歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

長野県中野市 立ケ花表遺跡 須恵器の窯跡出土

2008年09月11日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは10日、立ケ花表遺跡で、8世紀後半ごろ(奈良時代後半~平安時代初め)とみられる須恵器の窯跡3基が出土したことを発表した。
 うち1基は、傾斜を利用した、長さ12・4m、幅1・6-2m、深さ40cm。焚き口から木を燃やす部分までは傾斜、須恵器を焼いたとみられる部分は平たんなのが特徴でこのような形態の窯は県内では初めてとしている。
 同遺跡は高丘丘陵の東側斜面に位置。この丘陵には、ほかに17遺跡あり約50基の窯跡が出土しており、須恵器生産の拠点と位置付ける。
 同センターは13日午前9時半から正午まで、現地地説明会を開く。
[参考:信濃毎日新聞]

 立ケ花表遺跡は昭和44年12月に発見された。1号址は大破されていたが、糸切底を持つ残存遺物が見つかっており9世紀初頭の窯跡、2号址はヘラ起こし底であることから8世紀末葉と推定された。2号址上方約22mのところに2基の窯跡(3号址、4号址)があることがわかった。
[参考:中野市立ヶ花表山古窯址調査/金井汲次氏]
 同遺跡は、7本の銅戈が出土した同市柳沢遺跡の南南東3kmの位置にある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発掘された日本列島2008 「…江戸の誕生」初期のキリシタン遺物

2008年09月11日 | Weblog


 発掘された日本列島2008 「発掘された近世都市”江戸”の誕生」キリシタン遺物「メダイ、ロザリオ玉」
 会場には、「寛永江戸全図」(複製、臼杵市教育委員会原資料所蔵)の大きなポスター・パネルが飾られており、そこに数人が長々と話を交わしていた。当時、ここには何があったか、あるいはそれ以前はここはどこそこだったとか、きりがない。
 2006年9月29日、臼杵市立図書館蔵の寛永江戸全図が現存最古級の江戸全図であることがわかった。大きさは3.1×2.7m、寛永20年(1643)の江戸城下を手書きで描いたもの...[西日本新聞より]
と最近になって発見された地図で、かなり地形がわかる優れたものである。
 これから、話を進める東京駅八重洲北口遺跡、ここでの大きな目印は呉服橋である。先の江戸全図で、呉服橋は後藤橋と記されている。その他にも寛永江戸図(1624~1643年)、武州豐島郡江戸庄圖(明暦大火1657年直後)でもしかり。
 17世紀の後半ごろから呉服橋と記されるようになる。後藤橋の後藤とは、徳川家康が連れてきた幕府御用達の呉服師後藤縫殿助のことであり、寛永江戸図には「元ごふく丁」の地名が記されている。また、文久3年(1863)の江戸切絵図には「呉服町」となっており、そこに(現在の中央区八重洲一丁目3番22号あたり)「後藤」と家の名前が記されている。すなわち、八重洲から呉服橋(後藤橋)を渡り終えると、大きな屋敷があり、それが江戸初期から幕末まで続いた呉服師後藤家の屋敷であった。
 呉服橋があった場所に立てられている案内板には、下記のように記されている。
 『以前、ここには外堀があり、江戸城の外郭門の一つ呉服橋がありました。そして、門に付属する橋である呉服橋が架けられました。
 「御府内備考(ごふないびこう)」という史料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにあります。
古くは後藤橋といへり。【寛永中江戸絵図】呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱へ来れりと。【江戸紀聞】今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼称なるべし。(後略)
 これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(1624~43)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。
 なお、外堀が昭和29年(1954)頃から埋め立てられたため、呉服橋も含め外堀沿いの橋は次第に姿を消していきました。       平成九年三月 千代田区教育委員会』

 さて、話は(呉服橋を渡り)戻り、2007年7月~2001年6月にかけて、千代田区八重洲北口遺跡(千代田区八重洲1-8)の調査が行われた。今回、その出土品が出展されていた。興味を持ったひとつが「メダイとロザリオの玉」(写真)である。この地が、近世初頭の墓地であり、キリシタン遺物および人骨の出土により、キリスト教信者が当時の江戸にいたとの証である。その出土場所は、現在のグラントウキョウ・ノースタワーから丸の内トラストタワーまでの辺りである。調査層は現在を含めて5面で、各々の面の状況を大まかに箇条書きにすると下記のようである。
0面:大正3年(1914)、東京駅開業に伴って建てられた鉄道院庁舎の基礎。
1面:文化3年(1806)~幕末の北町奉行所に伴う遺構。
2面:元禄11年(1690)火災以降~文化3年(1806)の大名屋敷の遺構。
3面:元禄11年(1690)以前、北側に南町奉行所、南側に小笠原家の遺構。
4面:近世初めの溝、掘立柱建物跡、墓跡が出土。墓には長方形木棺や土坑墓が見られ、仰臥伸展葬で埋葬され、このうち1基からメダイ、ロザリオ玉(写真)などのキリスト教関連の遺物が出土し、それらの遺物などから16世紀末から17世紀ごく初頭の遺構面と見られる。
[参考:「千代田区東京駅八重洲北口遺跡の調査」金子智氏、前出]
 江戸博物館で行われていた「発掘された日本列島2008」は先月末に終了しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

指宿市・敷領遺跡 開聞岳噴火埋没の住居跡出土

2008年09月10日 | Weblog
 指宿市十町の敷領遺跡で、874年3月25日との記録がある開聞岳大噴火で出来た「紫コラ」と呼ばれる火山灰地層の下から埋まった住居跡が見つかった。
長さ6m、幅4m、柱跡の穴が計10基あった。壁を盛り土で支えていたらしい。 中央に炉の跡、四隅に柱が立っていたとみられる穴がある。
 同様の発見は北西に2km離れた橋牟礼川遺跡(同市十二町)=国指定史跡=に次ぎ2例目。
 保存状態がよく、調査にあたったお茶の水女子大や鹿児島大関係者は、火山噴火の被害分布や当時の生活を知る上で極めて重要な遺跡になるとみている。
 開聞岳からの直線距離は約12km。同じくらい離れた橋牟礼川遺跡の柱が倒壊しているのに比べ、噴出物の堆積量が少ないためか、柱などが倒壊した跡はなく、壁外側と地面のすき間を埋める盛り土も見つかった。遺跡内では須恵器なども数点出土した。
 調査は両大学の火山噴火罹(り)災地生活文化環境復元研究の一環として8月25日から実施。874年の噴火当時に関しては、敷領遺跡内で2005年に水田跡、07年に畑跡が見つかるなど当時、推定で20ヘクタールに及ぶ大規模な営農がうかがえているが、日常生活の跡は未発見だった。
[参考:9/6南日本新聞、毎日新聞]
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仙台市 十八夜観世音堂「菩薩立像」・奈良時代制作か

2008年09月10日 | Weblog
 仙台市太白区長町1丁目の十八夜観世音堂の「菩薩立像」が、8世紀後期ごろの奈良時代に造られた仏像の可能性が高いことが9日、東北大と市博物館の調査で分かった。大和朝廷があった近畿で発祥した針葉樹の一木造りで、東北に現存する最古の木彫り像とみられる。
・・・と、河北新報社が10日報じている。
 「菩薩立像」と記されているが、慈覚大師の作とされている勢至観音像のことか。
慈覚大師(794~864)が一本の木から造ったとされる3体の観音像が仙台市の3寺にあり、根元(本木)の像が日辺(にっぺ)の両全院に、中木の像が四郎丸地区の落合観音堂に、末木の像が長町の常蔵院にあるといわれている。

さらに、記事に戻ると、
 観世音堂の半径2kmには、東北最古の役所「郡山官衙」や官衙に付属する「郡山廃寺」「陸奥国分寺」といった遺跡群がある。菩薩立像が仙台で造られたかどうかは不明だが、東北の古代史を解明する上で貴重な調査結果といえそうだ。
 東北大大学院文学研究科の長岡龍作教授(東洋日本美術史)と市博物館の学芸員らが共同で調査し、東日本の仏像の分布を調べる過程で菩薩立像に注目した。
 菩薩立像は高さ138.5cm。1本の針葉樹から彫りだした一木造りで、細身で腰が高い位置にあるといった特徴が分かった。
 一木造りや細身の造形は、奈良時代の近畿地方で760―770年ごろに造られ始めた仏像に特有の特徴とされ、長岡教授らが「8世紀後期ごろの制作」と推測する根拠になった。
 菩薩立像は言い伝えなどから、慈覚大師円仁が835年ごろに造ったとされてきた。しかし、詳細な年代調査はされておらず、文化財にも指定されていない。今回の調査で、造られた年代は50年程度、さかのぼる可能性が高くなった。
 奈良時代の一木造りの仏像は千葉、栃木などに残っているが、東北では確認されていなかった。福島県湯川村の勝常寺にある国宝「木造薬師如来坐像」「日光菩薩立像」「月光菩薩立像」は9世紀初めの平安時代初期の作で、広葉樹のケヤキを使っている。
 長岡教授は「長い間地域に守られ、伝えられてきたことは奇跡。陸奥国府などがある地域だが、当時の仏像が見つからない空白域だった。古代史を考える重要なきっかけになる」と強調する。
 菩薩立像は、11月14日に仙台市博物館で始まる展覧会に出品予定で、市博物館が収蔵している。
[参考:河北新報]

(備考)
名取三観音
 慈覚大師(794~864)が承和二年(835)一本の木から造ったとされる三体の観音像を祀る観音堂を指す。
 根元(本木)の像が日辺の両全院に、仲木の像が落合観音堂に、末木の像が長町の常蔵院にある。

両全院観音堂 (往古・天台宗 本木(もとき)山観音寺 仙台三十三観音の第26番札所)
 荒廃して後に修験寺の両全院として再興されたが,これも明治初期に廃寺となり,観音堂だけが残った。
 根本(本木)を使用した観音像を祀っていたが、明治15年(1882)の火災で全て焼失し、現在のお堂や本尊は明治末に再建されたものである。

落合観音堂 (真言宗 無畏山落合寺 仙台三十三観音の第31番札所)
 中木使用の十一面観世音菩薩像を祀る。
 はじめ袋原下谷地の河原にあったが,寛永4年(1627)伊達政宗が落合に移し,別当を修験の大善院とした。昭和25年(1950)から光西寺が管理している。昭和26年(1951)堤防工事のため旧地やや南方の現在地に移転した。

十八夜観世音堂 (天台宗 成就院常蔵院観音堂 仙台三十三観音の第32番札所)
 末木使用の勢至観音立像(1m程)を祀る。
[境内案内板より]
常蔵院観音堂(十八夜観世音堂)は天台寺門派に属し康平二年(1059)に千達御師による開基とされる。古くは大年寺山麓根岸の南面の地にあった。元禄十年(1697)大年寺に伊達家霊廟が整備されるに及んでこの寺は長町一丁目のこの地に移った。三間四方(5.4×5.4m)の堂内には1m程の勢至観音立像が祀られ承和二年(835)慈覚大師の作と伝えられている。地元からは「十八夜観音として尊崇されており、旧暦の十八日の夜に月待ちの講が開かれ信仰の対象とされた。毎年5月3日には地域町内会と商店街によって祭典が催され、子供御輿が繰り出され賑わいを見せている。  (平成11年4月吉日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原資房の日記「春記」裏に空海の教え 大谷大博物館で9日公開

2008年09月09日 | Weblog
 平安時代の貴族・藤原資房(すけふさ)(1007-57)の日記「春記(しゅんき)」の大谷大所蔵写本(平安時代末期、重要文化財)の紙背に、密教と空海の教えを伝える経典「顕密立教差別記」の記されていることが分かった。9日から大谷大博物館(京都市北区)で開かれる企画展で公開する。
 資房は蔵人頭、参議など朝廷の要職を務め、政治や行事、社会の動きを記した「春記」は当時を伝える貴重な文献として知られている。
 「春記」の自筆本は不明。大谷大所蔵の写本は最も古い系統で真言宗の経典が紙背に記された「東寺本」と呼ばれるうちの一巻。大学の調査で、経典は真言宗から見た天台宗などの教えや空海の教学について、平安末期の真言宗の学僧寛有(かんゆう)が著した「顕密立教差別記」と分かった。
 企画展「重要文化財『春記』と紙背聖教」は大谷大と京都国立博物館所蔵の東寺本「春記」四巻を公開する。27日まで(日月休館)。
[参考:京都新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三鷹市・天文台構内古墳 現地見学会 続き

2008年09月09日 | Weblog
 この古墳の年代の特定は、発掘で見つかった須恵器による。 
 須恵器は掘り出されてはいないので、見学会のテントの中でリモコン・カメラを操作しながら液晶画面に現れた画像(写真)に説明を加えていた。
 青白い色をした須恵器の壺(高さ25cm、胴直径16cm)は酒器として使われていたもので、その口の部分に赤色の供献用の土師器の杯(直径10.5cm、)2点が見つかっている。
 須恵器の壺ほぼ完全な形で、形状から大化改新後(650~675年頃)に東海地方・湖西窯で作られたと見られている。

 湖西窯・須恵器の生産は5世紀末頃から開始される。7~8世紀頃が最も盛んで、流通圏は静岡県をはじめとし、山梨県・神奈川県・東京都・埼玉県・千葉県・茨城県・福島県・宮城県の遠隔地に広がり、最北端は青森県八戸市にまで達するという。[参考:湖西市商工会HPより]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三鷹市・天文台構内古墳 現地見学会

2008年09月07日 | Weblog
 7世紀に造られた上円下方墳である三鷹市天文台構内古墳の現地見学会が、昨日と今日の2日連続でしかも1日に2回実施された。昨日は800名の見学者、そして今日は昨日よりも多い見学者が現れ、1000人になるかもしれないという。
 天文台の構内は広いが、周りは住宅地であるから住民の見学者も多い。結構、母親と娘の組み合わせも見かける。
 26日に、玄室の角から7世紀後半のものとみられる須恵器などの3点の副葬品が見つかった。
 青白い色をした須恵器の壺(高さ25cm、胴直径16cm)は酒器として使われていたもので、その口の部分に赤色の供献用の土師器の杯(直径10.5cm、)2点が食い込んでいた。壺はひび割れがなく、ほぼ完全な形である。形状から、大化改新後(650~675年ごろ)に東海地方で作られたと見られ、盗掘されていない可能性が高くなったとする。
 壺は東海地方の湖西窯と説明しているが、確認すると、まだ取り出していないので確定ではないという。(注1)
 また、棺は木棺の可能性があるが、釘が見つかっていないので今のところ不明であり、ただし、石棺の可能性はないという。
 北大谷古墳(八王子市)、武蔵府中熊野神社古墳(府中市)と天文台古墳(三鷹市)は西から東へ一直線上に同じような間隔で並び、何らかの関係があると話す。

(写真)左上:第一赤道儀室(2002年国登録有形文化財に指定)横に並ぶ見学者
     左下:南東部の周溝(境界を示すものとの説明)
     右:横穴式石室

(注1)その後、三鷹市教委の担当の方から、須恵器の壺はフラスコ形長頸瓶であり、浜名湖の西岸に分布する湖西古窯跡群の産であることをご教示いただいている。

<備考>
1970年 初調査を行う。
 縦横27~28mの方墳に径18mの円墳が乗った形状の古墳。高さ2.1m(推定高さ3.7m)。
2007年 上円下方墳(国内4例目)として確認される。
 7世紀に築造。石室が3室構造である、全長6.9mの切石を用いた複式胴張り構造の横穴式石室を持つ。
 西7.5kmには、03年に発見された、国内最大の上円下方墳(1段目1辺32mの方形、2段目径16mの円形)である武蔵府中熊野神社古墳がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足利市・樺崎寺跡 整備を記念しシンポジウム開催 

2008年09月07日 | Weblog
 史跡樺崎寺跡の保存整備第一期工事完了を記念したシンポジウム「東国中世史の中の樺崎寺跡-足利氏・寺院・庭園」が10月12、13両日、市民会館で開かれる。
 同寺跡は中世を代表する豪族足利氏の氏寺跡・廟所跡で、浄土庭園を持つ中世寺院の遺跡。市は2001年に国史跡指定を受けてから保存整備を始め、07年度に第一期工事として多宝塔跡など八幡山ふもと部分の整備を終えた。
 市は「足利学校と足利氏の遺産」の構成資産の一つとして世界文化遺産への登録を目指している。
 運慶作の木造大日如来坐像が、海外への流出の危機に遭い全国的なニュースとなったが、この仏像は同寺に納められていたという。
 12日は午前中、現地を見学。午後は市教委職員が発掘調査を説明した後、鶴見大の伊藤正義教授が「東国中世史の中の樺崎寺跡」のテーマで講演する。
 13日は午前十時から「足利氏と樺崎寺」(県立博物館の千田孝明さん)「鎌倉と足利」(鶴見大の河野真知郎教授)「樺崎寺跡庭園の意義」(京都造形芸術大の仲隆裕教授)などの事例報告がある。
 無料だが、申し込みが必要。問い合わせは市教委文化課電話0284・20・2230へ。
[参考:下野新聞、前出]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ 世界最古の鉄剣 材料は隕石

2008年09月07日 | Weblog
 1938年にトルコのアンカラ郊外のアラジャホユック遺跡の王墓から出土した約4300年前の世界最古の鉄剣が東京理科大と中近東文化センターなどの研究チームの精密な分析で鉄隕石を材料にした可能性が高いことが分かった。
 鉄剣は全長約30cm(刀身約18cm)で、柄と鞘は純金製。
 持ち出しが制限される貴重な文化財のため、研究チームは超小型の分析装置を開発、鉄剣を所蔵する同国アンカラの博物館に持ち込み、精密な分析を行った。
同大の中井泉教授らの研究チームは、大阪府の分析機器メーカーと共同し、蛍光X線分析装置を小型、高性能化し、携行を容易にした。
 昨年9月、この装置をアナトリア文明博物館に持ち込み、鉄剣の刀身部分を詳しく分析したところ、刀身の鉄には、隕鉄に特徴的なニッケルが約7%含まれていることが判明。コバルトなどの微量元素の組成も、隕鉄に極めて似ていることが分かった。
 地球の鉄にはニッケルがほとんど含まれないが、隕石の鉄には約5%以上含まれることに着目していた。
 研究成果は、10日から福岡市で開かれる日本分析化学会の年会で発表される。
 分析した中井教授は、「鉄隕石を切り出し、打ち延ばして作ったのではないか。鉄は当時、金よりも貴重だった。人類と鉄の関係を考える上で非常に意義深い」と話している。
[参考:産経新聞、時事通信社]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大仙市・半在家遺跡 10世紀前半の高官用トイレ跡?

2008年09月07日 | Weblog
 4日大仙市文化財保護課は、大仙市高関上郷の半在家(はんざけ)遺跡で10世紀前半の平安時代の水田跡が見つかったトイレ跡と東西南北に延びる大あぜ(大きなあぜ道)跡が出土したことを発表した。身分の高い役人らのために整備されたとみられる。
 方位が正確な大あぜは、水田の区割りに活用したとも考えられ、当時の耕地割りである条里制との関連が注目される。
[参考:秋田魁新報]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸市 台渡里廃寺 近くで巨大な豪族居館の堀か

2008年09月06日 | Weblog
台渡里廃寺近くで巨大な堀 豪族が地域政治担った証拠(共同通信) - goo ニュース
 
 茨城大人文学部は5日、奈良時代から平安時代の台渡里(だいわたり)廃寺や正倉院(倉庫群)跡近くの大学運動場で、古墳時代の豪族居館のものとみられる巨大な堀の跡が見つかったと発表した。
 同学部の田中裕准教授は、律令下の税制「租庸調」の祖である米を蓄える正倉院や寺があった政治の中心地に豪族の住まいがあったとみられることで、豪族が地方行政官の「郡司」に任命され、地域政治をつかさどっていた有力な証拠になるとしている。
 外堀と内堀があり、正方形か長方形だったとみられ、その一部が見つかった。一辺の長さは外堀が約75m、内堀は約60m、深さ約2・5mで、幅は約7mと推定される。堀の内側では、柵を立てていた跡とみられる複数の穴も見つかった。
 田中准教授は「地域の政治の担い手を知る上で、全国的にも価値の高い資料」としている。
[共同通信]

台渡里廃寺
 台渡里廃寺跡は,那珂川右岸の標高30mの台地上の水戸市渡里町に所在する、白鳳時代から平安時代にかけての2つの古代寺院跡で、茨城県内で最も古い寺院跡の一つとされる。
 長年、寺院跡か郡衛跡か不明であったが、平成14~16年度の調査で寺院跡であることが確定した。
 水戸市の北部、田野川を見下ろす台地、渡里町に長者山と言われ、土塁・空堀などをめぐらす遺構がある。この付近に古くから古瓦等の出土がした。南方地区では土壇状の遺構が確認され、「仲寺」と墨書のある土師器等や「徳輪寺」の文字瓦から寺院が存在したことが知られ、土壇状の遺構は塔跡と推定される。長者山地区と観音堂山地区の遺構は、那珂郡衙に関連する寺院や正倉の跡と見られる公的な建造物であったらしい。

2004.1塔の「相輪」描いた瓦出土
 台渡里廃寺跡から、相輪を描いた8世紀前半のものとみられる瓦片(平瓦の一部、縦約18cm、横約16cmの破片など2つ)が出土。寺院の建物が描かれた瓦としては、多賀城廃寺(宮城県)の三重塔を描いた8世紀の瓦、法輪寺(奈良県)の金堂を描いた7世紀後半の瓦に続く全国3例目の出土という。
 瓦は、筒状に組んだ板に粘土を巻き付ける「桶(おけ)巻き作り」と呼ばれる技法で製作されていた。絵は2つの瓦片にまたがる形で、凸面の縦約20cm、横約6cmの範囲にへらで溝を掘るようにして描かれ、「九輪(くりん)」や「擦管(さっかん)」など相輪の一部が確認できる。[共同通信]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エルビス・プレスリー・ファンのひとり言 2

2008年09月05日 | Weblog
 前回に、プレスリー・ファンになった最初は中学3年の終り頃と述べたが、自分自身でもちょっとおかしいと感じていたが、1年さらに早く、中学校2年の終り頃が正しいことの証しが現れた。写真の「プレスリーのすべて」はRCAビクターが発行したPR用小冊子である。上は1963年発行、下は1964年発行。最後のページの方にはEPFCJ(エルビス・プレスリー・オブ・ファンクラブ・オブ・ジャパン)の紹介もちゃんと載っかっている。
 EPFCJは、昭和32年(1957)に創立された日本おける国内外のアーティストとしては最古のファン・クラブである。
 初代会長は前田キサさん。その前田キサさんのインタビュー記事と写真が写真の上の冊子に載っている。1本の映画を70回も見る真似のできない女性である。ファンクラブの会報誌「ELVIS」を今になって読み直してみると、前田キサさんの会への思い、会社との両立の問題、自身の体の心配などご苦労されている様子があらためて感じられる。

関連記事
 エルビス


キーワード
エルビス、エルヴィス
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いなべ市・中貝戸遺跡 鎌倉時代の掘っ立て柱建物跡 治平元寶出土

2008年09月05日 | Weblog
 いなべ市教委は、発掘調査を進めてきた同市大安町丹生川中の「中貝戸遺跡」で、鎌倉時代の掘っ立て柱建物跡8棟や井戸跡1ヶ所、そして建物跡からは中国の北宋時代に作られた銅銭「治平元寶(じへいげんほう)」が1枚、井戸跡からは、 日常生活に使われた茶わんなども見つかった。
 当時の人の暮らしを知る上で貴重な資料だという。
 7日午前10時半から現地説明会を開く。
 問い合わせは、市教委生涯学習課(0594・78・3521)。
[参考:毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久留米市・太郎原遺跡 古墳時代の31棟出土

2008年09月05日 | Weblog
 久留米市は4日、同市太郎原町で、3~6世紀ごろの古墳時代の竪穴式住居や掘っ立て柱建物の跡が見つかったと発表した。
 昨年9月、堤防拡張工事時に筑後川の堤防の脇で見つかった。約1100㎡の土地に、竪穴式住居跡29棟と掘っ立て柱建物跡2棟が密集。竪穴式住居は中央に炉を持つ3世紀ごろのものと、5世紀ごろから登場したかまどがあるものが混在していた。
 住居跡で出土した須恵器の器台は朝鮮半島製と似ており、筑後川を軸に他地域との交流が行われていた可能性がある。また、須恵器は同市善導寺町の木塚古墳(5世紀後半)の副葬品と同じく、朝倉・甘木地方で作られたとみられ、同古墳との強い関連性がうかがえるという。
 古墳時代前期から後期まで続く遺跡は珍しく、住居の変遷などの解明に期待が持てるとする。
[参考:読売新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三鷹市・天文台構内古墳 玄室から副葬品出土

2008年09月05日 | Weblog
 6,7日に一般見学会が開催される三鷹市天文台構内古墳から8月26日に、玄室の角から7世紀後半のものとみられる須恵器などの3点の副葬品が見つかっていた。
 青白い色をした須恵器の壺(高さ25cm、胴直径16cm)は酒器として使われていたもので、その口の部分に赤色の供献用の杯(直径10.5cm)2点が食い込んでいた。慎重に取り出す必要があり、まだ動かしていないが、壺はひび割れがなく、ほぼ完全な形である。形状から、大化改新後(650~675年ごろ)に東海地方で作られたと見られ、盗掘されていない可能性が高くなったとする。
 棺が残されているのかは今月中にも判明する見込み。
[参考:産経新聞、読売新聞、前出]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする