歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

鳴門市・天河別神社古墳群3号墳 海に面する東側くびれ部に装飾石列

2009年03月12日 | Weblog
 市教委が11日、古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳・天河別(あまのかわわけ)神社古墳群3号墳(同市大麻町池谷)で、東側のくびれ部から約40cm四方の大きな砂岩を並べた装飾が見つかったと発表した。
当時、海に面していた古墳東側の見栄えを良くする狙いがあったらしい。
 市教委は今年1月から3号墳の規模を調査した。墳丘は標高26mの尾根にあり、全長約40m。盛り土を2段に積み上げた2段築成で、各段の裾に直径10~20cmの石を列に並べて飾っていた。
 これら石列のうち、特に古墳東側では、前方部と後円部の付け根のくびれ部に、大型の砂岩を並べた。さらに、石列の外側にテラスのような場所を設け、小ぶりの砂岩礫を敷き詰めていた。県内の前方後円墳で、このようなくびれ部の装飾が確認されたのは初めてという。
 同古墳群は、丘陵地に古墳時代前期~中期(4~5世紀)の古墳11基以上が並ぶ。3号墳は最大規模。古代には、丘陵地近くまで紀伊水道や吉野川河口が迫っていたといい、阿波で採れた青石や水銀朱を、摂津や河内に運び出す港、集落があったと考えられている。
 現地説明会は14日午前10時~11時半に行われる。
[参考:読売新聞]


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明日香村・古宮遺跡 7世紀前半の道路跡(山田道?)が出土

2009年03月12日 | Weblog
 奈良文化財研究所が11日、明日香村豊浦の古宮遺跡(ふるみやいせき)で、7世紀前半の道路とみられる遺構や溝が出土したと発表した。
 調査区の東約600mの石神遺跡では、7世紀中頃から後半の東西に直線に延びる古代の官道「山田道(やまだみち)」(幅約18m)が見つかっている。飛鳥川西岸で遺構が見つかるのは初めてで、官道の変遷を考える上で貴重な成果としている。
 今回の調査では、飛鳥川の西側へそのほぼ延長線上に延びる素掘り溝跡(長さ約6m、幅約1m、深さ30~60cm)が見つかった。溝はほぼ東西方向に延びていたが、西へ行くほど少し北側へ迂回するなど完全な直線道路ではなく、幹線道として完成する前段階の山田道の一部の可能性が高い。だが、付近から官吏や豪族クラスの住宅とみられる遺構も見つかっており、既に主要道の機能は果たしていたとみられる。溝は道路の排水用で、出土した遺物から7世紀前半ごろにつくられたという。溝の南側は整地され、道路の北側溝だったと推定される。以前に、近くで7世紀前半の溝跡が平行して2本出土し、その延長線上に今回の溝があることから、幅約8・5m(注)の道路が通っていたとみられる。
 山田道は飛鳥地方北部を東西に走る古代の幹線道。7世紀中頃以前の道幅などは不明だったが、7世紀中頃に方位を合わせ、直線に整備されるまでの山田道を復元する手がかりになるとする。
[参考:時事通信、読売新聞、奈良新聞]
写真:現地の解説版
(注):読売新聞では8.5mとするが、奈良新聞では、約11mとしている。溝も含めての数値か?
「山田道」の遺構出土=幹線道整備の前段階か-奈良(時事通信) - goo ニュース

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長岡京市・恵解山古墳 東側造り出しを確認、現地説明会3/14

2009年03月12日 | Weblog
 市埋蔵文化財センターは11日、同市勝竜寺の恵解山(いげのやま)古墳(全長128mの前方後円墳、古墳中期)から、古墳後円部で第1段テラス部と円筒埴輪列が出土、祭祀の場となる「造り出し」が墳丘東側でも確認できたと発表した。
 円筒埴輪列は、後円部北側と東側の第一段のテラス部2カ所で出土。埴輪は直径20cmほどで、14個分確認できた。
 3段に築造されているテラス部の第1段(高さは1・5-1・8m)は今回初めて確認された。
 また東側では造り出しの一部を確認し、東西両方にあることが分かった。位置や形状に違いがみられ、非対称の可能性が高い。
 現地説明会は14日午前10時から行われる。
[参考:京都新聞]

過去の記事・情報より
2008.2.24
京都府長岡京市・恵解山古墳 鉄製農具類が出土・過去に出土の武具とは別の埋紊施設か
 同古墳は乙訓地域最大全長130mの前方後円墳。 長岡京市埋蔵文化財センターは発掘調査で、祭祀用とみられる鉄製農具や工具類が初めて出土したことを発表した。 古墳東側の前方部で見つかった鍬・鋤とみられる農具(幅4・5cm、長さ5cm)、斧(長さ約6*8cm)、錐(キリ)(同約4cm)など26点が確認された。大きさは皆小ぶりで、祭祀用ミニチュア製品とみられる。 過去の発掘調査で見つかった刀剣類の埋紊施設とは別の施設があった可能性が高く、古墳の被葬者が当時の中央政府と直接につながる人物であった可能性も出てきた。  また、他には古墳東側中段部から埴輪列が出土、古墳西側では前方と後円のくびれ部分の斜面から葺石が見つかった。[参考:京都新聞、読売新聞]
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八幡市・石清水八幡宮 神宝の太刀300年ぶりの一般公開

2009年03月10日 | Weblog
 石清水八幡宮に伝わる神宝の太刀3振りが、約300年ぶりに一般公開されるという。
 太刀は、いずれも18世紀前半の作品。
[参考:時事通信社]
過去の記事・関連情報
 左甚五郎作瑞籬の彫刻
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韓国・慶州市 新羅初めての寺刹『興輪寺』の名前を刻んだ瓦片が出土

2009年03月08日 | Weblog
 今年3月5日に、新羅最初の寺と伝えられる慶州・興輪寺(흥륜사)の名前を刻んだと見られる新羅筒瓦(수키와)片が出土したことが報じられた。
 もう少し詳細を調べていくと、国立慶州博物館が、最近寺の跡地と推定している市内沙亭洞の慶州工業高校の構内排水路工事から収集された400箱分の瓦遺物を洗浄して「興輪寺」とみられる銘文を刻んだ新羅時代の瓦彫刻を確認したという。
 この瓦片は筒瓦(つつがわら、牡瓦)の破片(大きさ10.7cm×5.7cm)で、丸みを帯びた背中側に縦に『○(王?)興○』という銘文が刻まれている。
 博物館は、本来の銘文は『大王興輪寺』と推定し、学校一帯が興輪寺址である可能性を高める考古学的証拠であるとする。
 『興』の字は、最近国立扶余文化財研究所が発掘調査した扶余王興寺址で出土した瓦に書かれた『興』の字とほとんど同じだという。(注:写真を見ると両者共に『典』に似た形で刻まれている。) さらに『興』の字の上下に書かれた文字は一部分だけ残っただけで正確な判読が難しいが、各々『王』と『輪』と推定。この名前はまさに真興王5年(544)に新羅が最初に建設した寺刹の興輪寺を示す公算が非常に大きいとする。
 これまで興輪寺の場所は学界では、慶州工業高校南側800m地点の場所と、今回の興輪寺と慶州工業高校という主張が拮抗していたが、後者とする見解がさらに高まるであろうとみている。ただし今回発見された銘文瓦片は、正式あるいは本格的な発掘調査過程で出土したわけでなく、排水施設の工事過程で取り出した土砂から収集されたという点が物足りないとする。いずれにしても、今回の銘文瓦発見は、興輪寺の位置を確認するのに決定的な糸口になるものとみられる。
博物館はこの他にも『○○寺』という字を書いた牝瓦彫刻(10.5cm× 10.7cm)も確認したが、『寺』の直ぐ前の文字は残っている痕跡から『興』である可能性があり、このことから三国史記と三国遺事に見える新羅初期寺刹の「永興寺」(영흥사)の関連性も考えることができると付け加えている。
[参考:聯合ニュース]
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韓国・慶南陜川郡双冊面山城土城跡 伽耶時代の城跡と判明

2009年03月08日 | Weblog
 陜川郡は6日、先月11日から釜山大学考古学課に依頼して山城土城(성산토성)跡の発掘調査を行った結果、土城と石城から出土した無文土器(무문토기)が伽耶時代に作られたことが確認されたと発表した。
 出土されたものは、石と土で積んだ土楼、住居跡と推定される柱穴2基、かまど跡と推定されるくぼみ2ヶ所、無文土器片など。また、既存土城とは時期が違う石城が出土。土城を利用して拡張したとみられる。
 山城土城跡の北には沃沮(または玉田)古墳群(옥저고분군)(注)があり、築造した多羅国勢力と関連があるとみている。
[参考:聯合ニュース]
 注: 記事では、옥저고분군(국가사적 제326호)となっている。日本語訳すると沃沮古墳群(国家史跡第326号)であるが、옥저は옥전で、すなわち玉田古墳群ではないだろうか。
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土佐市・上ノ村遺跡 弥生中期末の鉄製品大量出土 県内最古を100から200年塗り替える

2009年03月07日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは6日、仁淀川河口に近い上ノ村(かみのむら)遺跡(同市新居)から弥生時代中期末(1世紀初め)の鉄製品や鉄片などが大量に出土したと発表した。
 砥石も見つかったことから鉄製品の加工拠点だった可能性が高く、県内では2~3世紀と考えられていた鉄製品の生産・加工の歴史が200年近くさかのぼる可能性が出てきた。
 出土したのは、弥生時代中期末の円形の竪穴遺構(直径約10m)からで、鉄製品約170点。小さい物で約1cm四方、大きな物では縦約6cm、横約1・5cmで、用途が具体的に分からない鉄片などが多いという。遺構の周辺も合わせると計約250点の鉄製品が見つかっている。
 県内の同時期の遺跡では鉄製品は数点見つかる程度で、矢尻など用途が判明している物がほとんど。また住居で大量の鉄製品を使用することは考えにくいことから、鉄製品の加工場所として使用されていた可能性が高いという。
 弥生時代中期末の鉄製品は、県内では南国市や香南市で数点見つかっているのみ。対岸にあたる高知市春野町の西分増井遺跡で見つかった弥生時代後期の鉄器生産地より100~200年さかのぼる。
 九州北部などを除いてこの時期の鉄製品が見つかることは稀れで、同センターは「この辺りが九州から鉄を輸入する交易拠点の一つだったのだろう。鉄製品の生産が広がっていく始まりを解き明かす資料」としている。
 九州北部では縄文時代末~弥生時代初頭(2800~3000年前)に鉄製品が使われ始め、弥生時代後期(1~3世紀)に全国に広がったと考えられている。
 現地説明会は8日午後1時半から。仁淀川沿いを護岸した江戸時代前期の大規模な石積みとともに説明する。
[参考:高知新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞]
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大宰府市・下原七反田遺跡 豊後結ぶ官道「豊前路」出土 

2009年03月06日 | Weblog
 福岡県教育委員会は5日、7~8世紀に大宰府(太宰府市)と宇佐神宮(宇佐市)や豊後国府(大分市)を結んでいた「豊前路」と呼ばれる官道跡が、下原七反田遺跡(同県みやこ町)で出土したと発表した。
 県教委によると、官道跡は幅約9m、長さ約35m。丘を掘り下げる切り通し工法を用い、平らにした路面に乾燥すると堅くなる粘質土や浸透性のある砂質の土を敷いたとみられている。これまで行橋市内の天生田大池遺跡など3カ所で豊前路跡が発見されているが、より広い範囲で発掘でき、残存状態も良かったという。
 官道跡から約30m離れた場所では、20棟以上の高床式の倉庫とみられる掘立柱建物跡や鍛冶工房跡(いずれも8世紀ごろ)も見つかり、県教委は「官道造成に関与した集落ではないか」とみている。
 7日午後1時から現地説明会を開く。
[参考:西日本新聞、産経新聞]


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エジプト・ルクソールで アメンホテプ3世の石像など2体発掘

2009年03月06日 | Weblog
 エジプト考古最高評議会は5日、ルクソールで約3500年前の古代エジプト新王国第18王朝のファラオ(王)、アメンホテップ3世(紀元前1391 – 1354年頃在位)の石像2体を発掘したと発表した。
石像はナイル川ほとりの多柱式神殿で、エジプトと欧州の考古学チームが土に埋まっているのを発見した。
 1体は高さ約1mで、体はライオンで頭は人間というアメンホテプ3世を象徴するスフィンクスの形をしている。
もう1体は黒い花崗岩で造られ、ファラオの冠(headcover)をかぶっている。
 アメンホテップ3世の治世は古代エジプトで最も栄えた時代の一つで、数々の石像を造らせたことでも知られる。
[参考:読売新聞、AFP]
3500年前のファラオ像など2体発掘、ナイル川ほとりで(読売新聞) - goo ニュース
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筑後市・高江辻遺跡 箱式石棺墓など出土

2009年03月06日 | Weblog
 筑後市教委は5日、発掘中の高江辻遺跡(同市高江)から、弥生時代中後期(紀元前1~3世紀)の墓地群が見つかったと発表した。
遺跡は標高約12mの小高い丘にあり、見つかったのは石棺墓や木棺墓と、土を掘って作った土壙墓、土壙墓に木や石で蓋をした墓など計26基。棺の大きさは最大で長さ2.5m、幅0.5m。副葬品は見つかってない。
 当時北部九州で主流の甕棺墓ではなく、石棺、木棺墓であることから、甕棺墓を作らない集団がこの地方にあることがわかったとする。
弥生中期の墓とみられる16基は遺跡の北西から南東に2列に並んでいた。北部九州に多い2列埋葬墓と呼ばれる埋葬法が確認された。
 弥生後期の墓とみられる10基は石棺墓で保存状態が良く、棺内は朱色に塗られていた跡や、粘土で目張りした跡があり、丁重に埋葬された可能性が高いという。中から人骨4体が見つかった。骨の大きさから埋葬された人物は身長1m60~1m70と推測され、弥生時代の成人男性の平均。
 発掘現場は16日まで、午前9時~午後5時、平日の作業中にのみ見学できる。
[参考:西日本新聞、読売新聞]
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向日市・石田・鶏冠井遺跡 、縄文時代後期(約3100年前)の石器が出土

2009年03月06日 | Weblog
 同市埋蔵文化財センターが5日、同市鶏冠井(かいで)町の石田・鶏冠井遺跡で、縄文時代後期(約3100年前)の石器が出土したと発表した。未完成や失敗した石器の破片も含まれており、加工前や過程の石がまとまって見つかる珍しい例であり、石器の製作過程がわかる貴重な例」としている。
 同遺跡の約120㎡を調査。長さ6・5cm、幅2・7cmのスクレイパー(削器)や、平べったい三角形にしそこねた矢尻(長さ1・9cm、幅1・8cm)など十数点のほか、加工をする前の石や破片も大量に見つかった。
 石は、奈良県の二上山などで取れるサヌカイト(讃岐岩)で、人の移動や交易で運ばれてきたらしい。
 また、長岡京(784~94)を東西に走る大通り「一条大路」南側の溝跡も長さ12mにわたって確認。溝は幅3m、深さ0・5~0・6mと大規模で、同センターは「泥がたまりやすく、何度も改修する過程で大きくなっていったのではないか」としている。
 同じ層から、巻き貝で模様を付ける「宮滝式」と呼ばれる土器が出土したことから年代が特定された。
 現地説明会は7日午後1時から行われる。
[参考: 読売新聞]


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桜井市・纒向古墳群 勝山古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳の規模・形状を確定

2009年03月06日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会は5日、調査中の最古級・纒向古墳群のうちの矢塚(全長約93m)、勝山全長(約115m)、東田大塚(全長約120m)の3基の前方後円墳(3世紀半ば~後半)の墳丘の規模や形状、そして周濠がほぼ確定したと発表した。勝山以外の東田大塚、矢塚の両古墳は、前方部に周濠がなかった可能性が高いことも判明した。
 勝山古墳は、前方部の端が見つかり、全長115m(前方部48m、後円部70m)となることから、「鍵穴型」。築造年代が3世紀のいつごろかは依然はっきりしなかった。また、周濠が墳丘の全周を馬蹄形に巡り、前方部の前面は幅約11mとみられる。
 矢塚古墳は現在残っている見かけの墳丘の2・3m内側から、本来の墳丘が確認され、後円部はやや楕円形だったことが判明した。後円部62m、前方部34mで、全長は96m。同古墳群にある「纒向石塚」、「ホケノ山」と同じ「纒向型」であることは変わらないという。後円部北側の周濠の幅が約17mと判明したが、前方部までは巡っていなかった。後円部南側では、周濠を掘った直後に埋め戻した跡も見つかった。渡り堤の可能性もあるが、幅15m以上と広く、用途は不明という。
 東田大塚古墳は前年度に続いて前方部の端が見つかったことから、前方部50m、後円部70mの全長120mと確定した。これまで、前方部長さが40mで「纒向型」とみられていたが、「鍵穴型」だったことがわかった。また、前方部周辺で周濠の遺構が見つからなかった。
 周濠が切れているのは地形の制約があったとみられるが、しっかりと全体に巡らせるという意識がなかった可能性もあるとしている。
 勝山と東田大塚は、前方後円墳では典型的な「鍵穴形」で、矢塚は前方部が短い「纒向型」といわれる形。鍵穴形と纒向型の出現時期が同じだったのか、ずれていたのかの解明が今後の課題とする。
 矢塚、東田大塚両古墳から出土した土器や写真パネルを6~13日、桜井市立埋蔵文化財センター(同市芝)で展示する。(9、10日は休館)
[参考:産経新聞、読売新聞、日経新聞]

コメント:
 勝山古墳の前方部長さを産経新聞では48m、朝日新聞では45mとしている。
 今回の記事で大きな変更点は、東田大塚古墳の前方部長が40mから50mになったことで「纒向型」から「鍵穴型」になったことである。

過去の関連情報・記事
 桜井市 纒向遺跡を本格調査
 矢塚古墳第3次時調査
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桜井市・大福遺跡 弥生時代の木製よろいが出土

2009年03月05日 | Weblog
2009.3.5
 大福遺跡では、さらに溝跡から新たな出土がみられた。
①多量の炭化米や、木製のはしごの一部が出土した。米を保管していた高床式倉庫があったとみられ、火事で焼けたと考えられる。
 炭化米は脱穀をしておらず穂つきの籾の状態。脱穀に使った竪杵、農耕に用いた鍬、鋤、稲を刈り取った木包丁などの農具や、容器などの生活用品も大量に確認された。
②青銅の塊や炉への送風管など青銅器の鋳造関連遺物も見つかった。居住地域や工房地域があったとみられる。
 溝は、首長の居館や祭祀の場があった集落の中心部分を囲っていたのだろうとしている。また、集落の中でも人口密度の高い地域とみている。
[参考:読売新聞、毎日新聞]

<関連記事・2008年04月29日>
奈良県桜井市・大福遺跡 銅鐸リサイクル工房跡
 4月29日桜井市教委は、纒向遺跡の南2kmにある大福遺跡で弥生時代末から古墳時代初め(2世紀後半~3世紀初め)の土坑から、銅鐸片1点、銅鐸とは異なる鋳型外枠1点、送風管の一部(長さ19cm)などが見つかったことを発表した。
 銅鐸片は、土坑が造られた時期よりも数十年古い弥生時代後期の全長1m前後の銅鐸の一部とみられる。銅鐸を破壊し、高温で溶かして鋳型に流し込み、鏃など別の製品にリサイクルしたと推定している。
 銅鐸は紀元前3世紀ごろ出現し、3世紀ごろに忽然と姿を消した。
 昨年12月、東に約4km離れた脇本遺跡で銅鐸の破片や、銅鐸と別の鋳型などが出土。全国でも確認例がない同様の工房跡とみられていた。今回で2例目の発見は、この時代に弥生の神々を祭った銅鐸を壊すという、大きな思想の転換があったのではないかとの見方ができる。
 銅鐸の破片が見つかった大福遺跡では、さらに銅鐸よりさらに200年以上さかのぼる弥生時代中期(紀元前1世紀後半)の方形周溝墓が6基以上見つかった。被葬者に供えた土器も多数出土し、この地域一帯が集団墓地だったことが分かった。約200m西には直径約400mの大規模な環濠集落があり、環濠に囲まれた住居ゾーンと環濠外の墓地ゾーンが明確に別れていたことが判明し、当時の集落構造を知る貴重な資料。
 弥生時代前期末(紀元前2世紀)から後期にかけて約400年間にわたって営まれた、奈良盆地内でも有数の集落とみられている。
 一方、銅鐸片との関係について市教委は「大福遺跡は銅鐸を使った祭祀を行った伝統的集落だったが、それでも時代の変化とともに銅鐸を破壊した。昭和60年に見つかった銅鐸が破壊されず丁寧に埋められたのは、長い間集落内で祭祀用に大切に扱われたからではないか《としている。
[参考:朝日新聞、産経新聞、読売新聞、毎日新聞、共同通信]

2009.3.4掲載分
 市教育委員会が4日、大福遺跡の溝跡から弥生時代後期後半(2世紀後半)の木製よろい「無飾刳抜式木甲」の一部が見つかったと発表した。
 文様や彩色がない質素で実用的な造り。これまで国内で弥生時代の木製よろいは約15例、木甲の出土は約30例確認されているが、残存状態は最良といい、当時の武具の様子を知る貴重な資料。
 よろいはトチノキ製で、前側の左右2枚、背中側の1枚を革紐などで結んで装着する構造。右前胴の大半(縦27cm、横21cm、厚さ4-7mm)、左前は脇下の一部(縦14cm、横10cm)、背中側は左半分分(縦36.5cm、横19cm)が見つかった。
 出土した部分は全体の約6割に当たり、本来は縦36・5cm、横約40cmだったとみられる。
 全面に多数の小穴があり、水平方向にひもを通して補強したか、色の付いた糸で飾っていたようだが表面に模様がなく、顔料を塗布した痕跡もない素朴なつくり。実際の戦闘で付いた傷はなかった。
 「魏志倭人伝」では当時の日本の状況を「倭国乱」と記している。しかし、実際には防衛機能を持つ高地性集落などが衰退。市教委は「戦乱は終息に向かうが政治的な緊張は続いたようで、よろいは戦への備えだったかもしれない」としている。
[参考:時事通信、共同通信]

最近の発掘・出土状況
 大福遺跡は大福小学校から出土した銅鐸によって弥生時代の遺跡として著名であるが、古墳時代前期(4世紀)や藤原京(8世紀)の時代の遺構・遺物なども大変多い遺跡である。ここ数年は、弥生時代後期末から古墳時代にかけての出土が多い。
 2007.3月、川跡から古墳時代前期(4世紀前半)の表面に直弧文と呼ばれる文様が刻んである幅5cm程度の板状の木製品が出土した。(7月に」刀のさや片であることがわかった。)
 2008.4月、弥生時代後期末-古墳時代初頭(2世紀後半-3世紀初め)の銅鐸の破片や別の青銅器をつくる土製鋳型の一部などが見つかった。弥生時代の祭祀で使われ、役目を終えた銅鐸を壊して再利用したらしい。

弥生時代のよろい出土=6割残存、戦備用か儀式用-奈良・大福遺跡(時事通信) - goo ニュース
大福遺跡から弥生の木製よろい 質素だが、残存状態は最良(共同通信) - goo ニュース
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紫香楽宮(宮町遺跡) 朝堂北に建物跡・天皇の役所か

2009年03月05日 | Weblog
 甲賀市教委は4日、同市信楽町の紫香楽宮跡(宮町遺跡)の朝堂跡の北側から建物2棟や塀の遺構が見つかったと発表した。
 天皇が住んだ内裏があったと考えられているところから、内裏関連の天皇のための役所か、中央省庁の役所だったのではとみている。建物跡は同じ東西方向に7・5mの間隔並んで柱跡の一部が見つかった。南側が東西15m、南北6mの大きさ、北側は東西12m以上、南北6mと推定される。2棟は東の辺をそろえるなどし、セットで配置され同じ規模であるが、柱が太いことなどから南側の建物が上位施設とみている。
 塀は2棟の2・5m東に南北に延びる35m分を確認。柱間は3mの等間隔だが、2カ所で間隔が4・5mと広がり、建物方向への出入り口とみられる。
 南側の建物は南北が3間あり、真ん中に扉があったと想定。建物に近接して人の出入りを制約する塀があるのは考えにくく、建物と塀は同時に存在した可能性は低いとみる。同じ配置計画で建設されながら、途中で建物が造り替えられた可能性があるという。
 紫香楽宮は当初の聖武天皇の「離宮」から、天平17年(745)に本格的な都になる過程で、役所の再編を含む大規模な計画変更があったことがうかがえるとする。
 8日午前10時と正午に現地説明会が開かれる。
[参考:京都新聞、中日新聞]
過去の関連記事・情報
 前出1
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奈良市・石のカラト古墳(8世紀築造) 出土した銀製の玉がアマルガム法を用いて作ったことが判明

2009年03月04日 | Weblog
 8世紀初めに築造されたとみられる「石のカラト古墳」で出土した銀製の玉と、同時期の官営工房「飛鳥池遺跡」(奈良県明日香村)で見つかった銀粒が、水銀を使って銀の純度を上げるアマルガム法を利用して作られていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。
 同法は17世紀に日本で初めて利用されたと言われてきたが、導入時期が約900年遡ることになるという。
 同研究所が、石のカラト古墳の副葬品とみられる銀製の玉(直径約1・2cm)を分析した結果、水銀が1%含まれていることが判明。飛鳥池遺跡で発掘された銀粒(直径0・5cm)にも、水銀が含まれており、同研究所はともに同遺跡でアマルガム法を使って精錬したとみている。
[参考: 読売新聞]

石のカラト古墳
 奈良県と京都府の府県境、奈良山丘陵に位置する古墳でカザハヒ古墳ともよばれる。
 墳形は上円下方墳で、上円部径9.7m、下方部1辺13.8m、高さ2.9m以上。墳丘には全面に葺石がみられる。
 埋葬施設は凝灰岩切石を用いた横口式石槨で、規模は長さ2.6m、幅1.03m、高さ1.165m。このような石槨墳は終末期古墳とよばれ、明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳がよく知られている。発掘調査で大刀装具として鞘尻金具、責金具があり共に銀製である。他に、金・銀製の玉、琥珀玉、金箔、漆片がある。また墳丘に関って出土した土器の時期は奈良時代前半であるが、古墳の築造時期を直接に示すかは明らかではない。
[参考:奈良市HP]

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