May teach you more of man,
第86話 建巳 act.15 another,side story「陽はまた昇る」
弥生門、ここが僕の夢の扉。
ずっと憧れる世界の入り口。
「ん、」
潜る門、頭上ゆれる常緑樹が青い。
木洩陽きらめくキャンパス踏みこんで、桜ひとひら舞った。
「あ、」
掌ふわり、薄紅ひとひら光る。
あわい甘い深い香、その記憶ことんと響いた。
『周、おみやげだよ?』
花びらひとつ、指先つまんだ長い指。
すこし日焼けして、そして優しい父の笑顔。
「…お父さん?」
そっと呼びかけて花びら光る。
掌ひとつ薄紅色、それから遠い慕わしい春の笑顔。
『今日は何を読もうか、周?』
遠い慕わしい瞳が笑う、声が透る。
あの瞳もこの大学で生きていた、夢を生きて。
そんな父はもういない、それでも、その軌跡はこの場所で生きている。
―僕とは違う学部だけど、お父さんは文学部だけど、それでも…僕もここに来たんだ、
想い見あげる空、古い校舎そびえる青が輝く。
すこし狭い都会の空、それでも大木ふるい古い森のキャンパスどこか懐かしい。
そうして父の聲が謳う。
Puisqu'au partir,rongé de soin et d'ire,
A ce bel œil adieu je n'ai su dire,
Qui près et loin me détient en émoi,
心を遺したままで僕は発ってゆく、
僕を見つめる綺麗な瞳に、さよならなんて言えない、
近くにいても遠くにいても君が僕に響いて、離れられない、
Pierre de Ronsard『Les Amours』
詩の王、そう讃えられるフランスの貴族が遺した詩。
その詩を父は愛した、祖母も愛して、そして祖父がたどった軌跡の詩。
「…心を遺したままで」
詞こぼれる唇、かすかな香あまく深い。
懐かしい甘さ微笑んで、衿元ネクタイそっと整え校舎の扉くぐった。
「ん、」
頷いて階段を踏む。
レザーソール響く回廊、この音を父も祖父母も聞いていた。
―違う学部で違う棟だけど同じ学校…お父さんも、お祖父さんも、お祖母さんも、
想いめぐる一段、一段、靴音そっと昇る。
もう何度も通いなれた階段、それでも今日ネクタイの衿元が固くも弾む。
―あ…僕すごく浮かれてる、ね?
ほら自覚が微笑む、右掌のなか熱い。
熱そっと包んだ花びら大切で、たどりついた扉ノックした。
「はい、どうぞ?」
応えてくれる声、もう何度めだろう?
それなのに今、初めて響くドアノブ握りしめた。
「失礼します、」
呼びかけて扉を押して、古い音かすかに軋む。
あわい渋い甘い香かすめて、眼鏡おだやかな学者が笑った。
「やあ、今日はあらたまった服装だね?」
「はい、」
微笑んで頷いて、ワイシャツの衿すっと硬い。
アイロンかすかな匂い顎ふれて、森林生物科学研究室の主に礼をした。
「青木准教授、今日から研究生としてお世話になります。ご指導よろしくお願い致します、」
革靴の爪先が見える、その床ふかく星霜が艶めく。
かすかな凹凸は靴跡だろう、降りつもる時間に学者が言った。
「はい、今日からは研究生の湯原君だね。こちらこそよろしくお願い致します、」
かたん、デスクの椅子音にセーター姿が立ち上がる。
こつり二歩三歩、止まった靴音から掌さしだされた。
「ようこそ、森の学問の世界へ、」
さしだされた右掌、節くれ武骨にも温かい。
日焼け健やかな恩師の手に、ありのまま微笑んだ。
「ありがとうございます、」
右手ひらいて薄紅ひとひら、左指につまんで握手さしだす。
ふれた掌すこし硬く分厚くて、けれど温かさ穏やかに笑った。
「まず座りましょうか、今後の話をしましょう、」
「はい、」
すなおに肯きながら、何気ない言葉ひとつ響く。
自分には無かったから。
“今後の話をしましょう”
今後、明日その先が自分にはある。
こんなの当然ありふれて、けれど自分には当り前じゃない。
―こういう気持ち忘れないようにしよう、僕は、
当り前じゃない、普通の貌したこと全て。
そっと肚底に刻むテーブル、准教授は微笑んだ。
「さっそくですが湯原君、研究生としてだけではなく、研究員としても私の研究室に関わってくれませんか?」
提案に銀縁眼鏡おだやかに笑ってくれる。
もう示される道の勧め手は、書類ひとつデスクに置いた。
「これは官公庁の研究資金による研究プロジェクトです、」
A4サイズ一冊、厚みある書類が開かれる。
まず契約書、それから研究計画つづられるページに言われた。
「森林の再生と水源確保を課題としたプロジェクトです、この研究員としてこの研究室に勤めてみませんか?」
研究員として、ここに?
とくん、鼓動ひとつ敲かれて学者が続けた。
「フィールドは全国ですが、今年度は奥多摩がメインです。まだ1年生ですが小嶌さんにもお願いするつもりです、手塚君は昨年からいます、」
あの奥多摩で研究に携われる。
あの二人とも一緒に、こんなの夢みたいだ?
「小嶌さんは奥多摩のご出身ですからね、手塚君も代々林業のお家で技術に詳しいんです。ご一緒すれば湯原君の勉強に役立ちませんか?」
穏やかな声、けれど銀縁眼鏡の瞳ほがらかに明るむ。
この先生も楽しみにしてくれている、期待もしてくれている。
―すごくありがたいな、こんな…僕にもこんな道があるんだ、
今後の話をしよう、そう告げて学者が提案してくれる。
ただ素直に嬉しくて、それでも決めてきた今日に口ひらいた。
「ありがとうございます、とても嬉しいお申し出です。でも、今の僕には難しいのではないでしょうか、」
こんな申し出ありがたい、そう出来たらどんなに楽しいだろう?
それでも受けられない「今」に恩師は眉そっと顰めた。
「なぜ今は難しいのかな?大学院の受験勉強にも役立つと思ったのですが、」
「はい、とても役立つと僕も思います、」
うなずいて見つめる真ん中、銀縁眼鏡の瞳が困惑する。
それならなぜ?問いかける眼差しに口ひらいた。
「でも、もし今、僕が青木先生の研究室をお手伝いすれば、大学院入試に関わる情報を知りうる立場になりませんか?」
ただ研究生だけならいい、学生の身分だから。
けれど研究員=職員として手伝うことは?考えた現実に学者が尋ねた。
「ようするに湯原君は、入試問題の漏洩や査定の忖度、受験の不正を心配しているということかな?」
「はい、それが事実ある無しではなくです、」
答えたテーブル、准教授の瞳が見つめ返してくれる。
初めて会った時と変わらない、その実直な視線に応えた。
「もちろん僕は、青木先生はそんなことされるとは思えません。けれど周りの眼はまた違います、疑いを招くことはしたくありません、」
この学者と出会ったのは、冤罪の場だった。
あの時の眼を忘れられない、あんな想いさせるなんて嫌だ。
―それに元警察官の僕を受入れる方ばかりじゃない、きっと、
自分の経歴は、この大学では異色だ。
それでも迎えてくれる恩師に、ただ感謝と微笑んだ。
「この研究プロジェクトは僕にとって魅力的すぎるお話です、でも、それ以上に僕は来年の今日、この研究室の大学院生として納得してここにいたいです、」
ここにいたい、誰のためでもなく自分のために。
そのために今はすこし距離が要る、そんな今に准教授はため息吐いた。
「…そうですね、湯原君の言う通りです。そうしましょう、」
節くれた指そっと眼鏡の銀縁ふれて、外して瞬く。
レンズ越しじゃない瞳こちら見て、困ったように学者は笑った。
「こんなこと君に言わせて申し訳ない、教員である私が配慮すべきなのにね?」
「いえ、僕のほうこそ生意気に申し訳ありません、」
首を振って頭を下げて、首すじ熱くなる。
こんな物言い失礼だったかもしれない、気恥ずかしさに恩師が笑った。
「私こそ申し訳ないよ?優秀な湯原君が来てくれるならって先走りました、立場も考えず申し訳ないです。つい浮かれてしまったな、」
銀縁眼鏡かけなおして、困ったよう笑ってくれる。
自分こそ「こんなこと言わせて」申し訳なくて、頬もう熱い背中に低い声が笑った。
「あははっ、ホントすっかり浮かれてたなあ、青木?」
※校正中
(to be continued)
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kenshi―周太24歳4月
第86話 建巳 act.15 another,side story「陽はまた昇る」
弥生門、ここが僕の夢の扉。
ずっと憧れる世界の入り口。
「ん、」
潜る門、頭上ゆれる常緑樹が青い。
木洩陽きらめくキャンパス踏みこんで、桜ひとひら舞った。
「あ、」
掌ふわり、薄紅ひとひら光る。
あわい甘い深い香、その記憶ことんと響いた。
『周、おみやげだよ?』
花びらひとつ、指先つまんだ長い指。
すこし日焼けして、そして優しい父の笑顔。
「…お父さん?」
そっと呼びかけて花びら光る。
掌ひとつ薄紅色、それから遠い慕わしい春の笑顔。
『今日は何を読もうか、周?』
遠い慕わしい瞳が笑う、声が透る。
あの瞳もこの大学で生きていた、夢を生きて。
そんな父はもういない、それでも、その軌跡はこの場所で生きている。
―僕とは違う学部だけど、お父さんは文学部だけど、それでも…僕もここに来たんだ、
想い見あげる空、古い校舎そびえる青が輝く。
すこし狭い都会の空、それでも大木ふるい古い森のキャンパスどこか懐かしい。
そうして父の聲が謳う。
Puisqu'au partir,rongé de soin et d'ire,
A ce bel œil adieu je n'ai su dire,
Qui près et loin me détient en émoi,
心を遺したままで僕は発ってゆく、
僕を見つめる綺麗な瞳に、さよならなんて言えない、
近くにいても遠くにいても君が僕に響いて、離れられない、
Pierre de Ronsard『Les Amours』
詩の王、そう讃えられるフランスの貴族が遺した詩。
その詩を父は愛した、祖母も愛して、そして祖父がたどった軌跡の詩。
「…心を遺したままで」
詞こぼれる唇、かすかな香あまく深い。
懐かしい甘さ微笑んで、衿元ネクタイそっと整え校舎の扉くぐった。
「ん、」
頷いて階段を踏む。
レザーソール響く回廊、この音を父も祖父母も聞いていた。
―違う学部で違う棟だけど同じ学校…お父さんも、お祖父さんも、お祖母さんも、
想いめぐる一段、一段、靴音そっと昇る。
もう何度も通いなれた階段、それでも今日ネクタイの衿元が固くも弾む。
―あ…僕すごく浮かれてる、ね?
ほら自覚が微笑む、右掌のなか熱い。
熱そっと包んだ花びら大切で、たどりついた扉ノックした。
「はい、どうぞ?」
応えてくれる声、もう何度めだろう?
それなのに今、初めて響くドアノブ握りしめた。
「失礼します、」
呼びかけて扉を押して、古い音かすかに軋む。
あわい渋い甘い香かすめて、眼鏡おだやかな学者が笑った。
「やあ、今日はあらたまった服装だね?」
「はい、」
微笑んで頷いて、ワイシャツの衿すっと硬い。
アイロンかすかな匂い顎ふれて、森林生物科学研究室の主に礼をした。
「青木准教授、今日から研究生としてお世話になります。ご指導よろしくお願い致します、」
革靴の爪先が見える、その床ふかく星霜が艶めく。
かすかな凹凸は靴跡だろう、降りつもる時間に学者が言った。
「はい、今日からは研究生の湯原君だね。こちらこそよろしくお願い致します、」
かたん、デスクの椅子音にセーター姿が立ち上がる。
こつり二歩三歩、止まった靴音から掌さしだされた。
「ようこそ、森の学問の世界へ、」
さしだされた右掌、節くれ武骨にも温かい。
日焼け健やかな恩師の手に、ありのまま微笑んだ。
「ありがとうございます、」
右手ひらいて薄紅ひとひら、左指につまんで握手さしだす。
ふれた掌すこし硬く分厚くて、けれど温かさ穏やかに笑った。
「まず座りましょうか、今後の話をしましょう、」
「はい、」
すなおに肯きながら、何気ない言葉ひとつ響く。
自分には無かったから。
“今後の話をしましょう”
今後、明日その先が自分にはある。
こんなの当然ありふれて、けれど自分には当り前じゃない。
―こういう気持ち忘れないようにしよう、僕は、
当り前じゃない、普通の貌したこと全て。
そっと肚底に刻むテーブル、准教授は微笑んだ。
「さっそくですが湯原君、研究生としてだけではなく、研究員としても私の研究室に関わってくれませんか?」
提案に銀縁眼鏡おだやかに笑ってくれる。
もう示される道の勧め手は、書類ひとつデスクに置いた。
「これは官公庁の研究資金による研究プロジェクトです、」
A4サイズ一冊、厚みある書類が開かれる。
まず契約書、それから研究計画つづられるページに言われた。
「森林の再生と水源確保を課題としたプロジェクトです、この研究員としてこの研究室に勤めてみませんか?」
研究員として、ここに?
とくん、鼓動ひとつ敲かれて学者が続けた。
「フィールドは全国ですが、今年度は奥多摩がメインです。まだ1年生ですが小嶌さんにもお願いするつもりです、手塚君は昨年からいます、」
あの奥多摩で研究に携われる。
あの二人とも一緒に、こんなの夢みたいだ?
「小嶌さんは奥多摩のご出身ですからね、手塚君も代々林業のお家で技術に詳しいんです。ご一緒すれば湯原君の勉強に役立ちませんか?」
穏やかな声、けれど銀縁眼鏡の瞳ほがらかに明るむ。
この先生も楽しみにしてくれている、期待もしてくれている。
―すごくありがたいな、こんな…僕にもこんな道があるんだ、
今後の話をしよう、そう告げて学者が提案してくれる。
ただ素直に嬉しくて、それでも決めてきた今日に口ひらいた。
「ありがとうございます、とても嬉しいお申し出です。でも、今の僕には難しいのではないでしょうか、」
こんな申し出ありがたい、そう出来たらどんなに楽しいだろう?
それでも受けられない「今」に恩師は眉そっと顰めた。
「なぜ今は難しいのかな?大学院の受験勉強にも役立つと思ったのですが、」
「はい、とても役立つと僕も思います、」
うなずいて見つめる真ん中、銀縁眼鏡の瞳が困惑する。
それならなぜ?問いかける眼差しに口ひらいた。
「でも、もし今、僕が青木先生の研究室をお手伝いすれば、大学院入試に関わる情報を知りうる立場になりませんか?」
ただ研究生だけならいい、学生の身分だから。
けれど研究員=職員として手伝うことは?考えた現実に学者が尋ねた。
「ようするに湯原君は、入試問題の漏洩や査定の忖度、受験の不正を心配しているということかな?」
「はい、それが事実ある無しではなくです、」
答えたテーブル、准教授の瞳が見つめ返してくれる。
初めて会った時と変わらない、その実直な視線に応えた。
「もちろん僕は、青木先生はそんなことされるとは思えません。けれど周りの眼はまた違います、疑いを招くことはしたくありません、」
この学者と出会ったのは、冤罪の場だった。
あの時の眼を忘れられない、あんな想いさせるなんて嫌だ。
―それに元警察官の僕を受入れる方ばかりじゃない、きっと、
自分の経歴は、この大学では異色だ。
それでも迎えてくれる恩師に、ただ感謝と微笑んだ。
「この研究プロジェクトは僕にとって魅力的すぎるお話です、でも、それ以上に僕は来年の今日、この研究室の大学院生として納得してここにいたいです、」
ここにいたい、誰のためでもなく自分のために。
そのために今はすこし距離が要る、そんな今に准教授はため息吐いた。
「…そうですね、湯原君の言う通りです。そうしましょう、」
節くれた指そっと眼鏡の銀縁ふれて、外して瞬く。
レンズ越しじゃない瞳こちら見て、困ったように学者は笑った。
「こんなこと君に言わせて申し訳ない、教員である私が配慮すべきなのにね?」
「いえ、僕のほうこそ生意気に申し訳ありません、」
首を振って頭を下げて、首すじ熱くなる。
こんな物言い失礼だったかもしれない、気恥ずかしさに恩師が笑った。
「私こそ申し訳ないよ?優秀な湯原君が来てくれるならって先走りました、立場も考えず申し訳ないです。つい浮かれてしまったな、」
銀縁眼鏡かけなおして、困ったよう笑ってくれる。
自分こそ「こんなこと言わせて」申し訳なくて、頬もう熱い背中に低い声が笑った。
「あははっ、ホントすっかり浮かれてたなあ、青木?」
※校正中
(to be continued)
【引用詩文: William Wordsworth「The tables Turned」】
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