歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

エジプト・カイロ 早大の古代エジプト調査隊 ラムセス2世の孫娘イシスノフレトの墓を発見か

2009年03月04日 | Weblog
 エジプト考古最高評議会は3日、カイロ郊外のサッカラ遺跡で、吉村作治氏が率いる早稲田大の調査隊が新王国時代(紀元前1565年ごろ-同1070年ごろ)の第19王朝に造られたとみられる墓を発見したと発表した。
古代エジプトの最有力ファラオ(王)、第19王朝ラムセス2世(紀元前1304年から1237年まで68年にわたりエジプトを統治)の孫娘・女性イシスノフレトの墓の可能性があるという。
 墓の内部では、彫刻が施され青く塗られた石棺や、3体のミイラなどが見つかった。石棺には「高貴な女性」との文字が彫られていた。
ラムセス2世の息子の墓が近くにあり構造も似ていることから、孫の墓の可能性があるという。墓の上部は失われていた。
ラムセス2世の第4皇子カエムワセト(Khaemwaset)王子にはイシスノフレトという名前の娘がいたとされる。
[参考:共同通信]
関連記事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県・犬島貝塚 西日本最古(1万年以上前)か 山形押型文土器を確認

2009年03月04日 | Weblog
 岡山市の犬島諸島・地竹ノ子島にある犬島貝塚(縄文時代早期)が、紀元前7600~8千年ごろにできたことが同貝塚調査保護プロジェクトチーム(代表=遠部慎・北海道大埋蔵文化財調査研究員)の発掘調査でわかり、2日発表された。遠部代表は「西日本最古とされる礼田崎貝塚(香川県土庄町・豊島)より古い土器も見つかっており、犬島が西日本最古の可能性もある」と話している。
 犬島貝塚は縄文時代早期に成立したとみられ、地竹ノ子島の南側に第1貝塚、北側に第2貝塚がある。
調査は08年8月7~12日に、4地点計約10㎡を発掘した。
 その結果、第1貝塚は東西8m、南北5m以上、第2貝塚は東西10m、南北5m以上と判明。同地域の縄文早期貝塚で有数の規模であることを確認。ともに花崗岩の堆積土に覆われて保存状態は良く、計約300点の土器や石器と、貝類676点が出土した。貝類の95%が汽水域に生息するヤマトシジミだったという。
 チームは、特定の有機物の含有量から年代を割り出す「炭素14年代測定」でヤマトシジミなどを分析し、第1貝塚は紀元前7600~7800年ごろ、第2貝塚は紀元前7600~8千年ごろにできたらしいと推定した。現在、西日本最古とされる礼田崎貝塚は、紀元前8千年前後にできたことがわかっている。
 第2貝塚で発掘された山形押型文の土器には、礼田崎貝塚から出土した同様の土器より古いとみられるものも含まれていたとして、遠部代表は「今後の調査によっては、西日本最古となる可能性もある」としている。
 さらに、貝殻の分析で、貝は春から夏にかけて採取されていたことが判明。貝以外の魚介類や動物の痕跡は見つからず、遠部代表は「汽水域だったと考えられる時期に、人類がどのように活動していたかを知る上で非常に重要」としている。
 チームは、21日午後1時半から岡山市駅元町の市デジタルミュージアムで研究成果を報告する「犬島貝塚の発掘2008」を開く。無料。当日先着80人。
[参考:朝日新聞、読売新聞、山陽新聞、岡山日日新聞]
前出
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都府精華町・鞍岡山2号墳 2基の木棺跡を検出、現地説明会3/7

2009年03月04日 | Weblog
 鞍岡山古墳群(相楽郡精華町下狛)の4基の円墳のうち、直径40mの3号墳墓(4世紀末)が最大であるが、2号墳は直径約30mを測り、5世紀初頭に築造されたとみられる。
 ここから2基の木棺跡が検出され、国内産の鏡や剣、玉類が出土した。
 木棺跡は、長さ7.4m、最大幅3.4m、深さ1.6mの墓壙から見つかり、底部で南北に平行に並べられて、同時に埋葬されたと見られる。西側の木棺跡は長さ約6m、東側は同約5mで、いずれも半円状の溝が掘られており、丸太をくり抜いた形の割竹形木棺が収められていたことがわかった。一部盗掘されていたが、すぐ脇に長短の鉄剣5本(長さ20~50cm、幅4~5cm)が副葬されていた。
東側からは青銅鏡(直径約7cm)や首飾りの管玉や勾玉が見つかった。
1つの墓壙に2つの棺を収めた例は全国的にも珍しく、西側に一帯を支配した武人の男性が、東側には妻が埋葬されたと推測。
 現地説明会が3月7日(土)に開催される。
[参考:産経新聞、京都府埋蔵文化財調査研究センター]


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都・長沢芦雪の襖絵「張旭揮毫図」を発見

2009年03月02日 | Weblog
 京都市は2月12日、市文化財保護審議会の答申を受け、長沢蘆雪 (1754-1799)筆の紙本墨画「張旭揮毫図(ちょうきょくきごうず)」(襖絵4面、各縦167cm、横91cm)(公立学校共済組合蔵)を市指定・登録文化財にすることを決めた。
 同図は昨年6月、右京区嵯峨の公立学校共済組合保養所「花のいえ」(京都市右京区)の蔵から見つかった。落款から、晩年の寛政(1789~1800)後期の頃の作とみられる。蘆雪の襖絵は各地に所在するが,本拠地の京都ではこれまで作例が知られておらず、員数は少ない。
 杜甫の詩「飲中八仙歌」の中で酒豪八仙の一人に登場する、唐代の書家・張旭を墨でのびのびと描く。
絵には酒瓶を持った童子が登場し、その横に、張旭が筆を手に紙に向かう姿を描写。筆の先から雲煙のような書が立ちのぼり、ろうそくの炎が揺れている。風になびく炎や薄闇の表現に蘆雪独特の画風がみられる。
 保養所は江戸初期の豪商角倉了以(すみのくらりょうい、1554-1614)の邸宅を改築したもので、角倉家に伝わっていた可能性が高い。
 泉万里・京都市文化財保護審議会委員(日本絵画史)が鑑定し、作品の特徴や落款から芦雪の作品と判断した。
 襖絵は6月頃に同保養所内で公開する。
[参考:2009.3.2読売新聞、2009.2.12京都新聞、京都市文化市民局]

張旭(生没年不詳)
 中国・唐代中期の書家。「二王」の王羲之と王献之の書風に真正面から異を唱え、書道界に改革の旋風を巻き起こすきっかけとなった。
 大酒豪として知られる。吉備真備は彼に学んだと伝えられる。 

酒豪が描いた酒豪の襖絵…芦雪作、京都で確認(読売新聞) - goo ニュース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良市・帯解黄金塚古墳 舎人親王の没年とは築造時期にずれ

2009年03月01日 | Weblog
2月28日現地説明会に700人が参加
 墳丘の外周で、珍しい石敷き遺構が確認された奈良市田中町の黄金塚陵墓参考地(帯解黄金塚古墳、7世紀中ごろ)で28日、現地見学会があり、考古学ファンら約700人が訪れた。
[参考:毎日新聞]

2009.2.26掲載分
 市埋蔵文化財調査センターが26日、日本書紀の編纂をした舎人親王(676~735)の墓との伝承があり、宮内庁が陵墓参考地として管理する帯解黄金塚(おびとけこがねづか)古墳(同市田中町字上ノ口575)が親王の没年より以前の7世紀半ばの築造とわかったと発表した。
 古墳の範囲確認のため、1月14日から周辺を調査し、墳丘自体は発掘できなかったが、墳丘の南西隅そばで7世紀半ばとみられる須恵器の杯蓋2片(約10~12cm)と土師器の把手付甕1片(約5cm)が出土した。
 また、墳丘は一辺約30mの方墳と判明。墳丘外周に2段式の石敷き(幅約2m)が張り巡らされているのが確認された。北側と西側は下段の幅が約1・6m、上段は幅約0・5mで、下段との段差は約5cmあった。使われている石は上段が直径15~30cm、下段が同10~20cmの大きさ。上段、下段とも端に石を一列に並べて縁取っていた。見栄えを良くするためとみられ、被葬者の地位の高さがうかがえるという。 墳丘の裾には石を抜き取った跡があり、築造当初は墳丘にも石が積まれていた可能性が高いという。南側は過去の調査で、下段が幅約6mの石敷きが見つかっている。
 「石敷きは寺の基壇周囲を取り入れた」、「被葬者は別の皇族、あるいは有力豪族」、「磚積みの横穴式石室から被葬者を渡来系氏族の人推測」などの専門家からのコメントがあった。
 28日午前10時~午後3時に現地見学会がある。小雨決行。
[参考:共同通信、朝日新聞、産経新聞]   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都市西京区・松尾山中に平安前期の未知の寺跡

2009年03月01日 | Weblog
 松尾山山中に、文献に記されていない平安時代前期(10世紀初頭)の未知の寺跡があることが、28日までに立命館大の学生でつくる考古学研究会の調査で分かった。
 寺跡は松尾大社から600mほど北西の標高約170mの山中にある。昨年秋、研究会が桂川右岸の松尾山古墳群の分布・測量調査を行った際、平たん部分に瓦などの遺物が大量に転がっているのを発見した。その後、現地を視察した京都市文化財保護課が寺跡であることを確認した。約3万㎡の敷地に、建物を建てるために人工的に造成したとみられるひな壇状の平たん地が9カ所あった。礎石の可能性のある直径1m程度の石も見つかった。
 瓦の一つは、平安宮内裏跡で見つかった瓦と同じ型で作られ、「西賀茂」・「河上瓦窯」の銘が入っていた。水の祭りに使われた可能性のある瓶子、緑釉陶器も出土した。いずれも10世紀初頭のもの。ごく短期間存続した寺とみられるが、該当する寺は文献史料には見当たらない。
 仏堂や僧坊などが立ち並ぶ大規模な山林寺院だった可能性もあるし、松尾大社の神宮寺の可能性もあるという。
 建物基壇の跡がなく、寺の規模など不明な点が多い。平安京の東や北では山林寺院が多く見つかっているが、西が空白になっていた。都を取り囲むように山林寺院が建てられていたことを示す発見という。
[参考:京都新聞、考古研活動日誌(松尾山古墳群測量日誌2008年10月25日)]


コメント
あったのか、なかったのか松尾大社神宮寺
 今年の1月半ばに、サントリー美術館で開催された「japan 蒔絵展」を見に行きました。その時に、次回の開催「国宝・三井寺展」の図録が既に販売されており購入してきました。
 三井寺は、7世紀後半には建立されていたのは間違いないとしている。そして、円珍(814-891)が862年に再興したという。円珍は927年に醍醐天皇から「智証大師」の諡号が贈られた。そして、三井寺には、2躰の国宝・智証大師座像があり、1つは御骨大師(9世紀末、像高86.3cm)、もうひとつは中尊大師(10世紀、像高84.3cm)と呼ぶ。
 注)中尊大師は延暦寺に安置されていたが、994年に三井寺に遷された。
 そして、御骨大師について注目される記述は、
 「円珍造立と伝える松尾大社神宮寺御正体の可能性がある。京都西山の松尾大社三神像とも作風の類似が指摘されている。」
である。
 これ以上については、資料が手持ちにないし、またインターネットでは得られないので、後日調べることにします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする