現在のそれと比べると当時のパソコンの処理速度はおそろしく、ノロイ。
500ポイント程度の座標を処理してワイヤーフレームのパース画を描くのに、私のX1は、その処理能力を誇る8ビットのCPUと、欲張り過ぎ加減のHuーBasicを動員して、1フレーム約30秒強を要したのであった。
プリンターは前述しているように買えなかったので映像を出力するのにはカメラでモニター画面を写すしかなかった。
そこで登場するのがフジカシングルエイトなのであった。
映像を専門とする学生は、当時8ミリカメラは必携であった。
8ミリ、といってもベータムービーも登場していないこの時代。
ビデオではない。
8ミリフィルムを使ったムービーなのであった。
私はその頃、フジカCZ-1000というカメラを手に入れたばかりだった。
このカメラは8ミリムービーのくせになんとレンズ交換ができる優れもの。
おまけに1コマ撮影や72コマ毎秒の高速度撮影が可能な16ミリや35ミリフィルムの映画用カメラのような強者なのであった。
で、私はこのZC-1000をパソコンモニター前にセットして一コマ一コマ描いては撮影し、描いては撮影しを繰り返し、アニメーションフィルムを作成しようと考えたのであった。
そしてこれがなんとなく成功し、ついに初の自作CGアニメーションとなった。
幸いなことに、モニターをフィルムムービーで撮影したのにフリッカーが少なかった。
予想よりも快適に見ることのできる映像に仕上がったのだ。
しかも、斜め線のギザギザもアニメーションになるとめちゃくちゃ目立つものではなかった。すこしは気になったが、このアナログ時代、CGの物珍しさも手伝ってSF映画のような雰囲気に仕上がっていたのだった。
作品の長さはわずか1分程度だった。
だが、これが恐らく大阪芸大に於て学生であろうが講師であろうが、学内をうろつく犬であろうが猫であろうが、金剛バスの利用者であろうが、つまり誰であろうが製作した、大阪芸大史上初めてのコンピューターアニメーションになった、と私は勝手に思っている。
作品は予想通り作品コンクールで大評判を喚んだ。
ということを耳にしたのはコンクールが終わった明くる日のことであった。
というのは、私は銭稼ぎのために大阪府下のおもちゃ屋でバイトをしていたのだった。
出席も取らない半分授業のようなコンクールを見るよりもバイトに精を出して金もうけに励んだほうがベターだ、と考え、そんな重要なコンクールなのにちっとも見ていなかったのだ。
当時は今以上に、現実主義者であったに違いない。
結果的にはコンクールでは栄えある準グランプリを受賞。
なぜ「準」なのかは定かではないが、友人の弁によると、
「グランプリ作品はずいぶん正統派やったで。ウケからいうと、おまえの作品のほうがバカウケしとった。どうやって撮ったんや、ってみんな言うてたし。第一、スポンサーのカメラ屋とかからの賞品、おまえの方が多いで」
ということなのであった。
その多いはずの賞品で今私の手元に残っているのは小さなオペラグラスひとつだけ。
なぜ賞品がひとつしか手元に残っていないのか。
それはコンクールとそれに付随した授賞式を私が欠席したことをいいことに、友人が「代理」で頂戴してしまったからであった。
結局、私は大学在学中、最大の栄誉を迎える瞬間に立ち会わなかったことになってしまったのであった。
みんなが、私のCGアニメを見て、「うぉおおおおお」と言ってくれていた頃、私はリカちゃん人形や宇宙刑事ギャバンのピストル、こなぷん、タカラのせんせい、ガンプラ、任天堂のゲームウォッチ、筋ケシなどの販売活動に精を出していたというわけだ。
翌々年、大学を卒業した年にはアメリカのSFテレビシリーズのパロディ映画を自主製作。
45分の作品に、いくつかのCGを組み込んだのだったがこれを最後に、私は約4年間、CGの世界とは離れることになった。
理由は阪神タイガースが21年ぶりの優勝を争っていたからであった。
「かーっと、ばせばせバース!ライトーへ、レフトへホームラン!」
「まゆみー、まゆみー、ホームラン!」
と、いう状態にあったわけではない。
日航機123便が御巣鷹山に墜落し、NHK「新八犬伝」のナレーションで大好きだった坂本九ちゃんが亡くなってしまったショックからでもなかった。
真実は、社会人になってしまい、業務にCGを使わない仕事であったため製作する時間を取れなくなってしまったからであった。
現実は厳しかったのだった。
つづく
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