歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

よみがえる弥生都市-邪馬台国時代のまちづくり シンポジウム

2008年09月15日 | Weblog
13日、福岡県太宰府市の九州国立博物館で行われた。
邪馬台国像に議論白熱 九州国博でシンポ(西日本新聞) - goo ニュース
[参考:九州国立博物館]
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鳥取県・松原古墳群 現地説明会を開催報告

2008年09月15日 | Weblog
前出の表記説明会が14日に開催され70名が出席したと、写真とともに
鳥取県教育委員会埋蔵文化財センターのHPに公開されました。
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志布志市大崎町・天神段遺跡 現地説明会予定

2008年09月14日 | Weblog
 12世紀後半から13世紀初頭にかけてのお墓や建物の柱跡が検出されました。また,青磁・白磁や銅鏡などの副葬品がお墓の中より出土しました。
 日 時:平成20年9月27日(土)(雨天決行)
   第1回説明会 10:00~12:00、 第2回説明会 14:00~16:00
 場 所:曽於郡大崎町野方・志布志市有明町野神
 内 容:遺跡の概要説明、遺跡の見学
[参考:鹿児島県立埋蔵文化財センター]

(履歴)2008年3月18日
志布志市大崎町・天神段遺跡 鎌倉時代の墓から副葬品続々 
 志布志市有明町野神の天神段遺跡で17日までに、枕元に中国陶磁器、胸に銅鏡、足元に石鍋など多様な副葬品が供えられた鎌倉時代の墓が見つかった。調査した鹿児島県立埋蔵文化財センターは、これほど多くの品を意識的に配置したのは珍しいとする。
 同センターによると、出土したのは長さ2m、幅1mほどの土坑墓。頭部は北向きだったとみられ、枕元に中国産の青磁、白磁の碗や皿が7点並べられ、胸のあたりには直径約10cmの銅鏡や鉄器、中国産青白磁の小つぼが置かれていた。鏡の両面には漆塗りの木片が付着していたという。足元からも滑石製石鍋や鉄製紡錘車、土師器などが出土した。石鍋は大小2個が入れ子状態で見つかった。12世紀後半から13世紀初頭のものとみられるという。
 同センターの平木場秀男文化財主事は「奇跡的な残り具合。当時の埋葬形態を知る上で参考になる」と話した。
 同市と大崎町にまたがる天神段遺跡は東九州自動車道建設に伴い発掘、中世の掘立柱建物跡などが出土した。本年度の調査は19日に終了、現地説明会は開催しない。
[参考:南日本新聞]
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大崎町 神領10号墳鉄製馬具や武具出土 

2008年09月14日 | Weblog
 前出の通り、神領10号墳で、8月19日から9月12日の間、発掘調査を行うことを発表していたが、その結果として現地説明会が今日開催されている。

 唐仁大塚古墳に続き、県内で2例目の刳抜式舟形石棺が確認された、古墳時代中期(5世紀前半)の神領10号墳で14日午後1時半から、本年度の発掘成果を紹介する説明会が開かれる。石棺の全容が判明したほか、鉄製の馬具や甲冑の破片約200点などが出土した。
 10号墳は全長約65mの前方後円墳で、13の古墳がある神領古墳群の1つ。鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也准教授(考古学)が2006年から調査。盾持人埴輪(注1)や愛媛県産(注2)の初期須恵器が出ている。
 今回は、後円部にある石棺の詳細やその周辺を調査。石棺は長さ2.75m、幅0.94m。高さ約70cm。底石とふた石に分かれ、遺体を納める部分は丸みを帯びた筒状の空間になっている。ふた石は破壊されていたが、底石はほぼ原形をとどめていた。「縄かけ突起」と呼ばれる突起があり、内部は長さ約2mの楕円形。材質や加工から宮崎県延岡地方の産出(溶結凝灰岩製)と考えられる。溶結凝灰岩製の石棺は、熊本産のものは近畿や四国などへの運搬が確認されているが延岡など東九州産も遠隔地に運ばれたことが初めて裏付けられたとする。
 石棺は盗掘済みだが、全国でも貴重な、朝鮮系の特徴がある馬具の破片が周辺から出土。鉄地に金メッキの銅板を張り付けるなどの加工がある。近畿地方の製作とみられる、前面が尖った「衝角付冑」の一部も見つかった。
 橋本准教授は「東九州で石棺を遠方に運んだ事例は初確認で、加工も精巧。副葬品からも権力の強さや地域間交流の広さが分かる」と話す。

(注1) 盾持人埴輪:当初は武人埴輪と見られていたが、その後の調査で埴輪の破片を接合したところ、土管状の胴体に盾を表現した菱形文様を描いただけの「盾持人」と呼ばれる埴輪と判明した。
(注2)愛媛県伊予市の市場南組窯(いちばみなみぐみよう)産
[参考:西日本新聞、毎日新聞、鹿児島大学総合博物館 news letter No.19 2008]
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たつの市・龍子三ツ塚古墳群 2号墳 3世紀後半に築造 国内最古級か

2008年09月13日 | Weblog
 たつの市揖西町と揖保川町にまたがる龍子(りゅうこ)三ツ塚古墳群を発掘調査している大手前大学史学研究所は、2号墳が古墳時代前期(3世紀後半)に築造された円墳で、古墳時代で最古級の首長墓と発表した。同時代の古墳は揖保川流域では四例目。
 龍子三ツ塚古墳群は山の頂上付近の約2000㎡に前方後円墳の1号墳と円墳の2号墳がある。1931年に三角縁神獣鏡や浮彫式獣帯鏡などの副葬品が出土したが、古墳の構造など不明な点も多かった。07年度から大手前大が発掘調査しており、今年度の調査結果を発表した。
 2号墳は直径約17mの円墳で、墳丘の周囲にテラス状の段差を設けた「2段築成」だったと分かった。石垣のような列石(高さ60~70cm)が並んでいた。長さ約3・9m、幅約70cmの竪穴式石室も確認され、木棺を石で覆って埋葬したらしい。石槨の角が丸いなど1号墳より古い様式で、床面はU字型にくぼみ、壁面には自然石が積まれていた。くりぬき式の木棺を安置してから周囲に自然石を積んで埋葬した、古墳時代前期の埋葬方法がうかがえるという。
 2世紀後半~3世紀初めの作とみられる銅鏡の破片3点や約1cmの水色のガラス勾玉(長さ約1cm)1点も石室付近から出土。副葬品や古墳の様式から年代を推測した。鏡片3点をつなげると長さ約4cmの破片となり、過去に2号墳から出土した浮彫式獣帯鏡の欠損部と一致した。
 4世紀前半に造られたとみられる1号墳は全長36mの前方後円墳と確認された。
 近くを流れる揖保川の流域には、2号墳と同じ3世紀後半につくられたとされる国史跡の吉島(よしま)古墳(たつの市新宮町)などもあることから、各地域の古墳に葬られた首長は、比較的小さな地域を治めていたと考えられるという。
 現地説明会は14日午後1時30分から(少雨決行) 問合せは、同研究所(0798・32・5007)へ。
[参考: 読売新聞、毎日新聞、神戸新聞、朝日新聞]
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バーミヤン遺跡 玄奘三蔵記述の「先王伽藍」発掘?

2008年09月13日 | Weblog
 アフガニスタン中部の世界遺産バーミヤン遺跡で13日までに、玄奘三蔵が、著書「大唐西域記」に記述した「先王(先代の王)の建てた伽藍」とみられる仏教寺院跡が出土した。東大仏跡と西大仏跡のほぼ中間で見つかり、近くの石窟の年代などから5-6世紀ごろの伽藍と推定される。
 大唐西域記に記載された建立物のうち、先王伽藍、大きさ約300mとされる涅槃仏、王城の3つが未確認だった。「幻の涅槃仏」発見に向け貴重な成果で、謎が多いバーミヤン遺跡の全容解明に大きく前進したといえそうだ。
 アフガン考古学保護協会のゼマリアライ・タルジ氏(フランスのマルク・ブロック大教授)が率いるチームが発掘した。
 伽藍の規模は推定東西300m、南北200m。タルジ氏は「規模から考えて先王の伽藍に間違いない。今後、土砂を取り除き幻の涅槃仏発見を目指したい」と話している。
 7世紀にバーミヤンを訪れた玄奘三蔵は大唐西域記で、東西大仏建立前から先代の王が建設した伽藍があったと指摘し「王城の東2、3里の伽藍に仏の涅槃像があり、長さは1000余尺」と記述。涅槃仏は、今回出土した伽藍跡の近くに埋まっているとみられる。
[参考:共同通信、前出]
バーミヤンで仏教寺院跡出土 玄奘記述の「先王伽藍」か(共同通信) - goo ニュース
大唐西域記
國大都城據崖跨谷,長六七里,北背高巖,有宿麥,少花果,宜畜牧,多羊馬。氣序寒烈,風俗剛,多衣皮褐,亦其所宜。
文字、風教,貨幣之用,同都貨邏國。語言少異,儀貌大同。淳信之心,特甚鄰國。
上自三寶,下至百神,莫不輸誠,竭心宗敬。商估往來者,天神現徵祥,示祟變,求福。伽藍數十所,僧徒數千人,宗學小乘說出世部。
王城東北山阿有立佛石像,高百四五十尺,金色晃曜,寶飾煥爛。(注:西大仏のこと)
東有伽藍,此國『先王之所』建也。伽藍東有鋀石釋迦佛立像,高百餘尺,分身別鑄,總合成立。(注:東大仏のこと)
城東二三里伽藍中有佛入涅槃臥像,長千餘尺。(略)
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中津市・長者屋敷遺跡 北側に礎石使用の高床式倉庫跡

2008年09月13日 | Weblog
 中津市教委は12日、同市永添の古代の役所「下毛郡衙(しもげぐんが)」の正倉(米蔵)跡とみられる長者屋敷遺跡から、新たに礎石を使った高床式倉庫跡が見つかったと発表した。正倉で礎石建物跡が見つかったのは九州では2例目という。
 95~00年度の調査では、8世紀中旬~10世紀前半の墨書土器、掘っ立て柱の高床式など倉庫11棟の跡や、多量の炭化した米も出土し、大分県内初の郡衙正倉の遺構発見とされた。同時に南方に90m、東西90mの溝が発見された。
 07、08年度に遺跡北側の約5600㎡を調査した結果、縦11・5m、横7・3mの長方形の線上で、高床式倉庫の礎石14個(直径75cm~1・5m)が出土し、掘っ立て柱の高床式倉庫2棟の跡、また北限の溝と柵列が見つかり、正倉の区域が南北120m、東西90mの1.08ヘクタールと判明した。
 市教委によると、正倉の礎石は、九州では「玉名郡衙」(熊本県玉名市)で出土しているが、建物の一部で、全体が見つかったのは今回が初めてという。建物が掘っ立て柱式から礎石式へ質的に高まっていく様子が分かり興味深とする。
 市教委は、20日午前11時から現地説明会を開く。 問合せは市教委文化財係0979・23・8615。
[参考:毎日新聞、西日本新聞]
礎石建て正倉跡発見 長者屋敷遺跡で中津市教委(西日本新聞) - goo ニュース
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鳥取市・松原古墳群 横穴式石室見つかる

2008年09月13日 | Weblog
先に、現地説明会開催(9/14)の予定が発表されていたが、その概要が報道された。

有力豪族を埋葬か
 鳥取市松原の「松原古墳群」(6世紀ごろ)から、同市の湖山池南側の古墳群で最大の横穴式石室が見つかり、県埋蔵文化財センターが12日発表した。同センターは「被葬者は、地域の豪族の中でも有力者だったみられる。石室の構造や古墳の変化を考えるうえで貴重な資料」としている。
 国道9号鳥取西道路の建設に伴い、4月から約4000㎡を調査。石室は直径12mの円墳で見つかり、全長は7・3m、幅は最大1・5m、高さは1・7m。これまでに湖山池南側で見つかっている三つの横穴式石室より大きかった。盗掘されており、副葬品はなかった。
 松原古墳群では1970年代以降、これまでに28基の古墳が見つかっていた。今回はうち8基を調査し、新たに2基が出土。同センターの久保穣二朗所長は「築造時期や構造を分析し、当時の豪族の勢力図などを浮かび上がらせたい」と話している。
[参考:読売新聞、、前出]
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田辺市海蔵寺通り 砂丘広がり弥生時代の集団墓地 

2008年09月13日 | Weblog
 約2000年前の弥生時代中期、田辺市の中心市街地に砂丘が広がり、砂丘の尾根周辺に、集団墓地が作られていたことが、県文化財センターの発掘調査で分かった。昨年から続いている海蔵寺通りの発掘調査で、供え物の壷を伴う墓が3基、壷を伴わない墓穴が4カ所で確認された。その後の開発で失われた部分も多く、広範囲に墓地が広がっていた可能性があるとする。
今年は6月から約1300㎡で発掘調査を開始。8月下旬、死者とともに埋められたとみられる弥生時代中期の取っ手付きの壷(最大径約19cm、高さ約25cm)と高坏(直径24cm、高さ約25cm)の弥生土器が出土した。
 昨年6、7月の調査(約330㎡)では、壷を伴う墓が2基、墓穴とみられる土坑が4カ所確認されている。1カ所からは土器の破片が出ている。この辺りの土質では人骨は残らないという。
 田辺市の中心市街地では、今福町や南新町、下屋敷町、湊神田町などからも供献の壷やその破片などが出土している。このことから、会津川付近から弓形に砂丘の尾根が続いていて、集落ごとに集団墓地が作られていたとみられている。住居地は離れた場所で、秋津町辺りの平野にあったと推測されている。
[参考:紀伊日報]
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中野市 柳沢遺跡 銅鐸計4個に

2008年09月12日 | Weblog
弥生のクニ、原型裏付け
 長野県埋蔵文化財センターは12日、昨年に東日本で初めて弥生時代の青銅器「銅鐸」と「銅戈」が一緒に出土した中野市の柳沢遺跡で、新たに弥生中期ごろの銅鐸の破片が少なくとも3個分出土し、同遺跡で出土した銅鐸が合わせて4個以上になることが分かったと発表した。
 銅鐸が4個以上出土した遺跡は全国で10例もない。
 柳沢遺跡では昨年、祭器として使われた銅鐸と銅戈7本(大阪湾型6本、九州型1本)が同時出土。東日本の長野に、弥生時代のクニの原型になる有力な集団が存在していたことを示す発見として注目を集めた。
 想像以上の強力な集団がいたことを意味付ける成果だとみられる。
[参考:共同通信、前出]


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土佐清水市 加久見城館遺跡 家臣団の建物跡

2008年09月12日 | Weblog
①加久見(かぐみ)氏家臣の屋敷跡確認 [2008年09月11日18時10分 高知新聞]
 土佐清水市の加久見城館遺跡で、加久見氏家臣団の新たな屋敷跡を確認。市が11日発表。15―16世紀に有力武士だった同氏の勢力裏付ける。

②加久見城館遺跡:鎌倉時代の家臣団の建物跡 中国製天目碗も出土-土佐清水 [9月12日16時1分 毎日新聞] 
 土佐清水市教委は11日、加久見城館遺跡(同市加久見)から、鎌倉時代の家臣団の建物跡や中国製の貿易陶磁器の破片、石仏などが見つかったと発表した。
 発掘は市教委が県埋蔵文化財センターの協力を受け、同遺跡内の屋敷跡や田んぼ、寺院跡など3カ所を調査。家臣団の建物跡は、昨年の発掘調査で見つかった加久見氏の屋敷跡近くから見つかり、中から天目碗の破片が出土した。天目碗は中国から輸入したもので、一般の集落からは出土しないため、家臣が加久見氏から拝領したものとみられる。
 この他、寺跡からは五輪塔、一石五輪塔、石仏など約140体が見つかった。
◇あす現地説明会
 市教委は13日午後1時半から現地説明会を開く。問い合わせは市教委(0880・82・0472)へ

(考察)
 以上2紙による表題のニュースが発信された。
 同じニュースと思えるのだが、集約できない。年代が鎌倉時代と15-16世紀と別時代だからである。
 加久見氏一族と特定するにはいまのところ15世紀以降が相応しいし、天目碗の出土は13世紀頃が適当に思える。
 13世紀末は北条氏が全国各地の主要な海運拠点の掌握に努めていた時期であり、北条氏と・加久見氏との関係も考えられる。

 昨年12月には、加久見城館遺跡で鎌倉時代(13世紀後半)の掘立建物跡や中国製陶磁器「青白磁梅瓶」の破片、室町時代(15世紀中頃)の石列遺構などが発見された。同城館は土佐一条家の重臣・加久見氏の屋敷跡とみられるという。[毎日新聞]とのニュースがあった。
 さらに、加久見氏一族とその家臣の墓であると伝えられている、加久見五輪塔群中の一基に「貞治二四月十九」の年代銘(1363年)があり、加久見氏一族がこの地に14世紀以前にもいた可能性も大いにある。
 いずれにしても、詳細を待つしかない。
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長崎・平戸 キリシタン遺構 全身人骨発見 伝承裏付け

2008年09月12日 | Weblog
ウシワキの森で見つかった人骨
 平戸市教委は11日、キリシタンの殉教関連の埋葬跡との伝承が残る同市大石脇町の「ウシワキの森」で行っていた発掘調査で、石組み遺構の下から殉教者ではないかとみられる全身人骨一体が見つかったことを発表した。
 ウシワキの森は、豊臣秀吉の伴天連追放令(1587年)後のキリシタン弾圧時代、1000人の村人をかばって処刑された「おろくにん様」と呼ばれる一家6人が埋葬されたと伝えられる。
 8月に行った試掘調査で人為的に石が並べられた3か所を確認。うち1か所(約1.5m四方)を今月8日から、さらに掘り下げた結果、身長1m30前後のほぼ全身分の人骨が、体を伸ばしたような状態で見つかった。
 仏教の一般的な埋葬形態である屈葬と異なり、仰向けに伸ばした「伸展葬」状態で見つかったことから、キリスト教にかかわる人物ではないかとみられる。 
頭部付近には、くぎの様な金属片もあったことから、棺は木製だった可能性があるという。
 埋葬された状況などから、弾圧時代の16世紀末から17世紀初めに埋葬された信者だった可能性が大きいとみている。
 人骨は8日、深さ約1mの砂地から見つかり、身長約130cm。性別などは不明で、13日に掘り出し、形質人類学の専門家が調べる。
 発掘現場を見た活水女子大の下川達弥教授(考古学)は「キリシタン墓地の発掘で完全な人骨が発見されたのは例がなく、大変貴重な発見」と話している。
[参考:読売新聞、西日本新聞、朝日新聞、前出]
殉教者? の全身人骨発見 平戸市「ウシワキの森」 「伝承の裏付けに」(西日本新聞) - goo ニュース

(前出参照)
 東京駅八重洲北口遺跡では、同時期頃のキリスト教信者が仰臥伸展葬で埋葬された長方形木棺や土坑墓が見つかっている。
発掘された日本列島2008 「…江戸の誕生」初期のキリシタン遺物
平戸市・殉教遺跡の発掘開始 隠れキリシタンの歴史実証へ

平戸市のウシワキの森 石組み遺構出土 隠れキリシタン 殉教者埋葬跡か(西日本新聞) - goo ニュース

備考
 日本最古のキリシタン墓碑としては、高槻市千光寺跡の『田原礼幡キリシタン墓碑』(天正九年(1581))であり、周辺では同じように木棺に埋葬された「伸展葬」状態の人骨が見つかっている。
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紫香楽宮跡発掘再開へ 万葉集の歌木簡の謎解きに期待

2008年09月12日 | Weblog
補正予算で増額され発掘再開へ
 宮町遺跡は00年に100mを超える長大な建物跡が出土し、公式儀礼を行う「朝堂」跡が確認されたが、天皇が暮らした内裏の中心部などは未確認。県の補助金の削減により、83年から続いていた発掘調査が今年度初めて凍結され、全容解明が危ぶまれていた。
 しかし、万葉歌の書かれた歌木簡が全国で初めて出土したことを5月に発表したのを機に、市は県に調査再開を要望。7月には同宮に関連する鍛冶屋敷遺跡(同町黄瀬)で役所跡とみられる新区画が見つかり再開を望む声が高まっていた。
 市教委は10日、予算削減で凍結されていた発掘調査を年内をめどに再開すると発表した。市教委は12月に「内裏」があったと想定される朝堂跡の北側で発掘を再開する。約700平方メートルの調査ができる見通しとなった。

宮町遺跡: 聖武天皇(701~756)が造営した紫香楽宮跡とされる。甲賀市信楽町宮町にある。

[参考:京都新聞、毎日新聞、前出]
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鳥取市 松原古墳群 現地説明会開催予定

2008年09月12日 | Weblog
松原古墳群の概要  
 湖山池の南岸の尾根上に立地する古墳時代後期(約1500から1400年前)に築造された古墳群。 
発掘調査によって、円墳8基及び方墳2基の計10基の古墳を確認している。

日時:平成20年9月14日(日) 午後1時30分~3時(小雨決行)
場所:松原古墳群(鳥取市松原198番地外)
問合せ先: 鳥取県埋蔵文化財センター美和調査事務所 電話090-1182-4918
[参考:鳥取県埋蔵文化財センターHP]
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東広島市・溝口4号遺跡 鎌倉時代の荘園「高屋保」の管理跡出土

2008年09月11日 | Weblog
 同市高屋町の溝口4号遺跡内で鎌倉時代の荘園の管理跡が出土したとのニュースである。
 一方、財団法人東広島市教育文化振興事業団のサイトの8月31日付け発掘調査速報では、同遺跡から弥生時代中期の竪穴住居跡が見つかったことが報告されている。「大きさは、直径約6m、深さは約0.3mの円形で、周囲に10本程度の柱穴が見える。中心には炉が存在し、それを挟むように柱穴が出土した。これは松菊里型(しょうぎくりがた)とよばれ、朝鮮半島において、文様がなく全体的に厚手の土器を使用していた人々、いわゆる無文土器文化を形成していた集団により、この住居の作り方が日本に伝えられたといわれている。弥生時代初頭に九州でよく使われていた形態で、以後西日本で急速に発達した。」とのこと。
[参考:財団法人東広島市教育文化振興事業団HP]

鎌倉時代の荘園管理跡が出土(中国新聞) - goo ニュース
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