萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

萬紅、叔暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-24 20:38:52 | 陽はまた昇るanother,side story
受け留めて、うけとめられて、




萬紅、叔暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」

奥多摩交番に戻ったのは14時だった。
待っていた救助隊副隊長の後藤に、英二は登山道の報告をしていく。
その横顔を見遣りながら、周太は給湯室へと立った。
備えつけの茶を淹れて、後藤と畠中に出してから英二へと渡す。
ひとくち何気なく啜って、後藤が声を掛けてくれた。

「おい、ずいぶんと旨いぞ。違う茶を使ってくれたのかい?」
「いえ、こちらにあった茶ですが」

旨いと言われるのは嬉しい。素直に微笑んで、周太は自分の分を啜った。
一緒の机に座る畠中も、湯呑を覗いて言ってくれる。

「うん、ほんとうに旨いな。なにか茶道の稽古でもしているのか?」
「いいえ、普通に淹れているだけ、なのですけど」
「ふうん、すごいな。ウチの奥さんにも教えてほしいよ」

そんな会話をしているうちに、後藤と英二が登山地図や資料を片付け始めた。
もう終わったのかな。思って眺めた周太を、後藤が楽しげに休憩室へと誘ってくれた。

「おい、呑むぞ。君は酒は強いのかい?」
「呑む機会は少なかった方だと思います」
「へえ、最近は警察学校では、飲みの練習しないのか?」

話しながら休憩室へ上がると、後藤が嬉しげにウィスキーボトルを出した。
ミズナラの樽で醸造された、山梨県白州の水の酒だと教えてくれる。

「俺も今日は、ちょうど上がりだから」

そう言いながら、周太には水割りで渡してくれた。
車座に座って、乾杯と後藤が笑ってくれる。

「日原集落の水場のな、湧水で割ってある。飲んでごらんよ」
「はい、頂きます」

促され、ひとくち啜ってみると口当たりが優しい。
昨日飲んだ水も、やわらかくて旨かった。
あのブナが抱いた水なのかな、思いながら周太は微笑んだ。

「おいしいです、」
「そうだろう?」

嬉しそうに後藤は笑いかけてくれた。
後藤と英二はロックで啜っている、英二はウィスキーには慣れていた。

「宮田にはこれで、何度目かな」
「雲取山の訓練後が最初でした、そのあと国村と2度ほど頂戴したので、これは4度目です」
「おい、まだそんなもんか。もっと呑んでいると思ったよ」

国村と英二が相手なら、後藤も結構呑む方なのだろうな。
そう眺めていると、後藤が周太に訊いてくれた。

「日原の秋は、どうだったかい?」
「はい、目の底が染まりそうでした」
「そうか、そんなにか。日原は良いだろう?」

そんなふうに話していると、後藤の携帯が鳴った。ちょっとごめんよと出て、少し話すとすぐに切る。
そのまま後藤はもう、ミズナラの酒のロックを作り始めた。

「今すぐな、俺の酒仲間が来るよ」

5分ほどして現われたのは、吉村医師だった。
ミズナラの酒を受取りながら、吉村は微笑んだ。

「往診の帰りに寄れと、きのう連絡をくれたんですよ」
「うれしいです、俺もね、先生と飲みたかったから」

楽しそうに英二が笑う。
そうだろうと頷いて、後藤は吉村に笑いかけた。

「だってなあ、吉村も一緒に飲みたかっただろう?」
「はい、そうですね。ご一緒出来て嬉しいです」

仲良い雰囲気がいいな。
思いながら周太がコップを啜っていると、英二が口をひらいた。

「副隊長と先生は、いつから飲み仲間ですか?」

そうだなと、後藤と吉村が顔を合わせ、笑いあった。

「吉村とは、俺が最初にここへと、赴任した時からだな」
「そうですね、私の実家が、こちらですから」

笑って答えた吉村は、ひとくちグラスを傾けた。
そして微笑んで、英二と周太に教えてくれる。

「いつも実家に戻るとね、奥多摩を登っていました。その登山計画を提出したのが、きっかけです」
「俺がな、吉村に質問したんだよな。初対面から毎度だったな?」

懐かしそうに目を細めて、後藤が教えてくれる。
そうでしたと吉村も懐かしげに笑った。

「はい、提出する度に訊かれました『この山の特徴は何だ』そんなふうにね、」
「そう。蔵王と奥多摩では随分と山が違うだろう?興味があってなあ」

後藤は山形蔵王の出身だと、周太も英二から聞いていた。
高校時代から山ヤだった後藤は、高卒で警視庁警察学校に進んでいる。

「吉村は医科大付属病院で助教授、今は准教授か?に昇進した忙しいころだったな」
「はい、精神的に一番疲れた頃ですね。それで山へとよく登ったものです」

吉村が助教授に昇進したのは、30歳頃だと周太は聴いている。
それは異例の昇進だったろう。その異例にふさわしい優秀さと実績を、吉村は持っている。
けれど、そうした異例は精神的に疲れる。射撃特練として異例の扱いを受ける周太には、それが解る。
医学の世界は厳しい、今は穏やかに微笑む吉村も、当時は辛かっただろう。
世界は違うけれど、自分も警察官の世界で、辛い時がある。
すこし吉村と自分は似ているかな、思いながら周太はコップを啜った。

「では30年来の飲み仲間ですか?」

訊いた英二のグラスに、後藤は勝手に酒を注ぎ足している。
ウィスキーの瓶を置いて、そうだなと後藤が笑った。

「もうそんなになるか。昔はここでな、下山して立ち寄った吉村と飲んでいたよ」
「まだ私もね、警察医ではなかったんですよ、当時は。そのくせ、ここで大きな顔して飲んでいました」
「そうそう、アウトローな医者だったな、吉村は」

長年の友人で飲み友達、そういうのは楽しそうだった。
国村と英二は、そういう友人になっていくのだろう。
そんなふたりを見ていくのは、きっと楽しい事だろうな。
そんなことを考えていると、吉村が笑いかけてくれた。

「湯原くんは、酒は好きですか?」
「あ、嫌いではないです。でもすぐに赤くなります」

そう答える端からもう、たぶん赤いだろう。子供っぽくて少し困るなと思う。
ただでさえ元来が童顔で、それも警察官としては不似合いだと思っている。
それを警察学校入校前、英二に「かわいい」と指摘されて嫌だった。

それであの後すぐに、周太は床屋に行った。
入校までには短髪にする規則だった。けれどそれ以上に、舐められたことが悔しかった。
大人らしく見えるよう、男らしくみえるよう、とにかく切ってくれと注文した。
床屋の主は困りながら、前髪かなと言ってバッサリと、思いきり切ってくれた。
すこし苛々を治めて帰宅すると、母に可笑しそうに笑われた。

「ほんと似合わないわね。なによりね、肩肘の無理って逆に子供っぽいわ」

似合わないなら逆に結構、そう思っていた。けれど今はもう、母の言葉の意味が解る。
周太と間逆のやり方で肩肘張っていた、英二の姿を周太は見つめたから。

警察学校での日々、周太の隣にはいつも気がつくと、英二が佇んで笑っていた。
周太の隣で英二は生来の率直さを認めた。そして息をするごと素直になって、大人びて警察官へと成長していった。
そして周太も気付かされた。等身大の自分を認める方が、本当の意味で大人だということ。

そう気付かされたころ、きれいな笑顔で英二に言われた「前髪ある方がさ、似合うよな」
そうして前髪を長く戻した。その前髪を上げると、思ったより貫禄が出て大人らしく見えた。
それに生真面目さと能力への自信が補って、警察官の体裁がとれている。

でもプライベートでは、前髪はおろしたままにする。
自分に似合う姿で、無理なく過ごすことが良いなと、素直に今は認められる。
ただよく学生だと間違われるけれど。それはそれでいいか、そんなふうに思っている。
でも酒でも照れる時でも、赤くなりやすいのは困る。思って周太は訊いてみた。

「先生、俺、酒以外でも赤くなりやすくて、困るんです」
「青ざめるより赤くなる方がね、健康にはずっと良いんですよ。だから湯原くんは良いお酒ですね」

グラスを傾けながら、吉村医師が教えてくれた。
そうなのかと自分のコップを見ていると、そっと吉村が微笑んだ。

「雅樹もね、赤くなりやすい男でした」

「雅樹」は吉村の次男の名前だった。彼は医学部5回生の時に、山での不運な遭難事故に亡くなっている。
山で死んだ息子が、生きるべきだった人生を見つめたい。
その想いに吉村医師は故郷奥多摩で、山の警察医になった。
自分と同じように、山ヤで医学を志した息子。吉村医師の愛惜が深いことは当然だった。

そして雅樹と英二は似ている。そのことを周太も、吉村と同じように感じる。
周太は吉村医師を見上げて、微笑んだ。

「雅樹さん、そこは俺と似ているんですね」
「そうですね、雅樹も君と同じように、純情な男でした」

そんなふうに笑いながら、吉村医師は周太を見てくれた。
うれしいなと思いながら、でもと周太は口をひらいた。

「でも先生、英二も純情ですよ?酒も強いし赤くならないけれど」
「そうだね、彼はどんな時も、赤くならない。いつも堂々と笑っていますね」

そう答えてから、ふと吉村医師が首を傾げ微笑んだ。

「湯原くん、彼をね、名前で呼べるようになったのですね」

あっ、と周太は気がついた。
今までずっと「宮田」と呼んでいた。
ようやく名前で呼べるようになったのは、つい昨日の昼前からだった。
それなのに今はもう、自然に自分は「英二」と呼んでいる。

気がつくと、やっぱり気恥ずかしい。
いま首筋が熱くなるのは、きっと酒の所為だけではないだろう。
気恥ずかしい、けれど、この医師には話せたらいいと周太は思った。

―世間や法が許した男女の仲であっても、その真実は醜いことは多くある
 それは警察医としての経験からも、学んだことです。想いあう心の美しさは、性別など問題ではない
 宮田くんと湯原くんが寄り添う姿は、とてもきれいでした
 だから私には解ります、君たちの心の繋がりは、とても美しいです

警察官で男同士。そんな自分達の関係は、世間から見たら受容れ難くて当然だと解っている。
それでも吉村医師は真直ぐに、自分たちを見つめて頷いてくれる。
自分はこの人が好きだ、周太は微笑んだ。

「先生、俺、ずっと本当は、呼びたかったんです」
「…うん、そうだな、」

微笑んで吉村医師は頷く。その目は温かくて穏やかに広い。
ああ、やっぱり解ってくれる。
解ってもらえる喜びが、うれしくて。うれしさを想いながら、周太は言葉を続けた。

「ずっと大切で、それを伝えたくて。けれど俺は、名前で呼ぶことも出来なかった。
 13年間ずっと、人と関わることを避けてきました。だから、どうやって想いを伝えていいのかすら、解らなかったんです」

「うん、そうだな…辛かったな」

静かな目が温かい。
その温かさに押されるように、周太は微笑んだ。

「でも昨日、やっと呼べました。それからずっと俺、幸せです」
「うん、良かった」

うれしそうに吉村医師が笑う。
そうして長い指に持ったグラスを、周太のコップに軽く当ててくれた。

「君はとても勇気を出して、名前を呼べました。そのことが私には解ります。
 そして、そんな君は、本当にすばらしい。
 相手を大切に想う、そんな気持ちから生まれる勇気は、とても美しいと私は思います」

楽しそうに笑って、吉村の目が微笑んだ。

「君の想いはね、きっと宮田くんには伝わっています。だってほら、」

そっと吉村は英二を見、周太に微笑みかけてくれた。
振返って見た英二の横顔は、明るい楽しさが眩しく見える。
きれいだなと見惚れた周太に、吉村医師が笑いかけてくれた。

「こんなふうにね、彼を笑わせ輝かせているのは、きっと君の勇気です。
 だからどうか、自信を持って寄り添って下さい。君達の繋がりは、本当に素晴らしいのだから」

胸を張っていいんだ。
そう言ってくれている。そのことが本当に、うれしい。
きれいに笑って、周太は頷いた。

「はい、ありがとうございます」

頷く周太を見て、吉村医師は微笑んだ。
そしてグラスに口をつけ、懐かしそうに目を細めた。

「そんなふうに素直にね、雅樹も頷いてくれる子でした」

周太は吉村医師を見あげた。その目は穏やかで、懐旧の切なさを含んでいる。
きっと吉村にとって、雅樹は本当にかけがえのない存在だった。
それが周太には解る。自分も同じように、父の姿をどこかに追い求めたくなるから。

さっき聴いたばかりの、医科大付属病院で当時の助教授に就任した辛い日々。
きっとその頃はもう、幼い雅樹を連れて山で過ごしたのだろう。そんな時間は吉村にとって、安らぎだったに違いない。
警察官だった父も、幼い自分を連れて山で過ごしていた。
父と吉村は同じ想いで、息子を連れて山を歩いたのかもしれない。

自分なら、どんなふうに父に、答えたいだろう?
すこし考えてから微笑んで、周太は吉村に言った。

「先生、大好きな尊敬する人にはね、素直に頷きたくなるんです」

吉村医師の目が大きく、そして和やかに笑った。
懐かしさの気配を残しながらも、温かな眼差しで吉村は微笑んだ。

「ありがとう、湯原くん。
 雅樹と過ごした時間は、私の安らぎでした。そんな彼に、そう想われたなら嬉しい。
 だからきっとね、君のお父様も嬉しくて、いつも安らいでいた。そう私は思います」

本当はずっと罪悪感を抱いている。
父は唯一人だけで、哀しい殉職に斃され死んだ。警察官の任務に負わされた全てを、決して家族に負わせることも無く。
そんな父の哀しみも知らず、大切な父を黙って死へと追いやってしまった。そんな罪悪感が痛かった。
それでも自分だって、父を少しでも喜ばせ安らがせていた。本当にそうであったなら、どんなに嬉しいだろう。

吉村が、ふっと微笑んで言ってくれた。

「私は息子を亡くし、失われた息子の時を追い掛けて生きてきました。
 そして君は、亡くされたお父様の時を辿って生きている。
 そんなふうに私と君は、逆の立場から、同じ目的を持って生きてきました。
 だから湯原くん、私達はお互いに、お互いの大切な人の想いを伝えあうことも、きっと出来ます」

それは周太も思っていたことだった。そう同じように吉村も想ってくれる、それが嬉しい。
吉村に会ったのは3度目になる。けれど吉村は、周太が父と向き合う手助けをしてくれている。
自分も吉村を、少しでも手助け出来るのだろうか。そうなると良い。
思い微笑んで、周太は答えた。

「はい。…先生、きっとね、先生の様なお父さんは素晴らしいです。俺は息子の立場だから、そう解ります」

幸せな微笑みが、吉村医師の顔に咲いた。

「はい、…うれしいですね。ありがとう、湯原くん。私も父だから解ります、君のような息子は本当に素晴らしいです」
「ありがとうございます、」

そう笑いあい向き合って、ゆっくりとミズナラの香の酒を楽しんだ。

奥多摩交番から河辺までは、代行運転される吉村医師の車に送ってもらえた。
飲む約束だったから、予め吉村は代行手配をしていたらしい。河辺までの20分程を、3人のんびりと会話して過ごせた。
改めて2人の顔を見て、吉村が微笑んだ。

「お帰りなさい。二人の楽しそうな顔が見られて、良かったです」
「はい、おかげさまで天気も恵まれました」

笑って英二が答えると、吉村がすこしだけ心配そうな顔をした。

「でも、初雪が雲取山では降ったでしょう?」
「大丈夫です、ちょうど座って休憩していました」

明るく笑う英二に、ほっとしたように吉村が言った。

「そう、なら良かった」

心配してくれている、それを英二も周太も知っている。
山で亡くした息子を英二に重ねる、そんな吉村は不安なのだろう。
自分と吉村は、それも同じなのだと周太は思った。

―まだ警察医ではなかったんですよ、当時は。そのくせ、ここで大きな顔して飲んでいました

さっき吉村はそう言っていた。
吉村は警察医になってから、奥多摩の山に登っていない。そういう事ではないだろうか。
それどころか吉村は、登山自体をずっとしていない。おそらく、息子の雅樹を失った15年前からずっと。

その気持ちは周太には解る。自分も父を失って以来、山に登っていなかった。
けれど英二と13年ぶりに山へ登った。そこで向きあえた父の記憶は、温かくて幸せだった。
痛みの苦しみから無理に閉じ込めた記憶、けれど真直ぐ見つめた時、すこしずつ自分の時が動いている。
吉村医師もきっと、息子の死と共に時が止まっている。
自分が時を動かし始めたように、吉村医師も時が動いたら、また少し痛みは楽になれるのだろう。

自分がこんなことをするのは、おこがましいかもしれない。
けれど山への想いだけでも、すこしだけ吉村に訊いてみたい。
周太は吉村医師へと微笑んだ。

「先生、俺、山でね、たくさんの木に会って来ました」
「それは良かった、湯原くんは樹木が好きなんですね。どの木が特に惹かれましたか?」

具体的な返事が吉村から返される。
ああ、この人もきっと山が好きなんだな。そう思いながら周太は答えた。

「ブナの木がきれいでした。それからナナカマドは実家の庭を思い出せて、懐かしくて」
「奥多摩のブナもなかなかでしょう?東京の水を抱いてくれている。ナナカマドも赤色が良いでしょうね」

吉村は奥多摩の植物に詳しいのだろう。そして語る吉村は楽しそうだった。
この人は本当は、山に登りたい。そんなふうに感じながら周太は話していった。

「落葉松の黄色が、陽に透けると黄金みたいでした」
「そうか、うん。あれは本当にきれいだな。山の空も良いだろう?」
「山の夜明けを見ました、豊かな紅色の雲が、きれいでした」
「きれいだったでしょう?雲取山荘の夜明けは、いいものです」

吉村は楽しそうに山の話をしてくれる。
ほんとうは山に登りたい。そんなふうに周太には感じられた。

それでもきっと、山で息子を死なせた罪悪感が、吉村医師を山へ向かわせないでいる。
自分が山ヤだったから、息子を山ヤに育ててしまったから。だから息子は山で死んだ。
そんな悲しい「…だったから」に縛られて、吉村医師は自身の、山への想いを止めている。
そうして、大切なひとを失った人間は、その瞬間から時間が止まる。

そういう人間は、大切なひとの記憶と向き合わなくては、新しい時間へは動けない。
その死へ抱いてしまう罪悪感をすら、肯定して飲みこめないと心は進めない。
そんなふうに、新しい時間へと動きだせないことは、苦しい。

吉村は英二に息子を見つめ、息子へ注ぎたい真心を英二に向けてくれる。
そうして英二が大切にする周太の、父親の殉職に苦しむ想いまでも、穏やかに受け留めてくれた。
それくらい吉村医師は、息子と英二に懸ける想いが深い。
だから、英二になら、吉村を息子の記憶へ向き合わせることが出来るかもしれない。

英二なら、山で死んだ雅樹の代りに吉村をまた山へ登らせて、山の安らぎの時を与えられるかもしれない。
そうして新しい時を動かして、吉村の痛み哀しみを少しでも楽に出来ないだろうか。
英二と共に山へ登った周太が、父の記憶と一緒に歩くことで時を動かし始めたように。
そう周太が思っていると、隣から英二が吉村医師へと笑いかけた。

「吉村先生、俺と約束をしませんか?」
「宮田くんと約束ですか、楽しそうですね」

英二の「約束」という言葉。
周太は気がついた、英二は自分と同じ考えを持っている。
今まさに、英二は吉村を山へ連れて行こうとしている。その想いで見上げた隣は、微笑んで言った。

「俺と一緒に、山に登りにいく。その約束をして下さい」

やっぱりそうだ。
この隣も自分と同じように、吉村医師の心に気付いていた。
吉村の、自分が山ヤだったから息子を死なせたという罪悪感。そして山への想いと、山へ向かうことへの罪悪感。
その想いは周太には解る。

けれど先生、信じてあげてほしい。
雅樹さんはきっと、先生が山ヤだったことを誇りに思っている。
昨日今日、山で寄り添った父の記憶。そして自分が想ったことは「父の息子で良かった」という誇りだった。
だから解ってあげてほしい、先生が山で安らぐことを、きっと雅樹さんは心から望んでいることを。
警察官の任務に尽くし、山を愛し安らいでいた、そんな父をこそ自分が、こうして誇りに想うように。

そんな想いに見つめる周太の隣で、英二は穏やかに吉村へ笑いかけた。

「この奥多摩には、俺がまだ登っていない山がたくさんあります。けれど救助隊員として一度は登りたいと思っています」
「…はい、」

相槌を打つ吉村の目はどこか切なげに見えた。その切なさごと英二なら、きっと受けとめてしまうだろう。
そう信じて見つめる隣で、きれいに笑って英二が言った。

「でも俺はまだ経験が浅い、初めての山への単独登山は難しいです。
ですから、奥多摩をよくご存知の先生と、一緒に登って勉強させて頂けたら嬉しいです」

「奥多摩の山を、ですか?」

ゆっくりと聴き返す吉村の気持ちが、周太にも解る。
奥多摩の山は、吉村が雅樹を連れて登った山ばかりだった。
奥多摩の山を吉村が登ることは、雅樹を山ヤに育てた記憶と、正面から向きあうこと。
それは辛いかもしれない。
けれどきっと、英二を山ヤとして育てることは、吉村の救いになる。
正しい山での知識を伝えることは、山岳救助隊員である英二を、山の危険から救う事になるから。
山で雅樹は死んだ、けれど山で英二を生かすことで吉村の心は救われる。そうして新しい時間は動き出すだろう

きっと周太と同じ想いでいる隣は、微笑んで吉村医師に言った。

「先生、俺は一人前の山岳救助隊員になりたいです、だから奥多摩の山を知る必要があります。
奥多摩を俺に教えて下さいませんか?俺が山ヤとして生きるための、手助けを先生にお願いしたいんです」

「私が、君が生きるための、手助けを?」
「はい、山ヤの警察官として山で生きていく、その為の手助けです」

微笑んで吉村は、英二の目を真直ぐに見つめた。

「とても温かい約束ですね。はい、約束をさせてください」

見つめる吉村の目が明るく、そして底の方に涙の気配があった。
きっと吉村は今夜、涙を流すことが出来る。それがどれだけ嬉しいか、周太には解る。
良かったと微笑んだ周太の隣で、きれいに英二は笑った。

「また診療室で、登山計画のご相談させて下さい」

河辺駅で吉村と別れて、ビジネスホテルに戻った。
またいつもの調子で、周太は先に浴室へと入れられてしまう。
本当にいつも、英二は優しい。申し訳なくて、けれど嬉しくて。いつも幸せが温かい。

ふりそそぐ湯と湯気のあわいに、肌の色が浮かびあがる。
昨日の朝この浴室で見たとき、全身に赤い痕が残されていた。それらは一昼夜で消えている。
けれど左肩を見ると、淡く赤い痣が残されている。
そうして右腕には、深い紅色の痣が刻みこまれていた。

そっと周太は右腕の痣にふれた。
ここにいつも、唇が寄せられて想いを刻まれている。
きっとこの痣はもう、消えない。そんな想いはすこし切なくて、甘やかに温かい。
このさきずっと、ここに刻み続けてほしい。もうそう想ってしまっている。

髪を拭いて着替えると、さっぱりした気持が心地いい。
浴室の扉を開けると、ふっとコーヒーの香が頬を撫でる。
すっきりとした長身の背中に、周太は声を掛けた。

「お先にごめん、英二」

静かに振向いた顔が、うれしそうに笑ってくれる。
大きな掌は、持っていたマグカップを、サイドテーブルに置いた。

「周太、これ飲んでいて?」
「淹れてくれたの英二?」

この1ヶ月半で英二は、すっかり山に慣れていた。けれど英二こそ本当は、疲れていても不思議ではない。
久しぶりの登山をする自分を連れて、巡視任務を務めながらの登山。きっと気遣いも多かっただろう。
それなのに、自分の為にコーヒーを淹れてくれた。
うれしくて周太は、英二に笑いかけた。

「ありがとう、」

ありがとうの言葉に、英二は微笑んでくれた。

「風呂、行ってくるから。のんびりしていて、周太」

浴室へと向かう背中は、無駄がなく引き締まって、広やかに頼もしい。
この隣は、1ヶ月半で本当に大人になってしまった。

山ヤの警察官として、向き合う自然と人の生死の現実。
そしてなによりも、周太の背負う運命を、望んで背負う強い意思。
そうした厳しさの中から、頼もしい温もりと静けさが、英二に備わった。

周太はカウンターへ立った。
そうしてドリップ式のインスタントコーヒーをセットする。
ゆっくりと、湯を注いで淹れる湯気は、いつもより香り高かった。
注ぐ湯を見つめながら、周太の唇がほころんだ。

「ほんとうにね…きっと、想ってくれるよりも、愛している…」

ひとりごとを呟いて、そっと周太は赤くなった。
一昨日の国村が言った「その宮田の一杯はさ、特に旨いんじゃない?想いをこめてあってさ」
これはその通りのことだ、そう気がついて気恥ずかしい。

けれど、そうなら尚更、飲んでもらえたらいいな。
そうマグカップを見つめて、サイドテーブルに周太は置いた。
英二が淹れてくれたコーヒーのマグカップを抱えて、周太はソファに座りこんだ。
すこしずつ啜ると、温かさがうれしい。

マグカップの縁越しに、自分が淹れたコーヒーが見える。
それが気恥ずかしくて、けれどなんだか幸せだった。

それにしても国村は、いつも周太の盲点を突いてくる。
いつも気恥ずかしい想いをさせられて、けれどそれが本当だなと頷かされる。
なんだか不思議なひとだな、そんな想いにまた父の言葉が寄り添った。

「周、自然にはね。不思議なことが沢山あるよ。それはきっとね、人間も同じ」

国村は山ヤで人間で、そして自然のルールに生きている。
そういう国村には、不思議が沢山あっても当然なのかもしれない。
このあと夜には、一緒に国村と呑むことになっている。
きっとまた、そんな国村の不思議を見るのだろう。
ちょっと楽しみだな。そう想いながらコーヒーを啜っていると、浴室の扉が開いた。

振向くと、髪を拭きながら英二が佇んでいた。
白皙の頬があわく紅潮して、なんだか艶っぽい。
きれいだなと思った途端に周太は、気恥ずかしくなってしまった。
そんな周太に、どうしたのと目で訊きながら、きれいに英二は笑った。

「周太のコーヒー、うれしいな。ありがとう」

言われて、サイドテーブルのマグカップを周太は見た。
国村に指摘された通りに、淹れてしまったコーヒー。なんだかもう、いろいろ気恥ずかしい。
それでも周太は、なんとか頷いた。

「…ん、」

頷いた隣に、英二が座ってくれる。
きれいな隣は長い腕を伸ばして、持ったマグカップに口をつけた。
ひとくち啜って、やさしく微笑んでくれた。

「旨いよ、ありがとう」

ほっと香に寛いで、長身の背をソファと壁に凭れさせた。
いつものように、穏やかで静かな空気が隣に生まれる。
この空気が好きだ、そっと周太は息吐いて微笑んだ。

気持ちが寛いだところで、周太は英二に言いたい事を想いだした。
けれど自分が、言っていいのだろうか?
そう考えていると、どうしたと英二が目で優しく訊いてくれた。
優しい目が嬉しくて、言っていいのかなと思いながら、周太は唇を開いた。

「さっき、吉村先生、約束うれしそうだった」
「山に行くこと?」

やっぱりすぐに解ってくれる。
うれしいなと思いながら頷いて、周太は微笑んだ。

「英二の笑顔は人を笑顔にできる、すごいな」

きれいに英二は笑って、周太に言ってくれた。

「周太もだよ、」
「俺も?」

俺が、なんだろう?
解らなくて首かしげていると、軽く頷いてくれながら、英二が言った。

「周太が笑うとさ、俺は一番うれしいから。」
「…いちばん?」

うれしいの「一番」
そういうのは、言われたら、本当にうれしいとだろうと思う。
思いながら見上げる先で、英二はきれいに笑ってくれた。

「周太の笑顔は、俺を幸せにしてくれているよ。いつもそうだ」

自分の笑顔が、この隣を幸せに。
そう出来たら良いな、ずっといつも思っていた。
それをこんなふうに告げてくれて、受け留めてもらえているのなら。
確かめたくて、周太はそっと訊いてみた。

「俺が、英二を…幸せにできているのか」
「そうだよ、周太が一番、俺を幸せにしてくれてるよ。だから、周太が笑ってくれた時、俺は一番いい笑顔になってる」

自分が、いちばん英二を幸せにしている。
ほんとうに、ほんとうに、ずっとそうしたいと願っていた。

出会って、隣にきてくれてから、ずっと。自分ばかりが、幸せを与えられている。
そんな想いが本当は、後ろめたくて申し訳なくて。
けれど与えられる幸せは、あんまり温かくて、うれしくて離れられなかった。

だから、自分だって英二を幸せにしたい。
それが出来たなら、本当にずっと隣に居ることが許される。そんなふうに想っている。

周太の瞳から、涙ひとしずく零れおちる。
涙のままで周太は英二を見つめて、きれいに笑った。

「ありがとう、英二。…でも、俺の方こそ、英二が笑ってくれると、本当に幸せなんだ」

見つめる想いの真中で、きれいに英二が笑ってくれた。
英二の端正な唇が、うれしそうに静かに、名前を呼んでくれる。

「周太、」

静かに抱き寄せられて、唇に唇でふれられる。
かすかなコーヒーの香と、ふれてこぼれる吐息が穏やかだった。
そっと離れて、英二は周太の瞳を覗きこんでくれる。

「ずっと一緒に笑って、一緒に生きよう?そうしたらきっと、俺たちは幸せになれるから」

ずっと、一緒に笑って、一緒に生きて。
ほんとうに、そうしていたい。だってもう自分は決めているから。
唯ひとり、唯ひとつの想い。愛している、この隣。
この想い、この想う人、その笑顔。それを守るためになら、自分は何でも出来る。
それをこんなふうに、想う人から告げられて。幸せな想いが温かい。

ずっと孤独に生きるのだと、殉職した父の軌跡だけに13年を見つめていた。
けれどこうして、温かな隣が想いをくれた。全てを掛けても隣にいると、静かに強い約束をくれた。
そしてここへ連れて来て、13年の冷たい孤独と記憶まで、温かな想いに還元してみせた。

きっとずっと一緒に、幸せになれる。だって愛するこの隣は、約束は全力で守ってくれるから。
温かい涙が頬をこぼれる、幸せに周太は微笑だ。

「ん。英二と一緒に、幸せになる」
「そうだよ周太、ずっとね、一緒だから」

微笑んで告げてくれる、やさしい唇がうれしい。
その唇がそっと、額へ頬へと口づけをくれた。
気恥ずかしさに、なんだか微笑んでしまう。うれしくて周太は、そっと隣を見あげた。
見上げた顔は、端正だけれど温かい。きれいな切長い目は、やさしく笑っていた。

自分も、ふれてもいいの?
ふれていいのなら、想いを自分も返したい。

静かに周太は身を起こすと、隣の両肩へと自分の両掌を置いた。
今は体がきちんと、想いの通りに動いてくれる。
それも嬉しくて周太は微笑んで、端正な顔を正面から見つめた。

「周太、」

きれいな低い声が、名前を呼んでくれる。
その声が、トーンが、表情がうれしくて、幸せで。幸せに微笑んで、周太は英二の額にそっとキスをした。

笑って一緒に生きて幸せになる。
この約束は自分達には、きっと容易いことではない。

父の軌跡を追う、その歯車はもう回りだしている。辿りつく所までは、歩き続けて見つめていく。
そのときも自分は、英二とは離れない。この隣は、自分と一緒に見つめたいと願ってくれる。そう、もう、知っているから。
それにもう自分は信じている。きっと父は、冷たい真実の底にさえ、温かな想いを遺している

そうして父の真実と想いの、全てに向き合うことが終わる、その暁がくるだろう。
その暁にこそ、父の殉職の瞬間から止まっている、自分の時が廻りだす。
その暁の瞬間から、本当の自分の人生を、自分は生き始めることが出来る。

本当の自分の人生。そこに立った瞬間に、必ず自分は全てを選ぶ。
唯ひとつの想い、唯ひとりだけ愛する、この隣。
その唯ひとりへの想いのためだけに、全てを選んで自分は生きていく。

凭れかける肩が、あたたかい。
頬にふれるカットソー。その布を透しても温もりと、頼もしさが伝えられる。
文庫本を持ったままの左掌。そこに重ねられる大きな左掌は、温かで頼もしくて安らいで。
この隣に贈られたニットの肩を、抱き抱えている腕。

「…ん、」

こぼれた吐息と一緒に、すこしだけ睫があがる。
睫のむこうには、端正な横顔が手元を見つめていた。
なんだろうなと緩やかに視線を動かすと、文庫本を開いている。
警察学校の寮で、こんなふうに本を読んでの眠りが、幾度かあった。
なんだか懐かしい。ふたりの記憶に安らいで、周太はまた転寝にまどろんだ。


雲取山頂ほどではないけれど、河辺駅の夜も寒かった。
ショートコートの襟元でマフラーを、そっと長い指が巻き直してくれる。
きれいな指がときおり、あごにふれる

「ほら周太、このほうが温かいだろ?」
「ん、巻き方で変わるものなんだな」
「だろ?」

かまってもらえるのは、うれしい。
そう自分が想うだなんて、とても不思議だと周太は思う。
ひとりで良いと決めていた頃は、構われることは苦痛だった。
けれど、この隣には、たくさん構ってほしいなと思ってしまう。
なんだか随分と自分は、わがままになった。そんな気がして、ちょっと申し訳ない気持ちにもなる。

「周太。ほら、おいで」
「え、」

ひきよせられて、背中から腕回されて包まれた。
髪にふれてくる頬を見あげると、きれいな切長い目が笑いかける。

「な、あったかいだろ?」
「…ん、あったかい、ね…」

長身の英二に包まると、小柄な自分は確かに温かい。
でもここは駅前で、しかもこれからあの、国村がくる。
こんなところを見たら、さぞいい玩具にされて、困らせられるだろう。
けれど温もりが幸せで。なんだか離れられない。
ちょっと困ったな。思いながら見上げると、やさしく英二が微笑んだ。

「周太、俺ね、今すげえ幸せだ」

やさしい、きれいな、幸せそうな笑顔。
こんな顔されたら、ちょっともう拒めない。想う人の笑顔には、やっぱりちょっと逆らえない。
見つめる端正な顔の頭上に、星の輝きがこぼれ始めている。
よく晴れた夜、紺青透明な空のしたで、白皙の頬がきれいだった。
このひとの為なら、気恥ずかしいのも平気。
って、思えるほど強くなれたらいいな。そう思いながら気恥ずかしく微笑んで、周太は英二を見あげた。

「星、きれいだね」
「ああ。よく晴れてるから、冷え込むかもしれないな」

そんなふうに話していると、ミニ四駆が目の前に止まった。

「よお、お待たせ」

窓を開けた運転席から、からっと国村が笑った。
国村の細い目が、おかしそうに周太の瞳に笑いかける。
なんだか「仲良さそうで良かったな、ねえ?」なんて声が聴こえそう。
そう思っている頭上から、英二は国村に笑いかけた。

「よお、」

笑って声かけて、すこし呆れたように英二は微笑んだ。

「呑みに行くのに車で、いいのかよ?」
「ああ、代行頼んであるからね、」

笑った国村の向こうから、きれいな瞳の笑顔が気恥ずかしげに覗いた。
きれいな瞳は明るくて、彼女には暗さがない。
国村の彼女なのかな。思いながら周太が見ていると、英二が笑いかけた。

「美代さん、ですね」
「はい、美代です。はじめまして、」

そんなふうに挨拶をしながら、四駆の後部座席に乗り込んだ。
運転席の背中越しに、いつもの口調で国村が声をかけてくる。

「ちょっとしたさ、ドライブの後に呑むからね」
「おう、任せるけど。どこまで連れて行ってくれるんだ?」
「俺んちのね、河原」

河原が「俺んちの」なんだ、ちょっと周太は驚いた。
河原まで所有地に持つことは珍しい、たぶん国村の家は相当に古い旧家だろう。
隣で英二は笑った。

「河原だったらさ、焚火できるからだろ?」
「そ。察しがいいね、宮田」

焚火、ずっとしていないな。
楽しそうだなと考えていると、目の前の助手席から、笑顔がのぞいた。
きれいな明るい瞳が微笑んで、周太に笑いかけてくれる。

「あのね、焚火でね、今日は料理するのよ。やったことある?」
「ん、小さい頃にね、すこしだけなら」

周太は初対面は苦手だった。
虚栄、無神経な好奇心、虚偽、自分良く見せたい心。
そうした暗さが、相手の目に見えてしまうと、途端に口が動かなくなる。
だから周太は、そういう暗さがない相手なら、初対面でもわりと話すことが出来る。
彼女の目は素直で明るくて、暗さが無い。話しやすそうで、そっと周太は安心した。

「そう、よかった、心強いな。味噌汁とかもね、考えていて」
「寒いし、いいな。焚火で作る時は、材料とか何が良いんだ?」
「材料はなんでも。でも、味噌はちょっと工夫するの」

味噌に工夫ってどうやるのだろう。
よく解らなくて、周太は訊いてみた。

「味噌に工夫、ってどうやるんだ?」
「あのね、味噌は自分で作るから、その時にちょっと考えるの」

味噌を自分で作る。その発想は周太には無かった。
同じ年だという彼女が、なんだか立派に思える。周太は素直に褒めた。

「すごいな、味噌作れるなんて」
「ううん、すごくないの。慣れればね、すごく簡単」

すこしだけ遠慮がちな、けれど明るい目線が話しやすい。
なんだか不思議な雰囲気のひとだ。思いながら話していると、酒屋へと四駆が停まった。
店には食料品も並んでいる。美代が周太に笑いかけてくれた。

「あのね、料理の材料を一緒に見てくれる?」
「ん、いいよ。俺、料理作るの好きなんだ」

何気なく返事して、おやっと周太は思った。
こういうふうに、同年代の女の子と話すことに肯ったのは、初めての事だった。

周太は、人と話すことは苦手だった。特に同年代の女の子は苦手で、ほとんど話していない。
話題なんて解らないし、話したいとも思わなかった。
穏やかに静かな口調の母を見慣れている為か、どこか騒々しくて馴染めない。
数少ないけれど、女の子と話す場に誘われる機会があっても、断ってばかりいた。

けれど美代とは、自然に話している。
そして今も、二人で材料を見ることを嫌だとは、周太は思わなかった。

「やっぱり。なんかね、そんな感じがしたの。得意料理とかある?」
「ん、…肉ジャガ、とかかな?」
「あ、焚火でもね、鉄鍋で作れるの。やってみる?」
「ん。やってみたいな。教えてくれる?」

美代の口調は穏やかで、素直な声は明るい。
どこか母と似ていて、けれどもっと馴染み深い雰囲気がある。
よく解らないけれど、話していて楽しい。

「あ、光ちゃんたら、」

美代の声に顔を上げると、国村と英二が楽しげに話している。
その国村の手には、一升瓶が握られていた。

「光ちゃんってね、お酒大好きなのよね」
「ああ、なんか強いらしいね?」

国村と英二は、捜索任務中にも酒を飲んだと聴いている。
そのことを美代は、知っているのだろうか。
美代にはどこか、生真面目な雰囲気がある。知ったら、困ってしまう気がする。
とりあえず周太は、黙秘しておくことに決めた。

国村の地所である河原は、静かな谷間にあった。
急峻な山林の麓、清冽な水が月明かりに砕けて光る。
河原の石をならして、国村と英二は器用に焚火をつくった。

「両親とさ、こんなふうに飯、作って食べたんだ」

そう笑いながら国村は、トラベルナイフで岩魚を捌いていく。
とても器用に、きれいに出来ている。こういう国村が先生なら、きっと英二も上達するだろう。

「光ちゃんはね、ああいうこと大好きなの」

そう周太に話しかけてくれる美代も、器用にトラベルナイフを使って材料を切っていく。
女の子でこんなふうに、ナイフが捌ける人は珍しいだろう。
隣で一緒に手を動かしながら、周太は訊いてみた。

「美代さんも、上手だな。こういうの好きなの?」
「うん、光ちゃんが教えてくれた…ううん、いつのまにか、光ちゃんを見ていて覚えた、かな?」

そういえば幼馴染だと言っていた。
そういうふうに一緒に、ずっと寄り添えることは、幸せなのだろう。
「光ちゃん」と美代が呼ぶとき、とても自然で素直な雰囲気が良い。
自分もそんなふうに、呼べるようになったらいい。

調理器具へと具材を全部セットして、焚火にかける。
あとは見ているだけよと美代に言われて、ならんで流木に腰掛けた。

「いい匂いの味噌汁だな、」
「でしょ?豆と麦のね、配合率に工夫があるの」
「自分で考えたのか?」
「母から教わったやり方にね、ちょっと手を加えたの。レシピあげようか」

実家に帰った時に作ったら、面白いかもしれない。
けれどそういうものは、各家庭の秘伝だと聴いたこともある。
ほしいなと思いながらも、周太は訊いてみた。

「ん、ほしいな。でも、そんな大切なもの、いいのか?」
「嫌だったらね、自分から言わないでしょ?」

きれいな瞳が可笑しそうに笑った。
明るくて率直な笑いに、周太も釣られて笑った。
すぐ横で笑う、きれいな瞳に周太は気がついた。

あ、英二と少し似ているんだ。

英二は実直すぎて、思った通りにしか言えないし出来ない。
率直で健やかな心は、透明に明るく温かい。そして誰より美しい、きれいな笑顔。
そうして穏やかな包容力と、静謐な佇まいは人の心をほどいてしまう。

美代はどこか繊細で、純粋な素直さが可愛らしい。
けれど実直さと、穏やかな包容力と静謐な佇まいが英二と似ている。
女の子でこういう実直な性質は、きっと珍しい。けれど美代にはそれが自然だった。
そういう彼女だからこそ、自由な国村と自然に寄り添えるのだろう。
どおりで自分が話しやすいはずだ。納得して周太はそっと微笑んだ。

「湯原くん、ほら、空をみて?」

見上げると、澄明な夜空には半月が、淡い光に輝いていた。
月面が澄んで、鏡のように照り映えている。
きれいだ、そっと周太は息を吐いた。

「御岳山はね、月の御岳って言われているの。今夜も月、きれいでしょ」
「ん、半月だけど明るいな。きれいだな」
「ね、」

明るい月の影が、渓流の波間にゆらめいている。
美代とただ並んで、そんなふうに月と川を眺めた。
英二と似た、静謐な佇まいの彼女は、無言でいても楽だった。
こういう人もいるんだな。なんだか周太は嬉しかった。

けれどやっぱり、周太は英二の隣が恋しい。
無言でいても、英二は全てを解ってくれる。そして大丈夫と、いつも笑ってくれる。
どこまでも周太を抱きとめる、大きな包容力。掴んで離さない強い腕。
周太を惹きつける笑顔、頼もしく端正な姿。
周太には、英二を他と比べることは、出来るわけがなかった。


(to be continued)

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