萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

温赦、介抱act.2―「陽はまた昇る」

2011-11-02 23:35:42 | 陽はまた昇るside story
※念の為後半1/3あたりR18(露骨な表現はありません)

このまま浚って、はなさない




温赦、介抱act.2―「陽はまた昇る」

いつもの公園のベンチに、ふたり並んで座った。
もう11月で寒くなりかけている、けれどベンチは小春日和に暖かだった。

胸に涙の温もりを感じながら、包むように周太を抱きしめていた。
華奢な骨格が哀しくて、いとしい。ひとりには出来ない。
主人の話を聴く横顔は、凛と透明で、きれいだった。もう絶対に、離せない。

こんなふうに頼られて、素直に泣き顔を見せてくれる。
腕の中にひろがる、周太の温かな熱も震えも、全てが英二の喜びだった。
こうして抱きしめる、喜びと切ない想いの底で、静かに英二は口を開いた。

「犯人を救けてほしい。周太の父さんは、そう言ったそうだよ。安本さんに会って、訊いたんだ」

微笑んで英二は続ける。

「生きて償う機会を与えて、彼に温かな心を教えてほしい。
 そう周太の父さんと約束したから、安本さんは事件担当を続けたんだ」

「…父さんが、」
「そうだよ、」

英二は微笑んで頷いた。
やわらかく腕に力こめながら、静かに英二は話していく。

「それから『周太、』そう言って、眠られたそうだ」

ゆるやかに抱きしめる、温もりがいとしい。
涙零れていく瞳を覗きこんで、そっと英二は微笑んだ。

「周太の父さんの遺した約束は、二人の命を救ったんだよな」
「ふたり?」

そうだよと頷いて、英二は言った。

「安本さんはね、本当は犯人を殺そうとしたんだ」
「…安本さんが、」

周太が息を呑んだ。
穏やかな今の安本しか見なければ、そんな激しさは想像できないだろう。

「でも、周太の父さんと約束した。犯人を救けてほしい、そう言って。
 だから安本さんは殺せなかった、そしてあの店の主人として、犯人は生まれ変われた。だろ?」

「…ん、」
「そして、安本さん自身も殺さないで済んだ」

黒目がちの瞳が見つめてくれる。
きれいに優しく微笑んで、英二は見つめ返した。

「周太を見た時にね、安本さんは思ったそうだよ。
 自分が大好きだった男の面影と射撃の名手、懐かしくて嬉しかったと。
 そして周太の瞳は明るくて、幸せなのだと感じたそうだ。だから何も知らせたくなかった。
 それでも、どうしても、周太の父さんの面影に会いたくて、会いに来られたそうだ」

黒目がちの瞳が、すこし切なそうに揺れる。見つめて微笑んで、英二は続けた。

「許して欲しいとも、私には言えない。安本さんはそう言ったよ。
 安本さんは、本当に周太の父さんが好きだった。
 だから本当は、許してほしいと、周太の父さんに言いに行きたかった。
 自ら死ぬことを選んでも、周太の父さんの所へ行きたかった。そんなふうに俺は感じたよ」

初めての死体見分で出会った、縊死自殺の女性。
亡くした夫に今すぐ会いたくて、その隣を片時も離れたくなくて、彼女は自ら死を選んだ。
大切な存在と離れていたくない。そんな気持ちは英二にも解る。

「許して欲しいとも、私には言えない」その言葉に孕まれる、安本の想いが痛かった。
自責の苦痛、哀惜の痛切、ひとり残される離別の寂寥。
全てを告げて赦して欲しいと、言うことが出来るのなら。

周太の父と安本は友人だった。自分と周太の繋がりとは、また違う。
けれど、今すぐ会いに行きたいと、その想いの強さは変わらない。

ただ安本は、全てを掛けてまでは、周太の父を追いかけられなかった。
英二は全てを掛けるから、周太を追って掴まえられる。そして抱きしめて離さない。
その違いがきっと、周太とその父の、行く道の先を変えていく。

ゆっくりと英二は話した。

「そうやって、安本さんが思い詰める事をさ、周太の父さんには解ったんだと思うよ。
 だから約束をさせた、犯人を助けてほしいと。そうしたら安本さんは、約束の為に生きていけるから。
 犯人も安本さんも救けたい、それが周太の父さんの願いだった。そんなふうに俺は思う」

周太を見つめて、静かに英二は言った。

「周太の父さん、俺は尊敬する」

黒目がちの瞳から、温かな涙がまた溢れる。その眼差しは凛と真直ぐで、きれいだった。

どうしてこんなに、純粋なのだろう。
どうしてこんなにも、凛として繊細で、きれいなのだろう。

見惚れたままに英二は抱きしめた。
もう離せない、絶対に離せない、だって自分はこんなにも、この隣がほしい。
毀れないように抱きしめて、けれど決して離せない。

守れた。

この隣と、その約束、両方とも守れた。
守って、こうしてまた離さずにいられる。
その為に、どれだけの信頼が、その手を貸してくれただろう。

澤野がファイルを開いてくれた。
吉村が付き添って、安本の心を叩いてくれた。
安本が痛みに耐えて、その心を開いてくれた。
国村が軽く笑って、パトカーを走らせてくれた。

そしてあの店の主が、信じて話してくれた。
その信頼すらも、英二の父があの店に、ずっと連れて来てくれたから。

それからきっと周太の父が、信じて息子を託してくれている。
周太の母が信じてくれるように。

自分は直情的で、思ったことしか言えない、出来ない。
正直な分だけ図太くて狡い、まだ若くて何もない。
そんな自分が信じられて、手を貸してもらえて、約束を果たせる。
そのことが嬉しくて、ただ感謝だけしか、出来ない。

自分もいつかそんなふうに、手を貸す事が出来たらいい。
そうして、この隣を守っていける、その感謝を返したい。

微笑んで、英二は言った。

「俺ね、安本さんに飲みに誘われたんだ、周太も一緒にいこう」
「…ん、一緒にいく…連れて行って、みやた」

また一つ約束をする。
警察官として山ヤとして、自分は危険の中で生きている。
危険の中、それは約束が果たせずに斃れる可能性。
だから本当は、約束なんて出来ない立場で、自分は生きている。

けれど自分は必ず、この隣との約束を守れる。
だってその為だけにずっと、考えて悩んで動いている。
それに今回のように、信じて手を貸しあえるなら、なんとか出来るのじゃないだろうか。
そうしてお互い人が頼り合う、そして生まれる温もりは、悪くない。

救助服が涙で透けた頃、上げた黒目がちの瞳に、月の光がおちていた。
風は冷たいけれど、抱きしめた体は温かい。
見上げてくれる瞳が嬉しくて、きれいに英二は笑った。
その視線の真中で、微笑んだ唇が開いてくれる。

「ありがとう…掴んでくれて離さないでくれた…うれしい、」
「俺も嬉しいよ。だって、俺が離れたくないんだ」

そう、離れたくないのは自分。
けれど隣は真直ぐに見つめて、微笑んで言ってくれた。

「俺を離さないで、ずっと…隣にいてほしい」

そんなふうに言われて、いま、どれだけ嬉しいか。
きっとこの隣は、解っていないだろうと思う。
嬉しくて英二は微笑んだ。

「ずっと隣にいるよ。約束しただろ?」

周太が笑ってくれる。
その笑った唇が嬉しくて、そっと唇で英二はふれた。

静かに唇を離して、ふと言いたい事が思いだされる。
これだけは、きちんと理解してもらわないと、この先きっと困るだろう。
英二は周太の瞳を覗きこんだ。

「それからさ。あの店に行こうとしたの、隠しただろ?もう隠さないって、一昨日、約束したのに」
「…ん。ごめんなさい」

黒目がちの瞳が、すこし困ったように顰められる。
けれどたぶんまだ、本当に解ってほしいことを、気づいていない。
切長い目を細めて、すこし強い口調で英二は言った。

「隠しても俺は必ず見つける。でも隠されたら悲しい、傷つくよ」

黒目がちの瞳が大きくなった。きっと今、驚いている。
自分が英二を傷つけるだなんて、きっと想像もしていなかったのだろう。
小さな声が、周太の唇からこぼれた。

「…ごめん、なさ、い…」

見つめる先で、黒目がちの瞳が悲しげに途惑っていく。
周太は英二に、本当に残酷なことをした。その事にようやく気付いていく。

こんな顔は本当はさせたくない、でも今、どうか解ってほしい。
すこし怒った目のままで、英二は言った。

「俺をさ、本当に傷つけられるのは誰なのか。いいかげん気づいてよ」

どうしよう、どうしたらいいのだろう。そんな声が瞳に映っている。
悲しそうな周太の顔。純粋な悲しみが、英二にも寄り添ってくる。
こんな顔、やっぱりさせるんじゃなかった。後悔しかけた時、消え入りそうな声が呟いた。

「…なんでもするから…ゆるして…」

こんなふうに言ってもらえて、嬉しい。
なんでもするなんて嬉しい、やっぱり言ってみて良かった。
もうこの際だから、遠慮なんかしない。英二はにっこり笑って言った。

「じゃあさ。周太、外泊許可とってよ」
「…え、」

まだよく解らないのだろう、黒目がちの瞳が途惑っている。
こういうところが、またかわいい。英二は笑った。

「癒してよ、傷ついたんだから俺」

どういう事なのだろう、解らないよ。
そんなふうに黒目がちの瞳が見つめてくれる。
この顔は、やっぱりかわいい。嬉しくて、英二は唇の端をあげた。

「俺さ、昨日のうちに外泊許可、出しておいたんだよね」
「…どういうこと?」
「今日は俺さ、週休なんだよ。訓練が終わったら来るつもりだったから、念のため許可を貰っておいた」

こう言ったら解ってくれるのかな。思いながら笑って、英二は言った。

「朝までずっと添い寝して。周太の体温だけが、俺を癒せるんだよね」

隣の首筋が、きれいに赤くなっていく。
初々しい反応が嬉しくて、微笑んで、英二は告げた。

「独りになんかしない、離さない。約束通りに幸せに浚うから」

ほら、もう、頬まで赤くなっている。
でも約束しただろ、ずっと幸せに浚うって。

それに、言われなくても解っている。周太は今夜、独りでは居たくない。
13年分の辛く冷たかった現実の、涙の余韻がまだ残っている。
それを独り抱えるのは、本当は辛いし切ないに決まっている。それなのに、独りに出来るわけがない。

「明日は日勤だからさ、朝一で帰るけどね」

そう、奥多摩へ、明日の朝は帰るよ。
でも今考えていることを、知ったらきっと、この隣は驚くだろう。

途惑ったような顔で、周太が口を開いた。

「りゆう…なんていえば、いいんだよ」

外泊のことが、周太には恥ずかしいのだろう。
この年齢でこうも初々しいなんて。そういう純粋さが、本当にかわいい。
嬉しくて英二は微笑んだ。

「同期と会うからって、本当の事を書けばいいだろ。所轄内だしさ、すぐ通るよ」
「…新宿署は厳しいかもしれないけど?」

そんなふうに言いながら新宿署の寮へ戻ると、周太は外泊申請書を書いてくれた。
周太が書きあげた申請書を、横から英二は取上げた。

「新宿署のはどんな用紙?」

眺めながら英二は、担当窓口までついていった。
返してと周太が取上げて、窓口に提出する。

「すぐそこですね」
「はい、同期が来ているんです」

担当は、山岳救助隊服姿の英二を見て、微笑んでくれた。
たぶん英二が奥多摩から来た事が、担当にも解るだろう。
そして申請書のあの一文を、本当なのだと信じ易くしてくれる。だって嘘は書いていない。

「楽しんでおいで」

笑って担当は、判を押してくれた。
ほら、あっさり通った。嬉しくて、英二は微笑んだ。

「…急だったのに、不祝儀でもないのに、どうして通ったのかな」

隣は不思議そうに、外泊許可証を眺めている。
周太は首席で英二よりずっと優秀だ。
けれど英二の方が、正直な分だけ図太い。だからきっと、こんなふうに周太に気付かれない。
そんな周太がかわいくて、英二は笑った。

「ほら、早く仕度してよ。俺、腹減ってるんだ」
「あ、ん。わかった」

途惑った顔のまま、周太はクロゼットを開けた。
ぼんやりした周太を眺めながら、英二は下駄箱の一足をザックにしまう。
それから顔を覗きこんで、周太に訊いた。

「さっき深堀を見かけたから、喋っていていい?」
「ん、」

廊下に出ると、ちょうど深堀が歩いてきた。
班は違ったけれど同じ教場で、こんな性格の英二だから、深堀とも何度か話している。
久しぶりと声をかけると、驚いて懐かしそうに、深堀は立ち止ってくれた。

「久しぶりだね、今日はどうしたんだ」
「周太とね、オールしに来た」

いつもの調子で、正直に英二は答えた。
警察学校時代と同じように、深堀は人の好い笑顔を見せてくれる。

「今は名前で、呼んでいるんだね。相変わらず仲良いんだな」
「今の方が、もっと仲良いよ」

いいねと笑って、深堀は英二の姿を眺めた。

「山岳救助隊服って俺、初めて見た」
「俺もさ、卒配当日に採寸で着たのが、初めて見た時だよ」
「うん、宮田、なんか似合ってるよ」

他愛ない話をしていると、周太が廊下に出て来た。
なんだか困った顔で、こっちを見ている。
たぶん周太の事だから、この後の事を考えて気まずいのだろう。
けれど、深堀が笑ってくれた。

「宮田とオール飲みだってね。楽しんできて」
「あ、ん。ありがとう」
「俺さ、当番勤務の休憩にちょっと戻ったんだ。そろそろ行くよ」
「ん、お疲れさま。気をつけて」

ありがとうと言って行きかけながら、深堀が英二に笑いかけた。

「宮田、また雰囲気良くなったね。なんか頼もしくなった?」
「おう、さんきゅ」

きれいに笑って英二は返した。
けれど隣は、なんだか首筋を赤くしている。
かわいいなと思いながら、寮を出ると、英二は隣に笑いかけた。

「俺、正直に言っただけだから」
「…なんのこと」
「深堀に言ったことだよ。前にもオールしたところ、今夜も行くからさ」

言った途端に、隣は頬から額まで赤くなった。

「…っ」

前にオールしたところなんて、卒業式の夜の、あのビジネスホテルしかない。
懐かしくて切ない喜びの、あの記憶の場所。

あの夜は、ほんとうは無理矢理だった。

周太は自分の想いを、受け入れてくれた。
けれど本当は、周太は何も解っていなかった。
想いを受け入れることの意味、自分が何をされて、どんな変化が訪れるか。
何も知らないまま周太は、英二の告白に、素直に頷いてしまった。

周太は何も解っていない。そんなこと、英二は気づいていた。
今まで何人かの女の子と出会って、その機微は充分過ぎる程に知っている。

純粋なままで、端正に生きてきた周太。
想いもあまりに一途すぎて。恋愛に心を寄せる余裕も無いままに、純粋な孤独のままで生きていた。

キスが何かくらいは知っていただろう。
けれど現実に唇を重ねたことは、周太には無かった。
抱き寄せる、それくらいは解っていただろう。
けれど抱かれる事の、その先の意味も行為も、周太は何も知らなかった。

きっと泣かせることになる。そんなこと、英二には解っていた。
泣かせた後、傍にいる事も出来ない。それが周太にとって、辛いことだとも、本当は解っていた。
泣かせたくない。辛い運命の周太に、これ以上辛い想いをさせたくない。
そう思ってずっと、半年間を耐えていた。

それなのに、あの公園のベンチで聴いてしまった。
話してくれる黒目がちの瞳が、寂しげで胸に刺さった。

―そんなふうに、誰かに求められた事なんか、ないから。だから俺、解らないんだ

悲しかった。
こんなに求めている人間がいると、告げてしまいたかった。
もう会えないかもしれない、だから最後になっても想いを告げたかった。
想いだけでも告げられたら、それでいいと思っていた。
でも、諦められなくなった。

―お前の隣が、好きだ。明日があるか解らないなら、今、俺は、宮田の隣に居たい

受け入れられて、求めてもらえて嬉しくて。
もう再びは廻って来ないかもしれない、逢瀬の時が逃せなくなった。
無理にでも抱いて奪ってしまいたい、その罪の痛みでいいから、繋がりが欲しい。
そんな身勝手な想いも一緒に抱いて、あの夜、周太を引き擦り込んだ。

あの夜、覗きこんだ瞳は純粋で、きれいな覚悟が英二を見つめていた。
―きれいな笑顔で笑って欲しい
ただそれだけを英二に願って、周太は体を差し出してくれた。
周太の瞳にも体にも、欲望はかけらも無かった。

そして今もそのままに、純粋なままで隣に居てくれる。
首筋を赤くして途惑っても、心から信じて、隣で笑ってくれている。

―湯原の隣で、俺は今を大切にしたい。
 湯原の為に何が出来るかを見つけたい。そして少しでも多く、湯原の笑顔を隣で見ていたい

あの夜に告げた想いは、今も変わっていない。
そしてきっとずっと、命終わっても変えられない。

だってまだ出会って7ヶ月10日。
たったそれだけの間に、もうこんなに想いを重ねてしまっている。
思いが通じてからの1ヶ月と10日、もうこんなに想いが深い。
まだ1年も無い。けれどその前の22年間より、ずっと長くて、愛しくて、生きていた。

だからどうかお願い、俺に全部を負わせてほしい。
本当は今日だって、全てを代りに背負うつもりで、この隣の元へ帰ってきた。

全てを知ってそれで尚、犯人を許せないのなら。どうしても報復の銃口を向けるなら。
周太の拳銃を奪って、自分が犯人を射殺するつもりだった。

この隣と同じ射撃姿勢を身につけた、その自分ならきっと、代りに背負うことが出来る。
そう覚悟していた。だから今日は絶対に、間に合いたかった。

たとえ自分が罪に堕ちたって、この隣だけは、きれいなままでいてほしい。
だって自分はこの隣の、きれいで穏やかな居心地に、こんなに惹かれ安らいでいる。
だって自分は、生きる意味も誇りも全て、教えられたのは、この隣。
それを失ったらもう、生きている意味も無い。失うくらいなら自分は、罪でも何でも潔く犯すだろう。
そうしてきっとまた尚更に、この隣を独り占めできる。それで自分は構わない。

けれど願っていいのなら、ふたり穏やかに寄り添って生きていたい。
幸せに微笑んでくれる、きれいな隣を見つめていたい。
だから罪を犯させない、そうして自分もこの隣から、離れない方法を探し出す。

この隣を失う事だけは、自分は耐えられない。


卒業式の夜と、同じ場所でまた時を持てる。
あの朝のように淹れてくれたコーヒーは、前よりも穏やかな香がした。
こんなふうに、待っていられる。あの隣が幸せに微笑んで、扉を開けてくれること。

どれも当たり前の事かもしれない。
けれど、今日、失うところだった。
だから本当は、今、泣きたいほどに、幸せが嬉しくて、いとしい。

緊張と疲れにまどろんで、目覚めた視界に、黒目がちの瞳がいてくれた。
嬉しくて、微笑んでしまう。

「…見惚れてた?」
「…ん、みとれていた」

素直な返事が、幸せだ。
嬉しくて英二は、きれいに笑って、隣へと腕を伸ばす。
肩から抱き寄せて、微笑みながら隣に告げる。

「俺の方がね、いつも見惚れているって、知ってる?」
「…うれしい、」

なんだかとても、素直に答えてくれる。
その素直さが、嬉しい。

卒業式の夜は、無理に抱いて奪ってしまった罪悪感が痛んだ。
それでもなお、繋がれた喜びに酔いしれる自分は、あまりに身勝手すぎて哀しかった。

けれど今夜はもう、心から求めてくれているのが解る。
幸せで、嬉しくて、英二は微笑んだ。

「周太が嬉しいと、俺は幸せだよ」

温かなライトに佇んだ、この隣を見つめて見惚れる。
自分が贈った白いシャツを、今夜も着てくれている。
恥ずかしそうで、けれど幸せそうに、微笑んで見つめてくれている。

白は、周太に似合う。
白は汚れやすい。けれど洗い抜いた純白は、強く輝いて汚れない。

「周太は、きれいだ」

白いシーツに沈めて埋めて、そっと唇をおとす。
白いシャツに掌かけて、ゆるやかに奪って素肌を晒す。
ただ見つめてくれる、無垢に磨き抜かれた瞳が、いとしい。

「大好きだ周太、いちばん大切で、いちばん欲しい。だからずっと隣にいさせて」

なめらかな肌理、洗練された肢体。全てを心ごと抱きしめて、絡めて奪っていく。
やわらかな髪に顔をうずめて香りにおぼれる。
穏やかで爽やかな、この隣の香り。ずっと憧れて好きだった。

「俺にとって何よりも、きれいで惹かれるのは、周太だけ」

静かに顔をあげて、見つめる瞳が透明に艶めいて、こころ誘われていく。
すこし体を離して、見おろす貌にも、肌にも。初々しい艶めかしさが香って、惹かれて。
純粋な無意識の魅惑はきれいで、心も体も狂わされていく。

「何があっても離さない。約束だろ周太」
「…っん、」

抱きしめて、肌と心を重ねるたび、想いが熱く厚く募らされてしまう。
右腕の赤い痣を、唇でまた深く刻みつけた。
もう離せない。

「俺は絶対に約束を守る。だからもう、自分から離れていかないで」
「…離さないで。約束を、守って」

きっとずっと永遠に、幸せに浚って離さない。
きっとずっと本当は、浚われているのは、自分の全て。
だからもうずっと、浚われるままに、浚い続けていけばいい。

「必ず守る、絶対だ。だから俺だけを見て」
「…うれしい。ずっと見てる、だから…ずっと隣にいて」

いま目の前に横たわっている、純粋な心と体。
こんなにも惹かれて、いとしくて、求めて、心も体も溺れてしまう。

「大好きって言ってよ」

恥ずかしそうに、けれど周太は、きれいに笑った。

「…だいすき、」

この隣の為なら自分は、どんなことも捨てるだろう。
この隣の為になら、自分はどんなことでも迷わず選んでしまう。
そうしてずっと、この隣ばかり、自分は見つめて生きていく。

「俺の方がもっと、周太が大好きだよ」

黒目がちの瞳を見つめて、きれいに英二は笑った。


カーテンの向こうで夜が淡くなる。
抱きしめた温もりにまどろんで、英二は静かに目を覚ました。
腕の中の寝顔は、きれいで幼げで、初々しい艶が香っている。
やっぱり涙の痕はあるけれど、幸せに微笑んだ唇が、嬉しかった。

いつもなら瞳を開けてくれるまで、こうして見つめている。
けれど今朝は、そろそろ目を覚まさせてしまいたい。
微笑みの唇に、そっと英二は唇を重ねた。

「…ん、」

黒目がちの瞳が、ゆっくり開いてくれた。
きれいな瞳に、自分が映っているのが嬉しい。きれいに英二は笑った。

「おはよう、周太」
「あ、ん…おはよ…」

やっぱり気怠げで可哀そうになる、自分の責任なのだけど。
それでも英二は、小柄な体を抱いたまま、静かに体を起こす。
そのまま抱き上げて、英二はベッドから降りた。
動かされているのに、眠そうな黒目がちの瞳は、降りてくる睫に隠れてしまう。

墜落睡眠の癖が周太にはある。
眠ければ、すとんと落ちて寝てしまう。幼い頃からの癖だった。
だからこんなふうに、本当に眠かったら、簡単には目が開かない。

でもこんな時は好都合かもしれない。思いながら英二は、浴室の扉を開けた。
温かな湯を浴びても、やわらかな髪の頭がすこし動いたけれど、腕の中で周太は起きない。
いくらなんでもと、英二は可笑しかった。
そして、そこまで安心して頼られている事が、嬉しくて仕方ない。

服を着せる間も、周太は1度身じろいだくらいだった。
昨日、よほど緊張して疲れたのだろう。その分を今、安心しきって眠っている。

身支度を整えて、英二はザックを両肩に背負った。
それから眠ったままの周太を、抱え上げる。
まあ寝ててくれる方が好都合だけど。ちょっと笑って、英二は部屋の扉を開けた。

立川で乗り換えて座った時、周太は目を覚ました。
周太が凭れた肩越しに、英二は笑いかけた。

「おはよう、周太。よく眠れた?」
「…ん、おはよ、」

周太は微笑んだ。けれどすぐ、黒目がちの瞳が大きくなった。
それはそうだろうと、英二は可笑しくて仕方ない。
目が覚めて、いきなり電車に乗っていたら、訳が解らないだろう。

「…どういうこと?」
「奥多摩へ帰るとこだけど?」

涼しい顔で英二は答えた。
みるまに顔を赤くして、周太の唇が開いた。

「無断外出になるじゃないか俺…」

こんな時でも生真面目で、かわいい。
可笑しくて笑いながら、英二は周太に教えた。

「大丈夫。あの外泊申請書にさ、俺が一文加えておいたから」
「いつのまに、」
「提出に行く廊下でさ、周太ちょっと先輩と立ち話しただろ」

その隙にさらっと英二は書いていた。
途惑ったまま黒目がちの瞳が、困ってすこし怒っている。

「筆跡とか違う、」
「大丈夫、俺そういうの上手いから。担当官なんにも気づかなかったろ?」

英二は、思ったことしか出来ないし言えない。
けれど能力は要領が良くて、人を真似て身につけるのが上手い。
そんなふうに筆跡も、真似るくらい簡単にできる。
まして周太の筆跡は、警察学校時代に見せてもらったノートで、何度見たことだろう。

「なんて書き加えたんだ?」

すこし詰るように、隣が訊いてくる。
悪戯に目を微笑ませて、英二は自白した。

「明朝始発で、奥多摩の山岳訓練に自主参加する為、新宿駅近くで前泊します。って書いたけど?」

山岳救助隊の同期が来て、この理由が書かれていたら受理されるだろう。
そんなふうに英二は考えた。
それでも黒目がちの瞳はまだ、困ったままでいる。

「でも、そんな訓練だなんて無いのに」
「大丈夫、ほら」

英二は携帯の受信メールを周太に見せた。

From :国村光一
Subject:Re:報告と明日の訓練
本 文 :報告おつかれさま。午後なら俺は大丈夫、コース希望考えといて。運動神経は良かったよね?

「…国村さんって、前に話してくれたクライマーのひと?」

すこし周太は興味をもったらしい。
良かったなと思いながら、英二は頷いた。

「お互いの勤務の合間にさ、国村さんと組んで、短時間でも訓練するんだ。それに周太も参加してよ」
「でも登山靴、持ってきていない」

こんなふうに言ってくれるなら、周太は嫌じゃないのだろう。
大丈夫と笑って英二は、ザックを開いて周太に見せた。
周太の部屋から持ち出した、周太の登山靴が袋ごと納められている。

「…いつのまに?」

覗きこんだ周太の、黒目がちの瞳が、大きくなる。
微笑んで英二は、隣の瞳を覗きこんだ。

「参加してよ周太、そして山ヤの俺を見て。その後、新宿まで送らせてほしい」

周太の顔は赤いままで居る。
自分の知らないうちに話が進んで、気恥ずかしいのだろう。
それでも黒目がちの瞳はもう、嬉しそうに微笑んでいる。

「…ん、する。週休だし俺」

言って、口許を綻ばせてくれた。
この隣の笑顔が見られた。その事が英二は嬉しかった。

今日、周太は週休だと英二は知っていた。
昨日の今日、周太を独りでは過ごさせたくない。

昨日あの店へ独りで向かおうとした、周太の心の傷は浅くないはずだ。
出来るだけ早く、寛がせて癒してやりたかった。

昨日の、青梅署会議室と術科センターを繋げた電話。
周太は「奥多摩は晴れている?」と訊いた。
あの時の周太は、罪を犯す覚悟をしていた。そんな時に、奥多摩を気にした。

―こういう所に、生きられたらいいねー

田中の葬儀の時に、周太はそんなことを言った。
周太は奥多摩を気に入っている。だから英二は、周太を奥多摩へ連れてくる事が一番良いと思った。

車窓に稜線が見え始めた。
極彩色の夜明けが、窓いっぱいに始まる。隣は嬉しそうに窓の外を見た。
その顔が本当に嬉しそうで、英二は嬉しかった。

「周太、」
「ん、?」

呼びかけて、振り向いた黒目がちの瞳が、きれいだった。
体はまだ気怠げだけれど、随分元気になっているらしい。嬉しくて微笑みながら、英二は言った。

「夜はさ、あのラーメン屋にまた行こう?」
「ん、俺も行きたかった、宮田と一緒に行く」

きれいに周太は笑って頷いた。
それから、ふと物言いたげな顔になって、英二を見あげる。
どうしたと目で促すと、周太は訊いた。

「あのさ、どうやって俺を運んで来た?」

そんな質問していいの?英二は急に可笑しくなった。
たぶん訊いたら真っ赤になるだろう、思いながら英二は、正直に答えた。

「お姫さま抱っこだけど?」

だって俺ザック背負っているしねと、当然だろうと微笑んで見せた。
思った通り、首筋を赤くしながら、それでも周太は口を開いた。

「…ふしんしゃだって、よくつかまらなかったね」
「酔っぱらいの介抱だと思うだろ。昨夜は金曜で、オールで飲む人も多いしさ」
「え、?」

途惑った瞳で見上げられて、つい英二は意地悪をしたくなった。

「まあね、オールは飲むばっかじゃないけど」
「…っ」

ほら、もう真っ赤になった。
かわいくて、嬉しくて、仕方ない。ずっとこんなふうに、隣で見つめていれたらいい。
胸元の鍵に触れながら、そっと英二は微笑んだ。

河辺駅についたら、朝早いカフェに行こう。
オレンジ味の何かが、あの店にはあっただろうか。
そんなことを考えながら、英二は幸せだった。



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