浜町教委は15日、興道寺廃寺遺跡(美浜町興道寺)で、7世紀後半から8世紀前半までに粘土で作られた仏像「塑像」の頭髪部分の螺髪(らほつ)1点が塔基壇東側の畑から出土したことを発表した。
 塑像は底面の直径21mm、高さ24mmで焼き堅められていた。螺髪の底面は斜めにカットされ直径5mm、深さ5mmの穴が開いている。仏像の頭部側面に棒か釘状の金具で固定されていたとみられる。
 螺髪を復元すると3cm強となることから、立像なら高さ約4.8m、座像でも約2.4mの丈六仏の如来仏だという。
 螺髪の形や同遺跡からの出土品から考えると、7世紀後半から8世紀前半に製作されたとみられる。
 螺髪は巻き貝のように巻いた髪で同町教委によると「如来仏にしかない」という。一方で同寺の地籍の小字は「観音」であるため、「観音仏と如来仏の本尊が2体あったか、時代によって変えた可能性がある」と話している。
 塑像片は全国60以上の遺跡で見つかっているが、粘土のため残りにくい。同町教委によると、塑像の一部が見つかったのは県内初であり、如来像の破片としては県内最古。
 興道寺廃寺は7世紀後半の遺跡で、嶺南では最古級の寺院。平安前期・九世紀後半まで利用されたとみられる。
 同町教委が2002年から発掘調査を実施。これまでに塔と金堂が東西に並び立つ伽藍配置だったことが判明しているが、伽藍を構成する中門跡や、本尊の如来像を安置する金堂、豪族の装飾品を納めたと思われる塔などの存在が確認されており、古代の地方寺院としては有数の規模を誇っていたことが分かっている。
 このほか今回の調査では、塔基壇の東側で建設時の作業小屋として使われた可能性がある竪穴建物状の遺構や、伽藍北方では掘っ立て柱建物群なども見つかった。
 同町教委は18日(土)午前10時から、現地説明会を開く。問合せは町教委文化財保護・町誌編纂室へ。
[参考:福井新聞、読売新聞、中日新聞、朝日新聞]
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益田市 久城東遺跡 奈良時代の集落遺跡

2008年10月17日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターは16日、益田市久城町の久城東遺跡で、奈良時代後期(八世紀後半ごろ)の掘っ立て柱の建物跡などからなる集落跡が出土したと発表した。
 遺跡は日本海にほど近い益田川右岸の緩やかな台地上(標高約30m)に位置し、古墳時代を中心とする集落跡が検出されている。
 確認した遺構は、柱穴が350個で、10数棟の掘っ立て柱の建物が存在したとみられる。斜面を削って平坦面を作り出した加工段からは鍜治炉の底にたまってできる滓(椀形滓)が見つかり、鉄の加工を行う集落だった可能性がある。鍜治炉自体は見つかっていない。鉄の加工を扱う集落の存在は、この地域が石見西部で有力な位置を占めていたことを示す事例。
 益田地域での掘っ立て柱建物の集落遺跡としては3例目。
益田平野東部では大型古墳が多く存在するが、それ以降の遺跡の様相が不明瞭だった。今回の調査で、古代の様相の一端が明らかとなったとする。
 現地説明会は18日(土)午前10時から、集合場所は旧益田工業高校。問合せは益田道路発掘調査事務所(電話0856・31・1604)。
[参考:山陰中央新報、島根県、中国新聞]

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