20世紀におけるポップアートの頂点。
アンディ・ウォーホル。
キャンベルの缶詰をデザインしたイラスト。
マリリン・モンローの肖像。
誰もが一度は見たことがある作品の数々。
米国の画家・アンディ・ウォーホルの作品が大挙して京都にやってきた。
その数は日本史上最大。
目を瞠るはずのその展覧会は京都市京セラ美術館で開催されていて、やっとのことで先週見に行くことができた。
感想は?
と、問われると。
そう、アートとは生を見ることで初めてその衝撃性を体感することができる、ということを実感したこと。
その一言に尽きる。
今回の展覧会は実にそういう類の美術展なのであった。
そもそも今回の展覧会を知ったのは開催2月ほど前の春のこと。
超有名人気作家の作品展だけに観客の混雑と高価なチケット代が予想されたので、早速WEBでチェックしたところ前売りチケットの種類で「ペア券」があるのを見つけた。
どうせ一人で観に行くことはできない。
行ったりしたらカミさんにこっぴどく叱られることが明らかなので、はじめから2枚買い求めることを考える必要があった。
だからペアチケットは非常にリーズナブルな存在で私は即、ローソンチケットだったかイープラスだったかで買い求めたのであった。
会期の最初の頃は新型コロナによる規制の真っ只中だった。
このため鑑賞には予約が必要だった。
チケットを持っているだけでは観ることのできない、面倒くさい状態になっていた。
そこで、混雑していない日、かつ時間の予定が立つ日とばかり考えているうちに会期はどんどん経過していった。
途中、なんとか見てみようと京セラ美術館まで行ったものの、結局は「ボテロ展」を観たために、ウォーホルはパス。
次回にということにして帰阪してしまった。
アンディ・ウォーホルは後のお楽しみにしまっておくことにしたのだ。
会期は年明けの2月初めまであるから慌てる必要はない。
けれども岡本太郎展がそうであったように人気のある展覧会の終盤はやたら混雑するので避けたほうがいい。
そこで年末も押し迫ってきた数日前、私はカミさんを伴って雨の降りしきる京の街へでかけたのだった。
天気の関係なのか、たまたま平日だったからか、観客はかなり少なめ。
美術館だけではなく平安神宮前の岡崎公園はガラガラ。
だからといってはなんだが広い京セラ美術館の中で、ウォーホルの作品群をゆっくりとじっくりと観ることができたのだった。
ウォーホルのように雑誌やテレビ、映画などで作品をいくつか知っていると、どうしても実物まで観なくていいような気になってしまう。
とりわけ現代のポップアートとなると、なんとなくメディアを通じて鑑賞するので十分な気になってしまうのだ。
もう十分知ってるやん、という感じだ。
ところが今回、実物の作品群に触れることでアート作品が持つ生の感覚が、拾のところメディアを通じると失せてしまうということを痛切に感じることになった。
他の展覧会でも同様なはずなのに、なぜかポップアートという分野で痛烈に感じたのだ。
ペンのタッチ。
サイズ感。
質感。
完成された絵から感じる、裏面にあるそのプロセスと作者の苦悩というか苦心というか、テクニック。
考え。
アイデア。
直感。
そして空気感。
ポップアートだからこそ感じ取れる「生き活きさ」「アートの生命感」が美術館の中では溢れていたのだった。
今回、驚いたことがあった。
最近は結構普通になりつつある館内撮影が巨匠アーティストの作品展であるにも関わらずスマホでの撮影に限られていたものの自由になっていたことだ。
あまり有名でない作家の展覧会では撮影自由というものも少なくないが、巨匠の作品展の撮影が許されていることは感動に値した。
ビデオは禁止ではあったものの写真は取り放題。
だから複写よろしく作品をパチパチ撮影している人の多いのには独特のムードがあったが、ここが肝心。
先に書いたように写真では絶対に作品が持つその魅力を完全に写し取ることなどできない。
主催者側はそれが十分にわかっているのだろう。
だから写真撮影が自由にできる、という趣向になっているのではないかと思った。
つまり私はその寛大な雰囲気の裏に、
「へっ、あんさんら。どうせ写真なんかぎょうさん撮っても展覧会の価値まで持って帰ることなんてできへんえ」
という意固地な感覚があるのではないか、と思ってしまうくらいに生と写真の違いを感じることになった。
アンディ・ウォーホル。
改めてその巨匠の魅力にエネルギーを頂戴したひとときなのであった。
もう一度観てもいいかも。