明日香村教委は9日、八角墳と確認され斉明天皇(594-661)と娘の間人(はしひと)皇女の合葬墓との見方が強まっている牽牛子塚(けんごしづか)古墳(明日香村)の隣で巨石をくりぬいた横口式石槨を見つけたと発表した。
新発見の石槨は、牽牛子塚古墳の石室から約20m南東で出土し、同古墳と同じく入り口が南向きであった。巨岩をドーム状にくりぬいた天井石と、平らに整形した床石を組み合わせる構造だった。墳丘は崩れて残存せず、墳形や規模は不明。
天井石の大半は後の時代に割られて、石材として持ち去られていた。村教委は地名をもとに「越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)」と命名した。
床石の大きさは東西約3m、南北約3.5m。棺を納める部屋の内寸は長さ約2.4m、幅約90cm、高さ約60cmだった。 石材は周辺で採取される石英閃緑岩で、石槨の総重量は推計80トン。 「鬼の俎(まないた)・鬼の雪隠」(7世紀中~後半の石槨)と同じ構造、石材だった。
床面には天井石を組み合わせるほぞ穴が掘られ、一部に接着剤の漆喰が残存。南向きの入り口から少し西にずれて、石敷きの墓道(長さ4m以上、幅約1m)が設けてあった。周辺から、漆の破片や木質が付着した鉄くぎが数点出土し、漆塗り木棺が納めてあったとみられる。
日本書紀の記述、「天智天皇6年(667)の春二月の壬辰の朔戊午(27日)。天豊財重日足姫(斉明)天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合わせ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬す。(略)」(注1)とあり、斉明天皇の孫の大田皇女の墓との説が有力視されており、さらに今回の発見で、牽牛子塚の被葬者は斉明天皇と考えてほぼ間違いないと評価する声があがっている。
越塚御門古墳は、牽牛子塚を築造した後にその基盤造成土を掘り込んで築いた痕跡があった。教委は当初から一体的に計画したのだろうとみている。
現地見学会は11、12日の午前10時~午後4時に開かれる。
(注1):「日本書紀」(岩波文庫 1995)を参照
[参考:時事通信、共同通信、日経新聞、産経新聞、毎日新聞、読売新聞]
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新発見の石槨は、牽牛子塚古墳の石室から約20m南東で出土し、同古墳と同じく入り口が南向きであった。巨岩をドーム状にくりぬいた天井石と、平らに整形した床石を組み合わせる構造だった。墳丘は崩れて残存せず、墳形や規模は不明。
天井石の大半は後の時代に割られて、石材として持ち去られていた。村教委は地名をもとに「越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)」と命名した。
床石の大きさは東西約3m、南北約3.5m。棺を納める部屋の内寸は長さ約2.4m、幅約90cm、高さ約60cmだった。 石材は周辺で採取される石英閃緑岩で、石槨の総重量は推計80トン。 「鬼の俎(まないた)・鬼の雪隠」(7世紀中~後半の石槨)と同じ構造、石材だった。
床面には天井石を組み合わせるほぞ穴が掘られ、一部に接着剤の漆喰が残存。南向きの入り口から少し西にずれて、石敷きの墓道(長さ4m以上、幅約1m)が設けてあった。周辺から、漆の破片や木質が付着した鉄くぎが数点出土し、漆塗り木棺が納めてあったとみられる。
日本書紀の記述、「天智天皇6年(667)の春二月の壬辰の朔戊午(27日)。天豊財重日足姫(斉明)天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合わせ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬す。(略)」(注1)とあり、斉明天皇の孫の大田皇女の墓との説が有力視されており、さらに今回の発見で、牽牛子塚の被葬者は斉明天皇と考えてほぼ間違いないと評価する声があがっている。
越塚御門古墳は、牽牛子塚を築造した後にその基盤造成土を掘り込んで築いた痕跡があった。教委は当初から一体的に計画したのだろうとみている。
現地見学会は11、12日の午前10時~午後4時に開かれる。
(注1):「日本書紀」(岩波文庫 1995)を参照
[参考:時事通信、共同通信、日経新聞、産経新聞、毎日新聞、読売新聞]
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