歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良県広陵町・巣山古墳 周濠近くから直弧文のある船形埴輪片が出土

2009年03月19日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所が19日、巣山古墳(4世紀末-5世紀初め、全長220m)の前方部正面から北約100mにある小高い丘のような場所を調査し、埋葬施設から、魔よけの文様とされる直弧文を施した船形埴輪の破片約50点が見つかったと発表した。
 巣山古墳で出土した死者の棺を運ぶ「喪船」の部材にも同じ文様があり、船形埴輪では全国2例目。埴輪は舷側(げんそく)板の一部(長さ約35cm、横10cm分)が確認され、本来は全長約1・4m、高さ約50cmで最大級という。
 埋葬施設は巣山古墳前方部側の周濠外部に設けられた、古墳の可能性が高く、巣山とほぼ同時期に造られていた。大王と関係が深い従者が葬られたのではないかとする。丘のような場所は南北20m、東西45mで、後世に大きく削られ、本来の形は不明。前方後円墳か方墳だった可能性があるという。
 また、巣山古墳のほぼ中心線上にあたる場所から、円筒棺(長さ1・5m、直径50cm)が見つかり、鉄剣や鉄製農耕具などが副葬されていた。そばには円筒埴輪10本が真っすぐに並び、船形埴輪の破片も散らばっていた。
 船形埴輪は、3月25~29日、同県橿原市の同研究所付属博物館で公開される。
[参考:産経新聞、共同通信、朝日新聞]
奈良で最大級の船形埴輪 巣山古墳、大王の従者葬る(共同通信) - goo ニュース

過去の記事および情報
 周濠外堤から長さ100mにわたる葺石が出土
 喪船の部材を公開
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忠清南道龍頭里、鳴岩里 3世紀頃の墳墓78基を確認 鉄剣、台付壷、馬形帯鉤が出土

2009年03月19日 | Weblog
 忠清文化財研究院は16日、昨年3月から忠南牙山市湯井面龍頭里と鳴岩里一円の工場敷地予定地を発掘調査した結果、土壙墓42基と周溝土壙墓21基、甕棺墓15基など3世紀頃の墳墓78基を確認したことを明らかにした。
 主な出土品
●土壙墓と周溝土壙墓から、鏃や槍、斧、鎌などの鉄製武器や鉄製農機具とともに鉄剣(철검)が多量に出土した。1-3世紀頃、中部地域の遺跡で出土する刃物は短剣一色であり、鉄剣は前例が殆どないという。
●台付壷(대부호)が数点発見された。慶尚道地域の辰・弁韓文化の影響を受けて製作されたと見られるが、登場時期は今回の発掘の方が早そうだという。
●土壙墓中、木棺を安置したと考えられる第20号墳と21号墳の二ヶ所の内部床から、馬の模様のあるバックル「馬形帯鉤(마형대구)」が各々1点ずつ出土した。(材料は記されていない)
●青銅器時代住居地49基と高麗および朝鮮時代の瓦窯と木炭窯などが確認された。
[参考:2009-03-16聯合ニュース]
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足利市・樺崎寺跡 南北朝期の池護岸を確認 

2009年03月18日 | Weblog
 市教委は16日、国史跡樺崎寺跡(法界寺跡)の浄土庭園の池の北東岸で二列並行する護岸を確認したと発表した。東側の護岸は南北朝期に築かれ、約1.5m西側の護岸はそれより後に新たに造り変えられたと見られる。護岸には5-20cmの石が張り詰めてあった。
 この地点は池の東の山裾にある多宝塔の対岸にあり、池岸を入り組ませるなどして景観に気を配った様子がうかがえる。
 護岸の確認により池の形状などが明らかになり、景観に気を配った美しい浄土庭園であることが裏付けられたとする。毛越寺(岩手県平泉町)に匹敵する浄土庭園を持つ寺院とも言われ、将来復元を目指す予定という。
 樺崎寺は鎌倉時代初頭に足利氏二代目の義兼が創建した足利氏の廟所。
 市教委は22日午後1時半から、樺崎寺跡で発掘現場説明会を開催する。
[参考:下野新聞]

過去の関連記事・情報
  足利市・樺崎寺跡 整備を記念しシンポジウム開催 
 NY競売の大日如来座像(真如苑蔵)東京国立博物館
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豊橋市牛川町・西側遺跡 縄文時代のフラスコ土坑が出土

2009年03月18日 | Weblog
 豊橋市教委は17日、同市牛川町の西側遺跡から縄文時代晩期(紀元前300年~900年)の遺構「フラスコ状土坑」が市内で初めて見つかったと発表した。
 同遺跡は縄文時代から江戸時代までの複合遺跡で、これまでに古墳、奈良、平安各時代の住居跡などが見つかっている。今回、遺跡周辺の区画整理に合わせて昨年5月から牛川小学校の北約200mの旧梨畑2650㎡の発掘調査を行い、先月末、遺跡北側の区域(約2700㎡)からフラスコ状土坑(内部をえぐって袋状とした穴)が3か所見つかった。
 3つの土坑はいずれも直径約1・4m、深さ70cm程度。今回、1か所の土坑から条痕文と呼ばれる模様が描かれた縄文晩期の土器の破片が見つかり、時代が特定できた。食料などの貯蔵施設として使われたと見られる。
 このほか弥生時代中期の方形周溝墓(いずれも一辺約10m)が3基、東西に隣接して並んだ状態で見つかった。この地の有力豪族の3代か、3兄弟といった「何らかの血縁関係を持った人が埋葬されたもの想像される」という。
 すぐ近くの別地点からは、弥生時代後期の環濠と竪穴式住居群も見つかった。なお方形周溝墓の上には、奈良時代以降に住居が建てられており、墓の存在は忘れられていたらしい。出土した遺物は奈良・平安時代ごろと中世のものが目立ち、柱穴などの遺構も多く見つかっていることから、大規模な集落が築かれていたとみられる。
 20日午後2時から牛川小学校北側約200mの西側遺跡(牛川町字西側)で現地説明会が開かれる。問合先は市美術博物館
[参考:東愛知新聞、読売新聞]

備考:牛川町といえば、「牛川人骨」で知られる。
 昭和32年(1957)人骨が見つかった。人骨の年代は、更新世後期(約10万年前)のものと考えられ、現存する化石人骨では国内最古といわれる。
 地図の中心は、牛川人骨が出土した場所(豊橋市牛川町字乗小路)とした。西側遺跡は、この場所から西北に約2kmの牛川小学校北側約200mの地点である。


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橿原市・観音寺地区遺跡 土器棺墓から縄文時代の4歳前後の幼児の骨発見

2009年03月17日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所は17日、同市の観音寺地区遺跡で出土した約3000年前の縄文時代晩期中葉の土器棺墓から、幼児の骨が見つかったと発表した。他地域の同時代の土器棺墓にあった人骨のうち、幼児と特定されたものは計7例。
 骨は、直径約40cm、高さ約40cmの深鉢を転用した棺の底に、人為的に並べるように置かれていた。いったん別の場所に埋葬した後、棺に入れ直して再葬した様子。見つかったのは、頭蓋骨、大腿骨(長さ12cm)、上腕骨など。頭蓋骨に残っていた歯の状態などから、4歳前後と推定される。性別は不明。
 一帯では計19基の土器棺墓を確認、骨が残っていたのは1基だけだった。
[参考:時事通信、共同通信]

過去の関連記事、情報
 2009.2.27
 2008.12.3
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韓国・海南郡 萬義塚 三国時代の古墳を確認

2009年03月15日 | Weblog
 朝鮮半島西南部に位置する海南郡は1597年丁酉再の乱(정유재란、慶長の役)での激戦地であった。海南郡玉泉面城山里一帯もそのひとつ。だが、野史に記されるだけで、あまり知られていない様子である。毎年10月10日になると、義兵1万人の犠牲者墓とされたとされてきた萬義塚(만의총)で特別行事(祭祀)が行われている。
 萬義塚は封墳3基からなり、東南から西南にかけて、3,1,2号墳と名付けられた。
 2007年3月に国立光州博物館が3号墳を発掘調査し、三国時代の痕跡が現れた。しかし、丁酉再の乱の犠牲者墓の痕跡は探せなかった。そこで、今回の1号墳の発掘をしようということになったそうだ。
 今回の発掘調査では、三国時代の石槨が現れ、貴重な副葬品がたくさん出土したが、石槨の上の封墳の土を採取し分析した結果、多量の人の成分が確認された。多数の人が埋められたこと確認されたのだ。村の人は今までの信仰に間違いがないことがわかり安堵したそうだ。
 さて、1号墳の出土状況に戻るとする。
 現れた石槨は墳頂を基準として約2m下で発見された。古い地表面を基準とすると、地上から80cmほど土段を積んでその上に用意した。石槨の長さは238cm、幅78cmで、長軸は東西方向にある。東側壁隣の場所の底から歯2個を収集したので、頭部は東側に向かって置いたとみられる。石槨の中には木棺があったものと推定されるが、棺材は皆腐ってしまっていて、また釘が見つからないことから、板を組み合わせて作ったものとみられる。
 出土した遺物は1100点余。
 石槨内部では土偶装飾瑞獣形土器(토우 장식 서수형토기、新羅系)、布で覆った青銅鏡、青銅腕輪、貝腕輪(倭系)各々1点と金装飾を重ねて被せた青銅勾玉(금장식 청동곡옥)、他にも無数の大・小型玉など、武器類では鉄刀1点と鏃が多量に出土した。
 石槨外部でも丸くて扁平な底をそろえた壷型土器の円底壷、首が長い壷型の軟質長頚壷(연질장경호)、有蓋台付鉢(유개대부호)、瓶と同じ土器類9点が出土した。
 今回の発掘成果から考古学界がとくに驚くのは、遺物の「多国籍性」だ。 百済系、新羅系、伽耶系、そして倭系が等しく混ざった様相を見せる。
墓築造時期が5世紀後半~6世紀初期には異見がそれほどない。さらに、外来系遺物が圧倒的に多くの様相を見せるが、その遺物ら大部分はこの地域で、このような外からの部影響の下で、自らが製作したものであるというのにも研究者らは概して同意する。
 この墓に埋められた人は、現代の基準から見れば、すごい国際感覚を持ち、恐らく国際貿易をしていただろうとする。

 墓様式にも特徴がみえる
  ▲木棺と石槨間の側壁に板石をはめている
  ▲石槨の蓋石と木棺の間の空間まで粘土で密封した
  ▲石槨底に板石を敷いた点
 などは百済も伽耶、新羅、日本などの基本的な墓祭形式とは違った独特の構造をしている。
 これは海南萬義塚3号墳で現れる前開式石室墳の横口式や栄山江一帯で発見される土器棺、甕棺などの既存百済式墓、新羅の石積木槨墓とは全く異なる。
 その上に石槨を作って使ったという点で伽耶の石棺墓とある部分似ているが、木棺の間の空間まで粘土で密封した点や石槨底に板石をはめた点は、伽耶墓と違いがある。
[参考:2009.2.23~3.9聯合ニュース]

備考:
 萬義塚は、1597年丁酉災乱(慶長の役)の際に、小西行長が率いる3万の日本軍により亡くなった韓国1万の殉節義兵の合葬墓だと伝えられてきた。
 「海南ユン(伊)氏の家系図でだけ知らされた野史」が史実である可能性を暗示するという。
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吉野・金峯山寺 蔵王堂西側

2009年03月15日 | Weblog
 吉野・金峯山寺の西側の写真をアップします。4年前のものです。
 さらに西側というと、階段で3m位降りたところが地表となり、吉野朝宮跡に至ります。
 前出
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扶余・陵山里跡隣地 泗比時代の石築百済窯を初めて発見

2009年03月14日 | Weblog
 韓国伝統文化学校は、扶余郡の依頼で昨年11月から、泗比時代百済王陵密集地区の扶余陵山里古墳群隣の地点、陵山里寺(능산리 절)の跡地西側の部分と扶余羅城(나성)城壁が隣接する地帯に形成された湾曲部1,700㎡を発掘調査していた。
 3月11日、この地域が土を削って固めて作った盛土敷地であることを確認したと発表した。
 ここでは金堂と塔があった所の中間を東-西方向に貫く百済時代溝形石列遺構と排水路、瓦窯をはじめとする百済時代遺跡と高麗時代建物跡1ヶ所が発見された。
 百済時代瓦窯は地上に露出した壁の部分は石で積んだ半地下式(반지하식)登窯(등요)であり、灰のような廃棄物が積もった部分の灰丘部とかまど、燃焼室、器や瓦を焼いた空間の焼成室、煙道部等が比較的完全な状態で確認された。 燃焼室で沿道部まで長さは約5.8m。
 調査団は「燃焼室と焼成室壁をみな石で積んだ泗比時代百済窯(백제가마)を初めて発見した」と話した。
[参考:聯合ニュース]
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奈良県吉野町・金峯山寺・蔵王堂 建立当初の瓦か 建立時期を考古学的に裏付け

2009年03月14日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所が13日、吉野の金峯山寺で、建立当初の本堂「蔵王堂」(国宝、16世紀)に葺いたとみられる平安時代後半(11-12世紀)の瓦が大量に出土したと発表した。
 現在の蔵王堂は檜皮(ひわだ)葺きで、瓦は創建時のものとみられる。この時代の山中に瓦葺きの建物があるのは極めて珍しいとする。
 蔵王堂の建立は、文献から11世紀末-12世紀初めとする説があったが、はっきりしていなかった。同研究所は「年代が合致しており、建立時期が考古学的に裏付けられた」とする。
 寺の記録「金峯山創草記」によると、蔵王堂での行事、曼荼羅供養が康和年5年(1103)に始まったとされる。別の文献には、寛治6年(1092)に白河上皇(1053-1129)が金峯山に詣でたとの記述があり、上皇の発願でこの間に蔵王堂が建てられたと想定されていた。
 瓦は現在の蔵王堂の西側の軒下で13世紀に整地された場所から、幅1m、長さ5mの範囲から平瓦、丸瓦、軒平瓦の破片約200点が出土した。型式や製法などから平安後期の製造と特定した。
 蔵王堂はこのころに2回焼失したとの記録があり、どちらかの再建の際に捨てられたらしい。
 金峯山寺は7世紀後半に修験道の開祖・役行者が開いたと伝わる。現在の蔵王堂(高さ34m、36m四方)は1592年に再建された。鎌倉時代の嘉禄元(1225)年の火災で焼失した記録があるほか、それまでに少なくとも4回は焼けたとされるが。
[参考:産経新聞、共同通信、朝日新聞]
平安の瓦出土、蔵王堂創建時のものか 奈良・金峯山寺(朝日新聞) - goo ニュース

蔵王堂の西側をアップしました。
蔵王堂・西側
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徳島市・川西遺跡 13世紀の将棋の駒「本横」(奔王)が出土

2009年03月13日 | Weblog

出土した将棋の駒。左下が「本横」の駒。(2011.6.14 「発掘された日本列島2011」江戸東京博物館にて撮影)

 徳島県埋蔵文化財センターが13日、川西遺跡(同市上八万町)の川跡から、「本横」と墨書きされた13世紀の将棋の駒が見つかったと発表した。
 センターは鎌倉-江戸時代に武士や貴族らが楽しんだ中将棋の駒「奔王(ほんおう)」(注1)の読みに適当な文字を当てたとみており、「付近に寺院があったようで、僧侶が遊んでいたのではないか」としている。
 駒は縦3・6cm、横2cmで、裏側に文字はなかった。「金将」2枚と無地の駒1枚があった。
 中将棋は、現在普及している縦横9マスの将棋と違い、縦横12マス。対戦者はそれぞれ46枚の駒を用い、奔王は飛車と角を合わせた動きができる。
 国内では興福寺(奈良市)境内から見つかった平安時代後半(11世紀)の駒(注2)が最古とされる。
 ほかに、漆器碗や下駄、櫛、木彫りの蓮花をあしらった仏具などの木製品が約2万点にも上り出土。木屑があることから、近くに木製品の生産工房があったらしい。
 扇などの装身具のほか、斎串(いぐし)、人形(ひとがた)などもあり、祭祀を行っていた様子もうかがえる。「クホ」「トミ」などとカタカナが書かれた木簡もあった。
 また、たくさんの素焼きの土器が完全な形のまま見つかり、密教仏具である独鈷杵(とっこしょ)を作るための土の鋳型も出土した。
[参考:共同通信、読売新聞、産経新聞]

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(注1) 駒「奔王(ほんおう)」と「酔像」(注2)は、大将棋(15×15)にも中将棋(12×12)にも使われている。中将棋の盤あるいは中将棋だけで使われた駒が出土したわけではないので、13世紀に「中将棋」があったとは言い切れないし、記事の内容だけでは判断できない。

(注2)1056 興福寺旧境内から将棋の駒が出土。「王将」3枚、「金将」3枚、「銀将」1枚、「桂馬」1枚、「歩兵」5枚、そして、習書木簡に「歩兵」、「金将」とともに「酔像」の文字が墨書されているという。一緒に出土したものに「天喜六年」(1056)の年号があり、このころのものと考えられるという。[参考:「古式象棋と将棋の伝来」清水康二(考古学ジャーナル428.1998)]

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姫路市・飯田遺跡 3世紀の竪穴住居から最古の板壁が出土

2009年03月13日 | Weblog
 同県立考古博物館が12日、飯田遺跡(同市飯田2)で3世紀(弥生時代末期~古墳時代初頭)の竪穴住居跡から壁と見られる木の板が出土したと発表した。初期の竪穴住居は屋根を地面までふき下ろすのが一般的で、古墳の副葬品の家形埴輪や銅鏡に描かれた家屋に壁があり、板を表したとみられる筋があるものもあることから、古墳時代(3~7世紀)までに板壁が登場したと想像されてきた。実際に竪穴住居の板壁が見つかったのは今回が初めてで、最古の例という。
 過去に大阪府泉南市の男里(おのさと)遺跡から板を支えたとみられる杭列跡が出土し、三世紀半ばには板壁の存在が推測されたが、今回は板壁そのものが出土した。同館によると、それ以前の竪穴住居は円錐型で屋内は狭く暗い。だが、この時期以降、板壁を立てて窓を設けたため、光が差し込み、屋内で手仕事が可能になったとみられる。住居史を考える上で重要な発見」としている。
 見つかったのは縦1.2m、幅8~15cm、厚さ0.5~4cmの薄い板材。焼けていたが、15枚ほどが重なるように並び、つるのようなものを使って横木で固定され、高さ約1.2m、幅約70cmの壁のように固まった状態で出土した。同遺跡からは一辺5m程度の四角形の床を持つ竪穴住居が14棟確認されており、板材はそのうちの1棟の縁付近から出土した。
 当時の先端技術で作られた薄い庄内式土器や、山陰、吉備、讃岐から持ち込まれたとみられる土器類も多数出土した。
 同館は、飯田遺跡と近くの長越遺跡が一体の集落で、人・物の一大交流拠点だった可能性を指摘する。
 14日午後1時半から現地説明会が開かれる。小雨決行。
[参考:毎日新聞、読売新聞、神戸新聞、朝日新聞] 
3世紀、最古の板壁つき竪穴住居 窓で中も明るく 姫路(朝日新聞) - goo ニュース
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総社市・宿寺山古墳 大型前方後円墳 初の発掘調査 葺石、盛り土断面を確認

2009年03月13日 | Weblog
 総社市教委が11日までに、古代吉備中心部の前方後円墳(全長120m)の1つである宿寺山古墳(総社市宿)の初の発掘調査で、前方部の葺石や盛り土の断面を確認した。
 全国第4位の造山古墳(岡山市新庄下)、同9位の作山古墳(総社市三須)などが集まる吉備路の中心部に位置する宿寺山古墳は、県内で大型古墳が姿を消す時期に造られており、吉備の古墳築造の転換期を探る手掛かりになると期待する。
 両巨墳に続く5世紀後半の築造だが、墳丘の大部分は開発で失われ、発掘調査は手つかずであった。今回は民家改修に伴い、前方部南西端の南北2m、東西30mを調査。西端で幅2m、高さ1・4mにわたり葺石が出土したほか、墳丘の断面から、造成の際に砂質土と粘土を交互に、非常に強く突き固めている様子が確認された。
 前方部幅はこれまで約75mと推定されていたが、墳端と考えていた部分で、盛り土がさらに続く様子が確認されえた。前方部幅は100m近くまで広がる可能性があると推測している。
[参考:山陽新聞]
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香南市・徳王子前島遺跡 奈良時代の古代木簡2点が出土 県内初

2009年03月13日 | Weblog
 高知県埋蔵文化財センターは12日、香南市香我美町徳王子の徳王子前島遺跡から、奈良時代(710~794年)のものとみられる文字の書かれた古代木簡2点が出土したと発表した。古代木簡の出土は県内初で、50点以上の祭用木製品などと一緒に発見された。
 木簡は、土盛りのために打った杭、畦道状の遺構などが見つかったことから水田の用排水路とみられる溝(長さ50m、幅3m、深さ1・5~2m)から出土。文字の練習用として使われた「習字木簡」(長さ約20cm、幅約3cm)と祭祀で使われた台形の「呪符(じゅふ)木簡」(上底10cm、下底14cm、長さ約14cm、幅約2cm)の可能性があり、いずれも文字は墨で書かれていて、中央から上と下に向かってそれぞれ2字ずつ、「Z」のような文字を墨で書いているが、薄くなっており、判読できないという。溝からはこの他、祭祀用などの木製品が50点以上、土器が数百点以上、人の顔を上端に描いた人形(ひとがた)3点も見つかった。先端をとがらせた板状の「斎串(いぐし)」は県内最多の22点あり、中には県内最大となる長さ43cmの斎串もあった。
 同センターは「文字を書けた役人ら知識層が土佐にいたことを確実に裏付ける。当時の耕作や徳王子の祭りの様相を示すものとして重要」と評価する。
 遺跡から2キロ北の十万遺跡では大型の建物跡が出土しており、役所か豪族の館があったと考えられている。
 14日午後1時30分から現地説明会が開かれる。
[参考:毎日新聞、読売新聞]
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東京葛飾区・柴又八幡神社古墳 99年に出土した土師器が6世紀後半ごろの渡来系文化の影響

2009年03月13日 | Weblog

写真は柴又八幡古墳出土埴輪 人物埴輪のうち、最右が「寅さん埴輪」、その左が「さくらさん埴輪」

 柴又八幡神社古墳(葛飾区柴又3-30-24)から10年前に出土した、6世紀後半のものとみられる土師器が、朝鮮半島由来の土師器をまねて作られたものであることが、同区教委の調査で分かった。「区郷土と天文の博物館」が昨年、この土師器の材質や形状を詳しく調べて判明し、今月、復元作業を終えた。
 土師器は99年7~8月の第3次学術調査で、神社の社殿西側の地中40~50cmから出土した。これまでにも土師器や須恵器がまとまって出土した場所。ほかの土師器や須恵器と同じく、人為的に割られた状態で見つかった。口径14cm、高さ17cm、底の部分は直径6~7cm。茶褐色で、内面は赤く塗られていた痕跡がある。牛の角のような形をした取っ手が付いているのが特徴で、このような土師器は朝鮮半島に由来し、大阪府内の古墳など西日本では出土例があるが、少なくとも関東地方では初めてという。
 古墳造営後に、この土師器などを使った儀式が行われて、廃棄されたとみられる。
 渡来系の文化が6世紀にはこの地にもたらされたことを示す貴重な資料とする。
 柴又八幡神社では1960年になって、埴輪や馬具、石室などが地中から見つかり、古墳の存在が確認された。6世紀後半の造営とみられている。下町では唯一、石室を備えた古墳として知られ、石室は区指定文化財になっている。現在の葛飾区など隅田川東岸を開発した有力者を埋葬したと推定されるという。
 今年中に一般公開することも検討している。
[参考:読売新聞]

柴又八幡神社古墳
 東京東部に広がる東京低地に位置する。横穴石室と埴輪を伴う古墳時代後期6世紀後半に築かれた古墳。
 石室の石材は、法皇塚古墳(千葉県市川市)、赤羽台古墳群(東京都北区)、将軍山古墳(埼玉県行田市)と同じ房州石で、房総半島の鋸山周辺の海岸部から持ち込まれたものである。出土した形象・円筒埴輪は、いわゆる下総型に属するものである。本古墳は、房総と武蔵との境界地域に位置し、両地域の地域性と交流を示す古墳として注目されている。
 古墳時代後期の人物埴輪(「寅さん、サクラさん」埴輪で有名)、あるいは馬の埴輪が出土したことで知られる。
[葛飾区郷土と天文の博物館より]

 柴又神社古墳があった地点は、古代から中世まで「嶋俣」と記されている。
 関東地方が北条氏により支配されていた時代の「小田原衆所領役帳」(永禄2年、1559)に、初めて「柴俣」(しばまた)が記される。この頃は、江戸衆筆頭・遠山丹後守(遠山綱景1513?-1564)がこの地を知行していた。 



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枚方市・百済寺跡 鋳造遺構(造営工房跡)が出土

2009年03月12日 | Weblog
 大阪府枚方市教委と同市文化財研究調査会は12日、8世紀半ばに建てられた百済寺跡(同市中宮西之町)から鉄器や青銅器などを生産していたとみられる鋳造遺構が出土したと発表した。
 同寺は660年の百済滅亡の際、日本に亡命した王族の末裔、百済王敬福が建立したとされる
 築地で区画された寺域内から発見されたことから、百済寺の造営に携わった修理院(すりいん)と考えられるという。奈良時代以前の寺院は僧侶が過ごし、金堂や講堂、食堂が置かれた「伽藍地」と、寺の運営を支える職人が住み込みで働き、修理院などがある「付属院地」で構成される。
 古代寺院の修理院跡は、全国的にも奈良県明日香村の川原寺など数例しかなく、当時の寺院の構造を知る上で貴重な発見となった。
 百済寺跡の北東部の調査で、鋳型を設置する1辺約2・5mの土坑が見つかった。また、付近から鉄や青銅器のほか、これらを鋳造する際に使用されていたとみられる溶解炉の破片が約300点見つかり、同寺で使われた鉄器や青銅器がここで鋳造されていたことが判明した。
 修理院は、9世紀前半ごろになくなったらしい。
 このほか、北面の築地塀跡から北門を構成していたとみられる6つの柱跡を発見。百済寺跡では、両方の区画を分ける土塁の一部(幅約2m、高さ20cm)も見つかった。
 北門の位置から北方約500mの地点には、奈良時代から平安時代にかけて、北河内北東部(現・枚方市、交野市付近)の中心地だったとされる禁野(きんや)本町遺跡があり、天皇家と姻戚関係を結ぶなど国家から優遇されていた百済王の一族と禁野本町が、密接な関係を持っていたことが証明されたという。
 百済王氏が奈良時代から平安時代にかけて、北河内で勢力を誇っていたことが改めて裏付けられたとする。
 現地説明会は14日午前10時~午後3時に計5回行われる。問合せは枚方市文化財研究調査会。
[参考:産経新聞、共同通信]
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