N社の自己中心的上司であったT野氏を説得するために磨きはじめたCGの技術は、転職に有利に働いたのであった。
「これええやないか」
新しく入社することになった会社の社長は中小企業に良くいる「新しもの好き」の典型的な人なのであった。
とりわけ製造メーカーということもあり、他の中小企業仲間を出し抜けるような、「何か」をいつも探し求めていたのだった。
CGはその点、社長が求めていた「何か」と合致するものがあったのであろう。
私を採用してくれたひとつの要素になったのであった。
一度も見ることなく、私をけなし続けたN社のT野氏とはエライ違いではあった。
私がこの会社の玄関のドアを叩いた時、ちょうど私の上司になるHさんが社長の指示でCADを探している最中なのであった。
1990年代前半といえば、それまで高価なワークステーションでなければ動かなかったCADのシステムが、パソコンの能力向上に伴ってPC-9801のようなコンシューマーパソコンで動くようになってきた頃だった。
この時期、ものすごい数のパソコンCADが登場してきており、選定するのはなかなか骨の折れる作業だった。
どのように骨が折れるかというと、JW-CADは未だ無い時代。
パソコンCADといえども、ちゃんと買いそろえようとすると数百万円かかり、中小企業にとってはかなりの重荷になる設備だったのだ。
暫く私は自前のC-TRACEで製品のデザインを試みることにした。
で、日経CGへの投稿も相変わらず続けたのだったが、投稿の際に会社名を入れておいたら掲載時に私の名前と会社名を一緒に掲載してくれたのだった。
「おい、何冊か買っといてくれるか」
と、社長は私のCG作品が掲載された日経CGを何冊か買い求めるよう命じるくらい、喜んでくれたのであった。
あれやこれやしているうちに、CADの購入については結論が出た。
何百万円もするものを知らない一限企業から買うのではなく、お得意様から買って点数を稼ごう、いや、仕事につなげよう、ということになったのだった。
この頃、私の勤めていたこの会社は東京に本社を置くいくつかの大手家電メーカーと取引をしており、その一社からCADのシステム、正しくはCGのシステムを買い求めることにしたのだった。
その会社とは日本ビクターなのであった。
日本ビクターとコンピュータグラフィックス。
なんとなく結びつかない取り合わせだが、世界のJVCのCGソフトを使うことにより、私のCG経歴は新たな時代を迎えることになった。
つづく
※二~三回の連載のつもりがミャンマー旅行記「ミャンマー大冒険」を書くように、だらだらと長くなってきてしまいました。
別のトピックもアップしたいのでCG私的創世記はちょこっと一週間ほどお休みします。以上、お知らせでした。
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