1995年(平成7年)1月17日早朝、神戸市・淡路島内市町村を大きな地震が襲った。阪神・淡路大震災である。この震災が原因でなくなった方は6,434名。
忘れてはいけない日、忘れてはいけない数である。
-:-:-:-:-:-:-:-:-:-:-
あの年、僕は二つめの勤務校で2年生の副担をしていた。11月に修学旅行で広島・萩を訪れる途中、新神戸駅からしばらくしたあとの、神戸市の風景がまだ目に焼き付いている。地震から半年以上過ぎていたのに、まだまだ屋根を覆う青いビニールシート。強烈な印象だった。
'95年の全英連全国研究会は、その神戸市で開催された。当時も今も同じパターンだが、研究会前日の授業後、夕方に出発、夜に現地に入った。新幹線で新神戸~地下鉄で三宮駅まで行き、そこから徒歩でホテルに到着した。宿泊先はホテルトアロードだった。
一日目、中央区の神戸市文化センター。地下鉄で二駅ほどなのでホテルから歩いて行った。11月半ば、肌寒かった。とにかく街中が工事中だった。前夜、暗くてわからなかったけど、神戸一の繁華街三宮でも、空き地・立て替え中の建物が多かった。写真は撮れなかった。当時はまだデジカメももっておらず、いわゆる使い捨てカメラは持って行っていたが、そのすごさにシャッターをきるのを躊躇った。
中学生の授業発表では、地震での経験を英語で発信する活動を行っていた。テーマとしては異例の形だが、自分たちがしっかり生きているということを世界中の人に発信することに主眼を置いた授業展開だった。あの時の中学生のみなさんも、もう20代の半ばになっている。月日のたつのが早いことを感じてしまう。
二日目、市内からちょっと離れた流通科学大学。六甲山の方。大学の敷地にもそこここにひび割れの補修跡があったことを覚えている。
分科会では、当時の教育課程で導入したばかりのオーラルコミュニケーションの科目選定が、埼玉と随分違うんだなあと思った記憶がある。ほとんどOCA(オーラルコミュニケーションA)だった。それから、定時制高校などで英語以外に韓国語を選択科目に置いている学校が見受けられたことが印象に残っている。
-:-:-:-:-:-:-:-:-:-:-
あの大震災から11年。
各都道府県市町村は、学校の避難拠点としての有用性を考え、耐震補強工事・防災拠点工事などをすすめている。
自分の勤務校も防災拠点校になっている。ただ、いざ地震というときに、家にいた場合に学校までどのように、どれくらいでたどり着けるか。図上演習と実際とは違う。正直心許ないかもしれない。自分の身を守ることもできるかどうか、わからないところもある。ただ、折に触れ思い出すことで、できることがわかり、不安な点がわかり、それに備えることができるようになれるのではないか。
そう、感じている。
そして、亡くなられた方々のご冥福を今年も祈る。