忠臣蔵検定試験なるものが、昨年12月18日、兵庫・赤穂など全国6カ所で行われた。TV各局ニュースでも取り上げられていた。
主催団体は義士の研究・顕彰を続ける財団法人中央義士会(東京)という団体。初の「忠臣蔵通検定試験(2級)」を実施。
なんという形容をしていいものか判らないが、deepだなあって思った。
…今日のエントリーはそのころから、チマチマと書いていたものです。
*****
時は元禄十五年、ところは本所松坂町。。。12月14日は赤穂四十七士の討ち入りの日である。TVで放送されたり、映画になったりするとほぼ間違いなく見てしまう謎の…そして僕の好きな…物語である。
*****
子どものころ疑問だったのは、12月にあんなに雪が降るのかなってこと。
自分の経験でも、親の世代の経験でも、東京に雪が降るのは1月末からである。これは日付が旧暦、現在の暦だと1月の話しだということがわかり納得した。もっとも、記録では当日は雪は降っていなかった。これは江戸時代の人形浄瑠璃の演出の名残なんだそうだ。
次になんでこの話しはこんなに人気があるのかということ。
何年かに一度映画化され、NHKの大河ドラマで題材にされる。どちらの場合もオールスターキャスト。歌舞伎(仮名手本忠臣蔵)では定番メニューである。これで何世代にも渡り、常に話題になり続けているからだ、というのは違う。人気がなければ、歌舞伎にも映画にもならなかっただろう。大河ドラマ化もなかったはずだ。続いているから人気があるのじゃなくて、人気があるから続いている。何が日本人の心をつかむのかな。また、ひとりで何回も見る人もいる。僕もそうだ。なんでかなって思っていた。
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
最近気づいたことなんだけど、これはある種の安心感なのではないか。どこかの場面を見てほっとする。ほっとしたい。時によっては涙を流したい。だから、ずっと上演され続けているのではないか。例えば...
浪士討入後、吉良家(邸宅)隣家の土屋主税が、自分の家の警備のために高張提灯を掲げる。考え方としては屋敷=城。むやみに塀を越えられてはやはりかっこ悪いわけだ。
それを見た大石内蔵助は浪士(原惚右衛門、小野寺十内、片岡源五右衛門)に土屋家へ挨拶するよう命じた。
「我ら播州赤穂浅野内匠頭の旧臣どもでござる。亡き主人のうっ憤を散ぜんがため、吉良邸へ推参いたした。決してお屋敷へはご迷惑はおかけ申さぬ。武士の身は相見互いのものでござれば何とぞお構いなく討たせ下さるようお願い申す。」(幕府には届けないでね。。。)
演出にもよるが、土屋主税は家臣に幕府に討ち入りを届けさせることはなく、こんな風に命じる。
「隣家より当屋敷に踏み入ろうとするものあれば、突きかえせ。」
赤穂浪士が塀を乗り越えてくるはずがないので、吉良の家臣が逃げてきてら追い返せ。場合によってはヤリで突いてもかまわない。そのことが結果として赤穂浪士の応援をすることになってもかまわないという態度。提灯も屋敷の間取りに不案内な浪士を結果的に援助することになる。
実際のところはどうだったのか。
表面的には、将軍家お膝元で、幕府の裁決を不服とした浪人が、じいさん(吉良上野介)ひとりを探し求め、吉良家の家臣を殺したり、けがを負わせるお話である。じいさんは40名以上の武装集団に取り囲まれ命を落としてしまう。幕府に届けないのもずいぶんな態度だと思うが、お芝居のこのくだりはいい場面とされる。
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
吉良の息子である上杉綱憲(上杉家に養子にいっている)が、討ち入りの連絡を受け、いくさ装束で出陣しようとした。これを、家老の色部又四郎がその前に立ちふさがり、押しとどめる。
「殿。なりまぬ。
「色部どけ。父上が。。。父上が。。。
「殿、殿は行ってはなりません。
「色部。
「殿、殿はこの上杉の家を浅野の家と同じにされるおつもりか。(赤穂旧臣と上杉家が争えば、喧嘩両成敗。上杉家もただではすみません)
「……
「是非というのなら、この色部を斬ってからお行きなされ」
そのことばを聞き、武家(大名)の掟は、お家第一という非常さを思い出し、遠く吉良邸の方角を眺めながら、涙する上杉綱憲。
*****
結末は誰でも知っている。
大願成就。四十七士は助命のされることはなく、武士として名誉の切腹。。。
よく考えたら、浅野内匠頭も吉良上野介も赤穂四十七士もみんな死んじゃうお話である。表面的にはとてもHappy Endingとは言えない。でも、ああ見切った。分かり切った結末でも一安心。年末の第九と同じ、年中行事化している。だから、見るのかなあ。
そんな風に思いました。
えっ、なんで今日、こんなエントリーかって?
今日は旧暦で12月14日だからですよ。