<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



朝からケーブルテレビにチャンネルを合わせると、あな懐かしや、MGMの名作ミュージカルの名シーンばかりを集めた「ザッツ・エンタテイメント」が放送されていた。



チャンネルを合わせた時に丁度画面に映っていたのは、ジュディー・ガーランドとミッキー・ルーニーが出演した往年の青春物がメドレーで流れていたところだった。
ミュージカルだし、最盛期のハリウッド映画だし、相変わらず大仰な作りなのは仕方がなかったが大いに「アメリカ!」というものを感じさせてくれたので、ついつい見入ってしまったのだった。

ついついテレビの映画に見入ったのは「ダイハード」以来だった。

ところで最近のハリウッド映画。
この古い黒白の映画に見られる光り輝く「アメリカ!」というきらびやかさを失ってしまっているように思える。

新聞の記事によると、いまやハリウッド映画の日本支社はGWの書き入れ時はアメリカ製映画を上映リストから外して、元気一杯の邦画を上映するようビジネス路線に変更しているのだという。
なぜ、アメリカ映画がその魅力を失ってしまっているのか。

「ザッツ・エンタテイメント」を見ているとその原因がおぼろげながら見えてくるような気がした。

例えば数多くのスターが集められ、MGM設立何周年かのパーティを撮影したシーン。
数多くのスターがテーブルに並んでいた。
これはハリウッドの映画会社が自社で数多くのスターを抱えていたことを物語っていた。
フレッド・アステア、ジーン・ケリー、ジュディー・ガーランド、フランク・シナトラ、などなど。
昔は映画会社がスターを抱えていたのだ。
日本の映画会社も同様に「自社のスター」というものが存在した。
それがテレビ放送の開始や、スターのビジネススタイルの変遷により、映画会社は単なる配給元や劇場提供のみの、一種の不動産屋と化していったのだ。
スターは映画会社のものではなくなり、独自のプロダクションをもつようになり、映画会社とは一本ごと、あるいは複数本ごとに契約を結んで出演する関係に変化していった。

これは現在のデパートとテナントの関係に似ている。
デパートは単なる不動産屋と化してしまって実質的にお客を呼び込んでいるのはテナントという実態だ。
このため一部のテナントの力が強過ぎたり、デパートの総合的企画が通りにくくなったためにデパートそのものが衰退してしまっているのだ。

映画のようなエンタテイメントを生業にする企業は、デパートのようになっては良いものが作れないのだ。

会社とスタッフとスターが渾然一体になり、観客が満足のいくものを製作する。
それがたとえ「芸術的」でないものであったとしても、「エンタテイメント」を表現するものであれば、興行的に成功に導ける何かが生まれ、そしてそれが魅力となって映画が輝いてくるのだ。

ここ数年のアメリカ映画を観ていると、なにか暗く、深刻で、憂鬱なものを感じざるを得ない。
それは9.11だけが原因ではないような気がする。
何か「こういうことを言わなければ」という、理屈が先に立ってしまい、アメリカ映画の根本的な魅力である「エンタテイメント」が欠如してしまっているのだ。

それは映画そのものだけではなく、スター不在というところにも現れている。
実際、ザッツ・エンタテイメントに登場するようなスターは、今や誰一人としていないのだ。

ザッツ・エンタテイメントは、ある意味、ハリウッドの魅力を最大限に伝え続ける「スター」に出会える映画なのかもわからない。

~「ザッツ・エンタテイメント」MGM映画1974年~

なお、この映画の中で「パリのアメリカ人」を紹介するシナトラが「もう、20年も前の映画になってしまいましたが」と話すシーンがあるけれども、この「ザッツ・エンタテイメント」が35年も前の映画になってしまったことに、驚きを感じた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




日経ビジネスの表紙に「成果主義の逆襲」のキャッチが。

成果主義を中途半端に導入したため極度の業績不振に陥り、昨年同業他社に買収されるまでは、

「ちょっと販売するのを考えたほうが良さそうだ」

と真剣に考えてしまうような取引先があった。
この取引先、現在もなお売上に苦戦しているのだが、買収した元の会社がかなりの大手なので、とりあえず安心してうちの会社も商品を卸し続けている。

この成果主義導入の失敗。
傍目から見ていて「こんな単純なことも、ここの経営トップはわからないのか」というような内容だった。
世襲制の経営陣がビジネス本をそのまま模倣したような「似非米国式システム」を導入したため、社員に会社に対する不審が発生。
業績が下がり始めて人員整理をしようと早期退職者を募ったら、出来る人から辞めていって、営業成績は益々下がった。

成果を挙げればちょっとだけ評価し、成果が上らなければ容赦なくペナルティーを課す。
こういう状況で会社全体の成績を上げることなんか出来るわけがない。
しかし、そこは世襲制。
ビジネス本は正しいとばかりに持論を展開して、ついに自らも退任する羽目に陥ってしまった。
誠にもって労使ともお気の毒としか言いようのない惨状だった。

日経ビジネスに取り上げらていたのは、そういう悲惨な例ではなく、成果主義のなんたるかを理解して、独自の日本式成果主義を作り出して成功した事例集だ。

正直いって、今回の記事は目からうろこだった。

「成果主義は成功でしたか?」
のアンケートで気を引かれ、先ほどの取引先の例を思い浮かべながら読み進んでいった。

結局、社員すべてを同じルールに則って評価することなど不可能で、ビジネス本よろしく、コンサルのような社外の人間の言いなりになっていると、成功は望めないということがよくわかった。
とりわけ花王の毅然とした態度。
「コンサルタントの意見も聞きますが、その通り実施することはありえない」
というもの。

会社は人の集まりで感情によって結び付けられているもの。
簡単に成果主義だけでかたの着くものであるはずもない。

そういうことを理解しないで成果主義での成功などありえないことがよくわかる記事なのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




どこをさがしても見当たらない。
結構発売してから早いうちに近所の書店を探し回ったのだが見つからない。
公称6万部の発行部数が4万部に落ちていたので休刊になったのだというのだが、それにしても書店から姿を消すのが早すぎる。

「諸君!」

どこ行ったんや?

文藝春秋社発行のオピニオンマガジン「諸君!」が今月号を最後に休刊。
発行部数の減少と、「諸君!が担ってきた保守的主張が一定の役割を終えた」ことを理由にしている。
でもそれは建前。
ホントの理由は文藝春秋社が徐々に左寄りなってきており、超硬派な保守マガジン「諸君!」はリストラ対象として最初のやり玉にあたってしまったのだという。

確かに最近の文藝春秋社の雑誌はどこかおかしな感じがしている。
とりわけ私は毎週週刊文春を愛読しているわけだが、私が大学生だった20年前と比べると、ずいぶんと革新的な雰囲気に代わってきている。

それはともかく、私は学生時代から「諸君!」を愛読していたため、今回の最終号はなんとしてでも読みたいと思っていたのだ。
にも関わらず、新刊を見つけることができずにいる。
「諸君!」は以外に根強い人気を持ったオピニオンマガジンであったという事実が浮かび上がってくるのだ。

今後は産経新聞社の「正論」や小学館の「SAPIO」などが保守的論説の主導権を握っていくのだろうが、どうもいささか頼りない感じがしないでもないのだ。

ということで、今月号の「諸君!」。
紳士淑女の皆さん!
わたしゃ絶対に購入しますぞ。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




宇宙船USSエンタープライズ号は5年間の調査飛行で数々の地球外の文明や生物と接触。
私たち地球に住む人類に限りない希望と夢と科学を手にした勇気を与えてくれた。
さらに宇宙艦USSヴォイジャーは銀河の反対側へ飛ばされて、地球へ戻るための7光年の気の遠くなるような距離を7年間で飛行。これまた数々の新しい文明や新しい生命を発見した。

以上の宇宙探査の物語は不朽の名作SFテレビシリーズ「スタートレック」の2つのシリーズ。

このシリーズに負けない宇宙探査を続けている宇宙船が今、太陽系を地球に向って飛行している。
その宇宙船の名前は「はやぶさ」。
我が日本が誇る宇宙探査機だ。

新書「はやぶさ 不死身の探査機と宇宙研の物語」はその探査機にまつわるノンフィクションだ。

天文ファンなら知らないものはいない宇宙探査機「はやぶさ」は2005年末に小惑星「ITOKAWA」に着陸。地表のサンプルを採取して地球に戻ろうとしたところで音信が途絶えた。
この「はやぶさ」がドラマチックなのは、一旦行方不明になったこの探査機が3ヶ月後、かすかな電波を地球に送ってきたことだった。
それはまるで、銀河の彼方に吹き飛ばされた宇宙艦ヴォイジャーが最終シーズンで地球との交信に成功するエピソードに似た感動のシーンだ。
タダひとつ違うのは、ヴォイジャーの物語はフィクションで、はやぶさの物語は事実であったところだろう。

今、天文ファンでもない人たちの宇宙に対する関心は決して高くない。
国際宇宙ステーションで日本人飛行士が毎日様々な任務をこなしていても、その特殊な内容を伝える新聞はほとんどない。
そんなかで、日本の宇宙探査技術は実は米露に劣らない優秀なものであったことを、本書は語っている。
その日本の宇宙探査技術、その基本になるロケットの開発に尽力した東京大学の糸川英夫教授の生い立ちが前半の山場で、後半がその精神を受け継ぐはやぶさの物語、という構成だ。

この真実の物語にはSFの世界でしかなかったたくさんのフィクションが実現されているものとして登場する。
その代表がイオンエンジンだ。

スタートレックの世界では21世紀から22世紀かけての宇宙飛行はイオンエンジンを搭載した宇宙船によって行われていたということがたびたび登場する。
優生戦争の結果誕生したカーン・ノニエンシーンの乗っていた宇宙船ボタニーベイはイオンエンジンの宇宙船だった。
テレビを見た私は実際にはイオンエンジン(電気の力で推進するエンジン)など実現できるわけない、と思っていたのに、日本の宇宙技術はそれを実用化していたのだ。
たった66kgの燃料で何十億キロの宇宙の旅を続ける。
そのタフでハイクオリティな世界に、私の目は釘付けだ。

さらに「はやぶさ」は自分で考える能力のある宇宙船だった。
その知力は素晴らしく、地球からの信号に答えるものの、着陸や離脱、姿勢制御、何を見るのかまで、自分で考える能力を持っていたのだ。
これはまるで超小型宇宙船ノーマッドか、2001年宇宙の旅のHAL9000という趣だ。

科学は芸術と言う言葉があるが、まさに「はやぶさ」のミッションにピッタリな言葉だと思った。

一旦消息を絶った宇宙探査機「はやぶさ」は地球に向って帰還飛行中。
来年6月が到着予定。
地球に近づいたら地質サンプルが入ったカプセルを放出し、オーストラリアに着陸させる。
地球以外の他の星の地質サンプルを採取して地球に戻ってくる宇宙船としてはアポロ(米)、ルナ(露)、以来の3番目の快挙だという。
そしてはやぶさは最期のミッションとして地球に向って自らを隕石と見立てて隕石落下の実験を行なうという。(先日の新聞報道による)

本書を読むと、「はやぶさを実験で地球にぶつけるなんてとんでもない。スペースシャトルで回収すべきだ。」
と思うくらいその探査機に愛着が沸いてくるのだ。

~「はやぶさ 不死身の探査機と宇宙研の物語」吉田武著 幻冬舎新書~




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大阪のメインストリート御堂筋で全面車両を通行止めにした「オープンフェスタ2009」が開催された。
雑踏の大嫌いな私はこういうところが大の苦手なのだが、せっかくの良い天気に家にこもってウジウジしているのもなんなので、行ってみることにしたのだ。

「きっとなんばの駅を下りた瞬間から混んでいるに違いない」

と勝手に思い込んでいたのだったが、それはほんとに勝手な思い込みで、なんば駅はいつもの休日程度の混み具合なのであった。

御堂筋を北に向って少しあるくと千日前通の向こう側にバリケードが築かれているのが目に止まった。
オープンフェスタの最南端であった。
余談だが、このバリケードが大国町の交差点に設置されると、それは西成の暴動だ。

御堂筋でのフェスティバルでは、もちろん暴動などなくお祭り状態。
ついこの春には阪神電車がなんばに乗り入れしてきたばかりだから神戸方面からの訪問者もいるのだろう。
私がここを訪れた時は丁度、某高校の吹奏楽部の女の子の集団が吹奏楽を演奏せずにセーラー服姿でアイドルそのまま歌って踊っているのが目に留まった。
たかが高校生の集団なのだったが、それはそれは凄い人だかりなのであった。

私はそれを見ただけで女子高生などどうでもよくなり、さらに北に向って進むことにしたのであった。

踊りや漫才、大道芸などのアトラクションは100mおきぐらいに演じられていて、なかなか見ごたえがあった。
しかし、どれもこれも人だかり見る気がしない。
そうこうしていると道頓堀を少し超えた辺りのホテルの上から、デキシーランドジャズが聞こえてきたので、そちらに上がると程よい混雑で、しかも演奏がなかなか上手なバンドだったので、小一時間それを楽しんだ。
なお、演奏は上手かったがラッパのオニイサンの歌は最低なのであった。

ホテルの中のエレベータで一階に降り、表に出るとなにやら食べ物屋の屋台が目に留まった。
1番手前側のテントには、
「夫婦善哉」
の紅い提灯が出ている。
できればミヤコ蝶々先生にも出ていただきたかったが、出てきていただくためにはイタコを呼ばなければならず、そうなると趣旨が変わってしまうので、そんなどうでもいい想像はやめることにした。

善哉が一杯300円だったので甘辛両党の私はそれを是非に食ってみようと思った。
ところがである。
その夫婦善哉のすぐとなりに、かの有名な道頓堀今井が出店し、きつねうどんを販売しているではないか。

善哉を食べようとしていた私は即、きつねうどんを食べることに変更したのであった。

ところで、このきつねうどん。
なんと価格は一杯500円。
今井なのに、メチャ安なのであった。
こういうときこそ食べなければならない。
たかだかきつねうどんにいくら美味いからといって一杯1000円も払う私ではない。
第一財布の中身が許さないのだ。
それがなんと500円。

私はワンコインの今井のきつねうどんを注文したのであった。

で、食してみると、
「そんなはずは.........。今井のきつねが........。私の舌がおかしいの?........」
と言う感じで、これがすっごく、期待外れなのであった。

正直言って、JR天王寺駅の立ち食いうどんのほうが美味いといっても間違いではなかった。
これはおそらく容器の材質と、立ち食いである、という今井にとっては劣悪な条件が原因しているのかもしれないが、ともかく今井のうどんよりも姫路駅の名物そばのほうが美味いと感じるとは思わなかった。

きっと道頓堀の本店を訪れ、ちゃんとしたものを注文したら、美味しいお揚げさんの入った、心憎い出汁と腰のある麺を堪能できるに違いない。
と、思い込むことにして、その場を離れたのであった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ミャンマーは短期の観光でも訪問する時には「観光ビザ」が必要な最近では数の少ない国のひとつ。

申請手続きはそんなに難しくなく、政治的イデオロギーで有名な人でもない限り簡単にビザが下りる。
東京なら大使館、大阪なら日本ミャンマー友好協会の西日本事務所がビザ受付の代行をやっていて便利だ。
もちろん地方は郵送で取得することになるが、出発まで期間がある場合は現地の旅行会社に依頼してアライバルビザを取得することもできる。
尤も、アライバルビザは3年前に首都がヤンゴンから中部の田舎町ネピドーに遷都してからというものかなりの時間を要するという。
何といってもこの国の郵便事情は劣悪。
だから、現地旅行社も簡単に書類のやり取りをすることができないのだそうだ。

ところで、ミャンマーの観光ビザを取得するために記入する申請用紙に他の国ではあまり目にしない欄がある。
このことに初めてミャンマーを訪れる人はだいたい戸惑うのだ。

「父親の名前を書いてください」

なんでビザの申請にお父さんの名前が必要なのか。
これってなんで?

となってしまうのだ。

これはミャンマー人の名前を付ける習慣に由来するのだと、長年のミャンマー人の友人Tさんが教えてくれたことがある。
というのも、ミャンマー人には名字(姓=family name)がないので、本人を確認するためにはお父さんの名前が重要になるのだという。
だから外国人にも身分を証明させるためには、たとえそれが殆ど意味を成さないことであったとしても父親の名前を訊いてくることになるのだとか。

国際政治の問題にもなっている民主活動家アウンサン・スーチーさんも、アウンサンはお父さんの名前。
本人の名前は単にスーチーさん。

ところで、先日そのTさんが初めて日本を訪れてきた。
「いつか必ず日本に行きたいです」
と言っていた夢を実現させたわけで、彼女の意思の強さには驚くというより感動すら覚えるものがあった。

日本へ来るからと言っても会えないかも知れないな思っていたところ、東京都内の某JR駅前の喫茶店で30分ほどだけ再会して、元気な姿を確認することができた。
「Tさんの姿をここで目にすることになるとはね」
「信じられませんね」
などと、ヤンゴンのミンガラドン国際空港で別れて以来、お互い元気であったことを祝い合った。

前回の私の旅をガイドしてくれた数ヶ月後、彼女は旅行社を退社してガイドも辞めてしまった。
新しい人生を切り開くためにシンガポールに引っ越したのだ。
得意の外国語「日本語」と「英語」を駆使して新しい職を無事にゲット。
新生活を始めた。

「新しい会社の名刺見せてや」

と私が言ったら現在勤めている米国系の企業の名刺を見せてくれた。
なんとそこに記されている名前の順序があべこべに。

「会社、理解できないんです。ミャンマー人は名字がないのに、むりやり名字つくられてしまいました。」

名刺の名前はTさんの名前を音で分解し、後半を名字に、前半を名前に当てていた。
つまり「イチロー」を「ロー・イチ」って書いているようなもの。

「これでは私の名前、意味がありません。アメリカ人、アホです。」

名前ひとつに文化がある。

理解できないのは米国系会社だからか、華僑の国のためか。
それにしても、笑ってしまってゴメンナサイ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




アップル社のMac用統合ソフトiLife。
その最新バージョンがなかなかな優れものであることは先日報告した通り。

中でもiPhotoはデジカメで撮影した写真の整理にピッタリで、数万枚の写真を保存してもサクサクと検索できるのが特徴だ。
また、アルバムから写真集やハガキ、カレンダーなどを発注したり、スライドショーなんかも作成できるので重宝している。

このGW中にそのiPhotoに新たに加わった顔認識機能を使ってみた。
写っている顔が「誰」なのか特定し、顔でフォトをグループ化できるという優れた機能だ。

この顔認識機能。
結構笑えることが分かった。

今回試しに大学時代からの友人「京都の船長」さんを検索したら、本人が写っている写真は2枚しか認識せず、他は別人。
ミャンマーの祭りに参加している中学生。
タイのムエタイを観戦している博打に夢中なオッチャン。
ジョーシンのCMソングを歌っているミュージシャンの一人。
そして、何だか知らないが「長門勇」。
浅草で写した浅草芸人さんの写真の中から選ばれた。
別の友人「船場の総帥」さんを検索したら、「顔」として認識してもらえず。
横顔だったのが原因なのか、酔っぱらっていたからか、はたまた映画用メイキャップをしていたからかもわからない。
「大津びわ子」さんは桂米団治のポスターを検索。

ともかく、iPhotoの顔認識機能。
正確でないところが魅力なのかも分からない。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




いつも利用している大手ビジネスホテルチェーンの客室用テレビがハイビジョンになっているのに驚いた。
ついにこの世界にも14インチのブラウン管テレビの時代が終わり、17インチ程度のハイビジョン液晶テレビが登場したというわけだ。

ビジネスホテルのテレビといえば、その昔、百円硬貨専用のコインボックスが付いていて見るためには料金を支払わなければならなかった。
ちなみに沖縄の本島中部のビジネスホテルではテレビは無料でエアコンの使用に1時間あたり100円を徴収された。
そのビジネスホテルのテレビがいつかしら無料になり、アダルトチャンネルだけ有料というシステムに代わってから随分と年月が流れた。
テレビは見放題になった。
沖縄のあのエアコンが付け放題になったかどうかはわからない。

考えてみればビジネスホテルのテレビが液晶ハイビジョンになるのは当たり前だ。
地上波アナログ放送が間もなく終了する。
どのみちテレビはデジタルに取り替えなければならないわけで、そのチェーン数が多いほど予算を組んで順々にテレビの新規購入をしていかなければならないだろう。
そしてもちろん、その交換は東京都内のホテルからになる。



でも、今回最もビックリしたのは新しいテレビがシャープのAQUOSであったことだ。

従来のブラウン管テレビはどこのメーカーか分からない製品が少なくなく、たとえ有名メーカーのものであったとしても、どう見積もっても中国かはたまた東南アジアの偏狭で作られたとおぼしき画面のキューンと丸まっている前時代的テレビがほとんどだった。
さすがにチャンネルはリモコンなのだが、これがガチャガチャの回す式のチャンネルだったら間違いなく骨董品だ。

液晶テレビは日本のメーカーと韓国、台湾のメーカーが市場争いにしのぎを削っている。
だからこそ日本のホテルで外国の電機メーカーに負けるわけに行かないと無理してシャープは納品したのかもわからない。

「宣伝になります。それに1回の発注の台数はまとめて何百台にもなりますから、普通の割引価格じゃ買えませんね。」
「がんばって、特値だします。」
「わかりました。がんばってみてくださいね。でもP社や韓国のS社、L社はもっと安かもしれませんよ。」

というような会話が交わされていたに違いない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ピクサーアニメーションの昨年の作品「ウォーリー」を先日ビデオで初めて見てからMacを起動させるたびに笑いがこみ上げてくる。
なぜなら、あのボロボロだけど陽気なスクラップ処理ロボット「WALL・E」の起動音がMacの起動音だからなのであった。

多くの人が知っているようにピクサーアニメーションスタジオはアップルコンピュータ社のスティーブジョブスが最高経営者を勤めている。
いわばアップル社とピクサー社は日本風にいえば兄弟会社になる。
だから、ウォーリーが再起動をかけるたびにあの「うぉ~~~~~~ン」というMacの起動音が流れ、それがなんとも上手なシャレに聞こえるので、なんとなく笑えてしまうのだ。

この「うぉ~~~~ん」という起動音。
Macユーザーの私も最初は「どこかで聞いたことのある音だな」という感じで、何の音だか全く気づかなかった。
ところがいったん気づいてしまうと、「うぉ~~~~ん」という音が持っているもともとのマヌケな雰囲気が、ウォーリーの個性に妙にマッチしていて笑えてしまったのだった。

ほかにも物語とは関係のない「ささやかなシャレ」がこの映画には少なくなかった。
それがまた強烈な魅力を放っているのだ。
ウォーリーが20世紀FOXのミュージカル「ハロードーリー」を見ている機器がiPodであったり、ピクサーの映画にしては珍しくライブ映像が使われているのだが、そのライブビデオを制作しているのがかつてピクサーがその一部分であったILMだったりするのだ。

もちろん映画そのものも面白い。
今年度のアカデミー長編アニメーション賞を受賞したにふさわしい作品で、物語もしっかりしている。
700年後のゴミに埋もれた地球の姿とそこで「生活している」ウォーリーの姿は、とてもCGとは言えない、「生」さが存在していた。
ところが、この映画はピクサーの作品としてはどことなくやるせない寂しさが全体を包んでいて従来の作品とは雰囲気がずいぶんと異なったものになっていた。
とりわけラストは非常に寂しく、やるせなく、見終わってから何時間後あるいは何日後かに思い出して変に考え事をさせられる部分がなくもない。
もしかすると、それだけピクサーの映画に重みが加わっているのかもわからない。

ともかく毎回のことながらピクサーの映画は作品の数を重ねるごとに、その魅力は増していくばかりだ。
こんな映画製作会社、ほかにあるだろうか。
「ゔぉ~~~~ん」という起動音を聞くたびに、ウィーリーを思い出しては笑ったり考えたりしてしまうのだ。

~「ウォーリー」 2008年ウォルトディズニー配給 ピクサーアニメーションスタジオ作品~

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マイクロソフトWindows OS、その軌跡と未来

(過去)
1.MS-DOS
2.Windows 3.1
3.Windows NT
4.Windows 95
5.Windows 98
6.Windows Me
7.Windows 2000
8.Windows XP
9.Windows Vista
(未来)
10.Windows 7
11.帰ってきたWindows
12.Windowsエース
13.Windowsタロウ
14.Windowsレオ
15.Windowsティガ

で、Windowsの著作権がタイに移り裁判になる。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



   次ページ »