歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

喜多方市・高堂太遺跡 現地公開

2008年09月22日 | Weblog
高堂太遺跡(たかどうたいせき)
■公開日時: 平成20年9月27日(土) 13:00~15:00
■場   所: 喜多方市豊川町大字高堂太字高里
【遺跡の概要】
 高堂太遺跡は、下高額(しもたかひたい)館跡や古墳時代の水谷地(みずやち)古墳を含む遺跡である。
 平成17年度から発掘調査が行われており、これまでに中世の下高額館跡の中心部と思われる施設が見つかっている。堀に囲まれた範囲にたくさんの建物跡があった。
 今年度は、これまで道路や水路のため調査できなかった部分を中心に調査している。
 現在、下高額館跡の中心部と、その南側にある湿地を調査中。館跡からは、礎石を持つ建物跡や地面を掘って直接柱を立てた建物跡、堀跡、井戸跡などが見つかっている。周囲からは、当時の土器や陶磁器が出土している。
 南側からは、平安時代のものと思われる遺物が出土した。南側区域は低湿地であり、木が腐りにくいことから、当時の木製品などが出てくる可能性がある。
 江戸時代のものと思われる流路と堰の跡も見つかっている。
 平成18年度の2次調査では、銅製提子(ひさげ、酒器)とその外側に10枚の景徳鎮窯製の小皿(15世紀後半)が納められて出土し、さらに提子内部にも10枚の皿が重なって納められていることがX線撮影で判明した。さらに、モミガラが充填され、十字掛けされた縄が発見された。地鎮の儀式に際する埋葬品と考えられている。(今回の現地公開で展示をする。)
 平安時代前半の遺構からは、土師器・須恵器(会津若松市大戸窯産が多い)が出土している。

 館跡は、中世の平地式館跡であり、年代は14~15世紀にわたるものと推定されている。
 江戸時代に編纂された、『新編会津風土記』には、至徳年中(1384~1386)、7代葦名直盛より渡部左京進長勝(わたべさきょうのじょうながかつ)が上高額村ほか12村を領し、至徳元年(1384)には長勝寺(ちょうしょうじ)を建立したという伝承が記載されている。長勝寺は調査区の南東200mに現在もある。
[参考:(財)福島県文化振興事業団HP(平成18年度現地説明会資料を含む)、ほか]

(参考)
葦名氏 (葦は芦、蘆とも書かれるが、吾妻鏡には葦名と書かれているため、ここでは葦をとる)
 葦名(あしな)氏は、桓武平氏系の三浦氏から興った氏族で三浦半島の三浦庄葦名村(現在横須賀市芦名)の出身とみられる。
 相模葦名氏と会津葦名氏の二系統があるが、ここでは会津葦名氏のみ触れる。
初代:佐原義連
 三浦義明の七男・佐原義連(通称十郎)を初代とする。義連は相模国三浦郡佐原郷(横須賀市佐原)を領して「佐原」を名字とした。
 吾妻鏡では治承五年(1181)4月7日に初見。頼朝が納涼のために三浦へと出かけたおり、三浦氏とともに平広常も出迎えたが、広常は下馬の礼をとらず、頼朝に近侍していた義連がそれを咎めた。
 文治5年(1189)源頼朝の奥州藤原氏征討に従軍し、軍功により会津門田庄を賜るとされるが吾妻鏡には書かれていないので確証はない。
2代:佐原盛連
 宝治元年(1247)六月の宝治合戦によって三浦一族の多くが滅亡するが、佐原義連の子盛連の子息らは北条時頼と縁戚関係にあったため北条方に味方し、その結果盛連の四男光盛が葦名氏を称した。
 筑後和田文書で、承元3年(1209)6月16日に初見
 また、定家の「明月記」嘉禄2年(1226)1月24日に、「近日在京の武士遠江の国司(盛連のこと)、その妻武蔵太郎時氏の母(三浦義村の娘矢部禅尼のこと)なり。仍って時氏に付くべきの由関東これを許すと」
3代:佐原(葦名)光盛
 吾妻鏡では寛元2年(1244)1月1日に、遠江次郎左衛門の尉、御行始めの二の御馬として初見。
 葦名姓を名乗るのは、光盛の代になってから。
 
 その後、戦国時代16代蘆名盛氏の時、奥州で伊達氏と並び称される最盛期を迎える。
 1589年 20代蘆名義広は伊達政宗に摺上原の戦いで大敗して、常陸に逃走し、ここに蘆名氏は没落する。
 しかし、葦名義広(義勝と改名)は、関が原の合戦後、佐竹義宣の出羽への転封に随行し、秋田・角館1万6千石を与えられる。その後、盛俊、千鶴丸と続くが、千鶴丸は3歳の時に亡くなり、お家断絶となる。その三代の菩提寺が角館にあり、会津・天寧寺から分かれて建立された万松山天寧寺である。(写真)
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安中市・人見地区の2遺跡 説明会100人出席

2008年09月21日 | Weblog
 安中市教育委員会は20日、西横野東部地区遺跡群の「発掘調査現地説明会」を開き、考古学ファンら約100人が訪れた。
 公開されたのは、昨年12月から調査が始まった「人見枝谷津」と「人見東向原」の両遺跡。今回の発掘では、古墳時代中期前半の竪穴住居跡130軒以上の拠点集落が出土した。旧碓氷郡地域の歴史の空白を埋める発見という。 
[参考:東京新聞]

(9月17日の記事)
律令時代の主要幹線道路「東山道」につながる伝路か
 安中市教委は、同市松井田町人見地区にある人見枝谷津(えだやつ)遺跡と、隣接する人見東向原(ひがしむかいはら)遺跡の現地説明会を20日に開く。
 両遺跡は碓氷川の上位段丘上の通称「横野台地」にあり、県営畑地帯総合整備事業に伴い発掘調査された。
 両遺跡は沢をはさんで隣接し、縄文時代中期や古墳時代の集落跡が発掘された。奈良、平安時代のものと思われる道路状遺構も確認されている。
 道路状遺構は幅約9mで、約350mにわたり両側に側溝がある。約800m東にある人見大谷津(おおやつ)遺跡(00年度発掘)でも同規模でほぼ同じ方向の道路状遺構が確認されていることから、主要道の東山道から枝分かれして甘楽方面に向かう「伝路」の遺構ではないかとみている。3遺跡に通じていれば、総延長は約1キロと推定されるという。
道路の東方面には富岡市の貫前神社があり、今後、神社との関連も調査したいとする。
 説明会は、20日午前10時と、午後1時半の2回。現地集合。(小雨決行)  問合せは学習の森文化財係(027・382・7622)へ。
[参考:毎日新聞9/13、産経新聞9/17]

貫前神社(ぬきさきじんじゃ):
 富岡市一ノ宮に鎮座する上野国一の宮
 祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)と姫大神(ひめおおかみ、比売大神)
 安閑天皇元年(531)物部姓磯部氏の創建といわれ、抜鉾大神・一宮抜鉾大明神・抜鋒大神とも呼ばれてきた。
 元は、別の場所にあった2社2神が1社2神になったらしい。
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運慶作大日如来座像~大道あや展~ベルギーロイヤルコレクション展

2008年09月20日 | Weblog
 つい先日17日(水)午後から3件の展覧会に行って来ました。
 最初は上野国立博物館です。ニューヨークのオークションにかけられて有名になった運慶作とみられる大日如来像(①)。そしてその隣に並んで展示される同じく運慶作とみられる光得寺(足利市)の大日如来像(②)が目当です。六波羅蜜寺の仏像展も同時に行っており、運慶作が1体、そして運慶作と見られる仏像が1ないし2体一緒に見ることができました。やはり①の大日如来座像の顔は秀逸です。切れ長の目がややつり上がっていて、顔はふくよかであり、凛とした中の穏やかさが凄さを感じさせます。来場者の中には、お年寄りがこの大日如来の前で手を合わせ泣きながら手を合わせ拝んでいる姿も見受けられました。一方②は顔の漆箔の剥れがやや大きく、顔の表情を細かく見てとれないのが残念です。ただ、①にはない細かいアクセサリーが両二の腕とお腹にあり、繊細さを感じさせます。両者と画も衣を薄く着飾って描いており、これも運慶の特徴だそうです。
 次に、渋谷・松涛美術館の「大道あや展」。大道あやさんは江戸時代の仏教行者であり仏像彫刻家の木喰と同じように60歳になってから創作活動を始めたそうです。キャンバスに花、動物、魚など自分の好きなものをたくさん並べて描いていて楽しい絵です。やや、うるささがあるのは否めませんが、絵本などにするとあっさりして見やすく持ち味が活かせるようです。それに、秩父、越生、川越、東松山などの祭りや獅子舞を描いており、時折その方面を訪れていただけに懐かしさも感じました。
 3番目は、原宿の太田記念美術館「ベルギーロイヤルコレクション展」です。写楽コレクションを始めとし、葛飾北斎「富嶽三十六景 凱風快晴」、国芳、晴信、広重、国貞、歌麿の作を展示しています。歌麿作では、珍しい妖怪を描いた「見越入道」「一つ目」は世界で1点だそうです。
 そんな中から、僕の目についたのは、喜多川歌麿の「高島おひさ」。寛政時代の美人の一人です。彼女も細めで切れ長の目がややつり上がっています。ただ、顔はふっくらとは違い面長です。
[高島久(ひさ)のプロフィール]
 江戸両国薬研堀米沢町2丁目の煎餅屋高島長兵衛の長女。長兵衛が薬研堀に水茶屋を出したため、おひさはそこを手伝い評判の看板娘となった。

 歌麿は彼女をモデルに浮世絵を描き、さらに大評判となる。おひさを描いた大首絵「高島おひさ」は寛政5年(1793)頃の作で、当時のひさは17歳であったらしい。
 2007年3月4日(日)にNHKで放映された「歌麿・紫の謎」にもこの絵が紹介されていました。ボストン美術館にも所蔵されているこの絵は、色褪せが少なく紫の色が鮮明に残っています。残念ながら、ベルギーロイヤルコレクション展のものは鮮明にはその色合いを覚えていないので分かりません。
 高島ひさを描いた絵には、団扇あるいは服には「丸に三つ柏」の家紋が描かれています。それをちょっと比べてみました。
 左:「高島おひさ」より団扇の家紋、中:「高名美人六家撰」のうち [高島おひさ]より服の肩口の家紋、右:「丸に三つ柏」の家紋それぞれ葉のスベ(葉脈の線)の本数が違うようです。左は片側のスベが3本、中は2本、右は4本です。しかし、左と中は右「丸に三つ柏」に対し「陰」になるため、1本少なくするのが規則ということですので、中のものが2本というのは1本少ないようです。
 柏は「神聖な木」とされているため、神社や神家によく使用されるようです。
写真の色合いは、前述のTV「歌麿・紫の謎」の映像に合わせて調整してみました。
 この先、いろいろなことを調べてみたいと思います。
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名古屋市 白川公園遺跡 縄文晩期の彫刻石皿が出土

2008年09月20日 | Weblog
 名古屋市教育委員会は、県内で最大規模の縄文時代の貯蔵穴群がある白川公園遺跡(名古屋市中区栄)で、縄をねじったような彫刻が施してある縄文時代晩期(約2500年前)の彫刻石皿(縦約40cm横約30cmの楕円形)が出土したと発表した。
 同時期の彫刻石皿は石川、富山県で各1皿出土しているが、周囲に凹凸の簡単な模様が付いている程度で、今回のように複雑な模様の彫刻がしてある石皿の発見は日本初という。
 同市教委は、名古屋市科学館の改築工事のために、1月から白川公園遺跡第5次発掘調査を進めてきた。
[参考:読売新聞]
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松阪市・小谷A遺跡 弥生後期の方形周溝墓を確認 

2008年09月20日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは18日、松阪市の天花寺丘陵北部斜面にある小谷A遺跡(嬉野天花寺町)で、周囲を方形の溝で囲った約1800年前の弥生時代後期の方形周溝墓6基を確認したと発表した。
 方形周溝墓は1辺が5~9mで、6基が並んでいた。上土が削られ埋葬部分は確認できない。溝から葬儀に使われたと思われる土器の壺などが出土している。集落で暮らす人々の中の有力者を埋葬したと推定している。
 近くの小谷赤坂遺跡で、弥生期の大規模な集落跡が確認されており、この住民の墓域であった可能性が高いという。
 当時の社会構造を知る貴重な史料としている。
 現地は埋め戻したため、同市嬉野川北町の県埋蔵文化財センター嬉野分室で23日午後1時半から2時半、発掘調査成果説明会を開く。
 問合せは県埋蔵文化財センター=0596(52)1732=へ。
[参考:伊勢新聞、朝日新聞、三重県HP] 
 なお、三重県ホームページ→お知らせ情報→小谷A遺跡調査説明会資料(http://www.pref.mie.jp/TOPICS/2008090309.htm)で、調査説明会資料が公開されています。

備考:
 小谷赤坂遺跡は縄文時代から近世までの遺跡ですが、1998年に出土した「船とシカを刻んだ絵画土器」弥生後期(3世紀前半)が、船を描いた土器としては県内初、船とシカを組合せて描いた土器としては、鳥取県稲吉角田遺跡(弥生時代中期後半)に続いて2例目として有名です。シカは角の生え替わる時期が稲作のサイクルと一致し、船は稲の霊を運ぶものとされ、豊穣を願う弥生の祭祀の様子を表すものと考えられているそうです。
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富岡市・下高田上原遺跡 奈良時代の大溝跡と住宅跡が見つかる 

2008年09月19日 | Weblog
 富岡市教育委員会は、同市妙義町下高田の下高田上原遺跡から、奈良時代のものとみられる総延長約1.2kmの大溝跡と、同時代を中心にした約40軒の住宅跡が見つかったと発表した。
 県営畑地帯整備に伴う発掘調査で、同遺跡は約7000㎡を調査した。大溝跡は幅4~5m、深さ1・5~1・8mで、富岡と安中の両市境に沿っており、当時の行政区画を示す可能性があるとみられる。住居跡は30軒が大溝跡とほぼ同時期のものとみられ、関連について調査している。
 説明会は20日午前9時~午後3時。(小雨決行)問合せは同市教委文化財保護課(0274・62・1511)へ。
 同じ発掘調査で古代の道路状遺構などが見つかった同遺跡に隣接する安中市の人見枝谷津遺跡と人見東向原遺跡でも、同日午前10時と午後1時半、同市教委の現地説明会がある。
[参考:毎日新聞、前出]
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宝塚市・長尾山古墳 摂津地域最古の埴輪列が出土  

2008年09月19日 | Weblog
 宝塚市山手台東にあり、猪名川流域最古となる前方後円墳の長尾山古墳(4世紀初頭)で、県南東部から大阪府北部にかけた摂津地域で最古となる埴輪列が出土したことが分かり、宝塚市教委と大阪大学考古学研究室が18日、発表した。
 見つかったのは、朝顔形埴輪計8基で、1基の直径が約30~35cm、高さは約60cm。このうち5基は前方部と後円部の接続部分から約1m間隔で列になって発見。形状などから、摂津地域で最古の埴輪列という。
 また古墳は全長39mで、構造が前方部2段、後円部3段であることも判明。後円部には埋葬後に土を埋め戻した跡があり、地下に埋葬施設が残っている可能性もある。
 阪大大学院文学研究科の福永伸哉教授は「階段状の構造は、豪族が大和政権の主流派の立場にいたことを示している。猪名川流域の古墳時代史を解明するうえで貴重な資料だ」としている。当時の大和政権初期の古墳と共通の特徴が多く見つかり、「猪名川流域を治めた豪族と政権との密接な関係の証拠」としている。
 現地説明会は23日午前10時半~午後0時半(小雨決行)。問い合わせは、宝塚市・阪大学長尾山古墳調査団((電)0797・87・3576)。
[参考:産経新聞]

備考: 昨年夏期に第一次調査が行われ、その説明会資料が大阪大学考古学研究室のHPで公開されています。
 第一次調査では、全長38mの前方後円墳で、2段以上の築成、4世紀初めの築造であることが発表されました。
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福知山市・戸田遺跡 松尾大社の荘園「富田」裏付け

2008年09月19日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは17日、福知山市戸田の戸田遺跡で平安末期から鎌倉初期にかけての村落跡が見つかり、中世の文書に出てくる戸田地区の存在を初めて確認したことを発表した。
 発掘は由良川堤防築造に伴い集団移転が進む福知山市戸田集落で、これまでも土師器や須恵器が出土し、遺跡があることが分かっていたため、堤防の土盛りがされる前にと、今年4月から計2300㎡にわたり発掘調査が行われてきた。
 東側で、12世紀後半から13世紀の掘立柱建物の柱跡(東西5・4m、南北3m、柱直径約60cm)など3棟の建物跡のほか、畑、池の跡とみられる円形の石組み(直径2・5m、高さ55cm)が見つかった。すぐ近くには浦島伝説にまつわる水神神社(浦島神社)の池「お沼(ぬう)」があり、関連が気にかかるところだが、いまのところ関連は不明だという。
 西側では、集落を南北に区画する溝(幅1-3m、長さ22m、深さ約30cm)や耕作跡のほか、鍋や中国製の青磁などが見つかった。
 一帯は、鎌倉~室町時代の松尾大社(京都市西京区)の社領で、13世紀の松尾大社文書にも荘園として「富田」「とた」の記載があり、集落の中心部は調査地の南東に広がっていると見られる。古文書によると、戸田は当時雀部庄(ささべのしょう)に属していた。
 当時日常的に使われていた黒い瓦器の椀、土師器の皿などが出土し、中世の12世紀後半に集落が誕生したことが分かった。
 出土品には初期の伊万里焼や中国製青磁や青白磁なども数多くあり、鎌倉以降江戸時代にかけて日本海と由良川の水運などで繁栄した豊かな集落と考えられるとしている。
 現地説明会は23日午前10時半から。現地事務所携帯電話090(9718)3588。
[参考:両丹日日新聞、京都新聞、 読売新聞]

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長岡京跡、伊賀寺遺跡 現地説明会開催予定

2008年09月19日 | Weblog
長岡京・伊賀寺遺跡 縄文期に多人数火葬 一つの墓にまとめる
20日に現地説明会を計画している伊賀寺遺跡で新しい発掘ニュースです。
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは18日、長岡京市下海印寺の伊賀寺(いがじ)遺跡で縄文後期(約3500年前)の火葬墓と見られる遺構が見つかったと発表した。
縄文時代の火葬の遺物は全国で約80例が確認されているが、府内初。多数がまとめて葬られており、多人数が火葬にされ一つの墓に葬られるのは全国的に珍しい。
 遺構は京都第二外環状線の建設計画に関連する調査で2基確認された。1基は直径1m20の楕円形、他の1基は縦2・85m、横4・05mの長方形。穴の深さは0・4-0・5m。多数の人骨と焼土が見つかり、近くに火葬跡とみられる炭や焼土があった。楕円形の墓には副葬品とみられる注口(ちゅうこう)土器がほぼ完形で残っていた。
 埋葬した骨を掘り出して火葬にする再葬は縄文時代にもあるが、遺体を火葬したとみられる。楕円形の墓には少なくとも9人が葬られていた。一体は10代後半、別の一体は25-40歳代。長方形の墓にも複数が葬られ、一体は成人だった。
周辺には同時期の竪穴式住居跡2棟が見つかり、集落があったとみられる。
[参考:京都新聞、読売新聞]


長岡京跡右京(第927・941・943・947次)および伊賀寺遺跡
 長岡京市内で調査を実施している長岡京跡他の発掘調査について現地説明会予定。
 調査地は、近接した位置にあり、縄文時代中・後期の竪穴式住居跡、土坑、弥生時代の竪穴式住居跡、土坑、古墳時代の竪穴式住居跡、長岡京期の溝、ピットを確認した。
日 時 平成20年9月20日(土)午後2時から
場 所 京都府長岡京市下海印寺下内田発掘調査地
連絡先 現地事務所 075-953-1544 当センター075-933-3877(代表)
[参考:財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターHP]

 調査地は長岡京の南西部にあたる。過去の発掘調査の状況は下記のようなもの。
 平成18年度の調査では、古墳時代後期の堅穴式住居跡や掘立柱建物跡、古墳時代の川などを検出。鉄滓が出土。
 平成19年度の調査では、古墳時代の遺物を含む川跡、弥生時代後期の遺物を含む川跡などを検出。6世紀頃に大きな洪水か。遺物としては、弥生時代後期の土器が完全な状態でたくさん出土。古墳時代や弥生時代の遺構面の上には平安時代末とみられる広範囲な整地層が見られた。
[参考:財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター現地説明会資料]
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愛知・朝日遺跡 弥生人がコイを養殖 国内最古の事例

2008年09月18日 | Weblog
 滋賀県立琵琶湖博物館(草津市)は18日、弥生時代中期の集落遺跡「朝日遺跡」(愛知県清洲市など)で出土した魚の歯の化石から、この時代の弥生人が冬の保存食のため灌漑技術を利用してコイを養殖していたことが分かったと発表した。
 同博物館によると、自然の水域から小さな幼魚を大量に捕獲するのは困難で、弥生人が春に産卵期の成魚を捕獲し、集落内の環濠や灌漑水路などに放して自然に産卵させ、生まれた幼魚を水田や池で飼育していたとみられるという。
 縄文時代には、琵琶湖周辺の遺跡からコイ科の魚を捕獲した痕跡が見つかっているが、養殖した跡が見つかったのは初めてで、コイの養殖を示す国内最古の事例という。古代中国でコイの養殖方法を記した文献などが見つかっていることから、コイ養殖の知識は水田稲作と共に水位を制御する灌漑技術が大陸から伝来し、養殖が発達したとみられる。
 同館や奈良文化財研究所(奈良市)などの研究グループが、咽頭歯(喉の奥の歯)が残る魚類の化石244点を調査。うち167点がコイで、歯の大きさなどから推定すると、体長5~15cmの生後数カ月の幼魚と35~45cmの2、3歳の成魚に大別できた。
[参考:毎日新聞、中日新聞、京都新聞]
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柏原市・玉手山3号墳 近畿最古の石棺が存在したことを確認

2008年09月18日 | Weblog
 大阪市立大は17日、同市旭ヶ丘の玉手山3号墳(全長約100mの前方後円墳、4世紀初め)の竪穴式石室跡から中国製冑の部品「小札(こざね)」が50点以上出土したこと、また、石棺が存在ことした可能性が高いことがわかったと発表した。
 近くの安福寺に、同古墳から出土したと伝えられる香川産の石材で造られた割竹形石棺の蓋があり、石棺の本体が残っているとみて発掘調査をした。
 乱掘されていて石棺は残っておらず、石室も除去されていたが、予想される石室規模(約4m)や床の構造から石棺の存在が推定できたという。初期の有力古墳が木製の棺を用いたのに対し、同古墳は竪穴式石室に畿内で最古の刳り抜き式石棺を埋葬していたとみられる。
 また、副葬品から、奈良県天理市の黒塚古墳などでも見つかっている中国製冑などを確認。中国製冑は国内で約15例しか見つかっていない。冑は、小札と呼ばれる数百枚の鉄製の板を革ひもでつなぎ合わせ、ヘルメットのような形にしたらしい。このほか青銅製の矢尻や鉄製の武器の破片も見つかった。
 被葬者が河内の最有力首長だったことが裏付けられた。同じ時期の石棺が香川県にあり、被葬者が香川の勢力と密接な関係があったことがうかがわれるとみている。
現地説明会を21日(日)午後2~4時に行う。
[参考: 読売新聞、共同通信]

履歴 2006.8.31
 3号墳の竪穴式石室が盗掘で大きく破壊されていることが発掘調査で確認され、その破損状況から、同古墳近くの安福寺に残されている近畿地方で最古級とされる石棺の蓋(国重要文化財)が、同古墳から出土したものであることがほぼ確実になったことを報じた。
 安福寺に蓋が残る石棺は、丸太状の木棺を模した「割竹形石棺」と呼ばれる石棺の中では最古のタイプで、玉手山3号墳で出土したと言い伝えられてきた。
竪穴式石室は棺を包み込むように造られており、石棺を掘り出した際に石室の壁を大きく壊し、板石を捨てたのではとする。
[参考:朝日新聞]
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小郡市・大保横枕遺跡 弥生時代前期の二重環濠全体を発掘

2008年09月18日 | Weblog
 小郡市教育委員会は17日、小郡市運動公園の西側隣接地にある同市大保の大保横枕(おおほよこまくら)遺跡で、弥生時代前期の二重構造の堀「環濠」のすべてを発掘したと発表した。
 弥生時代後期の吉野ケ里遺跡では、二重構造の環濠のすべてが発掘されている。弥生時代前期以前では、福岡市の那珂遺跡などで二重構造の環濠が部分的に発掘されているが、環濠の全体を発掘したのは国内で初めてという。
環濠は楕円形で、内環濠が南北61m、東西54m、外環濠が南北88m、東西79mで円周は250mになる。ともに幅2・5~4m、深さ1~2mのV字形に掘られている。
 二重環濠は、堀の内側に設けた住居や食料倉庫を野獣などから防衛するために掘られたとされる。二重環濠の内側や周辺には、7軒の住居跡や食料を保管した約100基の貯蔵穴、外側の南方に墓地の一角もが発見された。
 出入り口となる「陸橋」は、内環濠が南側に1カ所、外環濠は南と北東側に1カ所ずつあった。
 出土した土器などから時代を特定し、両環濠がほぼ同時に存在していたらしい。
 小郡市教委は今後、住居や貯蔵穴の年代を特定し、環濠との関連を調べるという。
 調査は、ショッピングセンターの建設を控え、約11万㎡の開発面積のうち、遺跡にかかる3万5300㎡を対象に5月から始まり、年末まで続けられる。広大な土地を調査したため、二重構造の環濠の全体を発掘できたという。
 小郡市埋蔵文化財調査センター(0942・75・7555)は、20日午前10時と同11時、現地を一般公開する。
[参考:朝日新聞、西日本新聞、毎日新聞]

弥生前期の二重環濠 小郡市 全体発掘は全国初(西日本新聞) - goo ニュース
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西都原古墳群 姫塚古墳(202号墳) 横穴式石室を持つ?

2008年09月18日 | Weblog
西都原古墳群の姫塚古墳 木棺跡など新たに出土 96年ぶり再調査 横穴式石室存在か(西日本新聞) - goo ニュース

墳長が縦55mとさらに大きくなっています。

(現地の説明板より)
202号墳(姫塚) 6世紀後半
 姫塚は主軸長が52m、後円部径28m、同高6m、前方部幅30m、同高さ5mの前方後円墳です。
 周囲を盾形の周溝で囲まれています。大正元(1912)年の調査によれば後円部から直刀3、刀子1、鉄鏃多数などの武器、ガラス勾玉1、ガラス管玉2・棗玉1・切子玉10・小玉などの装身具、須恵器(坏・提瓶4)などの土器が出土しました。前方部から直刀1・刀子1・鉄鏃23などの武器、須恵器(坏2)などの土器が出土しました。西都原古墳群では最後の前方後円墳の1つです。
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高松塚古墳壁画 11月に一般公開 明日より事前申込み開始

2008年09月18日 | Weblog
「国宝高松塚古墳壁画修理作業室の一般公開」
 文化庁は17日、修復を進める高松塚古墳(奈良県明日香村)の国宝壁画を11月2-9日の8日間、村内の施設で一般公開すると発表した。
 公開は春に続き2回目。定員は1日約500人で、指定された日時で10分間の見学になる。
 初公開だった前回は先着順で応募が殺到したため、途中で受け付けを終了。計3763人が見学した。
 定員制で、期間中に計約4000人が見学通路からガラス越しに壁画と対面できる。
 希望者は往復はがきで事前に申し込む。応募多数の場合は抽選。
 募集期間は9月19-30日(当日消印有効)。
 詳しくは、文化庁のホームページで。

[参考:毎日新聞、産経新聞、文化庁文化財部古墳壁画室HP]
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福岡市・元岡遺跡群 弥生時代中期末の翳形木製品が出土

2008年09月16日 | Weblog
 福岡市教委が発掘調査を続けてきた福岡市西区・元岡遺跡群で、弥生時代中期末(紀元前後)に作られた翳(さしば)形の木製品が出土したことがわかった。(13日)
 翳は、儀式の時などに使われた、円い団扇のような道具。中心に穴が開いたドーナツ状の円形部分を柄にとりつけて、貴人に差し掛け、顔を隠すために使われたらしい。出土したのはその一部で、長さ22cm、幅8cm、厚さ1cmほどの半円形。両面に赤い顔料で、鋸歯文という、のこぎり状の文様が二重に描かれている。権力の象徴として、伊都国の王族ら有力者が使ったと考えられる。翳形木製品としては最古級とみられる。
 ほかに鳥形の木製品2点も見つかった。同遺跡群は伊都国内の祭祀の場とされ、今回発見された木製品は、弥生中期末の土器の集積の下から出土した。
[参考:9/14朝日新聞]

 古墳時代になると、古墳の周濠、集落の溝あるいは河川から翳形木製品がよく出土するようになる。
 団扇形の木製品は、円板部の径が大きく35~40cm前後のものを指すようだし、下長遺跡(守山市)出土の翳形木製品は長い杖があり、全長116.5cm、円板部の径は14.4cmで小さく、杖状木製品とも呼ぶ場合もある。下長遺跡と同じ杖状の木製品でも、円板部の径が約20cmより大きいものは翳形木製品と呼んでいる。
 元岡遺跡群から出土したものは、円板部の径がおそらく25cm前後で下に柄をつけていたと推測され、翳形木製品としては、古墳時代をはるかに遡り最古級である。しかも赤色顔料で塗られ色彩が鮮やかである。
[参考:2000年度春季特別展「権威の象徴」古墳時代の威儀具/奈良県立橿原考古学研究所附属博物館]
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