充ちる想い、山に抱かれるもの
第34話 萌芽act.1―side story「陽はまた昇る」
かちり。ちいさな音に英二は目を覚ました。
窓の外は黎明時の昏さに星がふっている、きっと午前4時半くらい。確認しようとクライマーウォッチに手を伸ばした。
けれどクライマーウォッチの文字盤を見る前に英二は素早く体を反転させた。
「あれ、気づかれちゃった?さすがに馴れたね、宮田?」
テノールの声が可笑しそうにすぐ横で笑っている。
きっと気づかなかったら逮捕術で固められて、またからかわれるところだったろう。
起きあがりながら英二は声に笑いかけた。
「そう何度もね、同じ手にはかからないよ?おはよう、国村」
「おはよ、宮田。さ、新雪だよ?早く支度しなね、」
笑いながら国村は勝手にクロゼットを開けると、さっさと英二の登山ウェアを出して投げつけてきた。
見ると国村は山岳救助隊服をもう着ている、今日は国村が出勤で英二が週休だから出勤時また着替えるのが面倒なのだろう。
投げつけられたウェアを受けとめて着替えながら英二は訊いてみた。
「今朝はどこに登る?」
「本仁田山の大休場で急登の訓練しようと思う。あと10日位で北岳だろ?急斜の雪に馴れとこうかと思ってさ」
本仁田山は奥多摩交番に近く、この青梅署からは車で1時間ほどになる。
だったら国村は本仁田山から御岳駐在所へ直行する方が良いだろう、笑って英二は提案した。
「そうだな、じゃあ俺さ?帰りは奥多摩駅から電車で戻るよ、その方が国村も直行できるだろ?」
「うん?そうだな、もう隊服も着ているしな…うん、そうしてくれると助かるよ」
「OK、こっちこそ助かるよ?帰りに野陣尾根とかちょっと行けるしさ、」
話ながら着替え終えて、英二は救急法ファイルをデスクの上に出した。
持って行って電車で読みながら帰ってくれば、すぐ吉村医師に質問が出来る。
そうすれば青梅署に戻って着替え次第すぐに診察室へ行って手伝いもできるだろう。
戻ってからの手順を考えつつ登山ザックと救急用具の点検を始めた手許を横から国村が覗きこんだ。
「本仁田山はさ、宮田は吉村先生と登っていたよね、」
「ああ、先生と最初に登ったときにね。だから2ヶ月半前になるかな?」
答えながらもうそんなに経つんだなとすこし驚いた。
この青梅署で警察医を務める吉村医師は15年前に次男の雅樹を山の遭難死に亡くした。
その死を自責した吉村は自身も山ヤでありながら登山を辞めてしまっていた。
そんな吉村医師に英二は「奥多摩の山を教えてほしい、そして山岳救助を無事に務めるための知識を教えてほしい」と願った。
吉村医師が英二と登ることで英二の安全を守ることになる、そう決心して吉村は15年ぶりに登山を再開してくれた。
その最初の山が本仁田山だった、12月の半ば晴れた日だった。
「先生さ、あれからイイ顔になったよ。宮田効果だな、」
底抜けに明るい目が笑いながら英二に言ってくれる。
国村は吉村医師とは赤ん坊の頃からの付合いで雅樹もよく知っていた、そういう国村が言うと説得力が嬉しい。
英二は吉村医師を尊敬し本当に世話になっている、そんな吉村の手助けに少しでも慣れたなら。うれしくて英二は笑った。
「ありがとう、国村?おまえが言ってくれるとさ、うれしいよ」
「うん?そうか、ほんとのこと言ってるだけだけどね、」
話ながらも救急用具の中身を英二は手際よく確認を進めていく。
すべて済ませるとザックを背負いあげて国村に笑いかけた。
「よし、お待たせ。いこっか、」
「おう、待ったよ?早くいかないとさ、日の出に間に合わないよ、」
静かに扉を開けてふたり廊下へと出た。
冬用登山靴は踵の音がすこし鳴りやすい、気をつけて廊下を歩いて静かに青梅署の外へ出た。
そこは星明りかがやく白銀が透明な冬の夜の底に鎮まっていた。
「…きれいだな、」
あかるい白銀の輝きに英二は微笑んだ。
まだ昏い暁よりも先の時間、青梅の街を雪はやさしく白い手に覆ってねむりにつかせている。
見あげる星の輝きもどこか雪の銀色に似て、地上の雪と呼応するように瞬いていた。
きれいだなと見惚れている横から額を白い指が小突いて、テノールの声が笑ってくれた。
「ほら、ボケッとするのはね、まだ早いってば。山へ行くよ、」
「あ、ごめん。雪の街もさ、俺は好きだな。やさしい雰囲気でさ、」
歩きながら言うと細い目が英二を見、温かく笑んでくれる。
かるく頷きながら国村も言ってくれた。
「うん、そうだね。俺もね、雪の街は好きだよ。音が吸われて静かでさ、街も人も包まれている感じが良いね」
「くるまれて、か…国村もさ、表現が豊かだよな?」
「うん?そうかな、本でも読むせいかね?さて、シートベルト締めろよ、動くよ」
話ながら国村の四駆に乗ると、いつもどおりに静かな雪の早朝を走り始めた。
雪削るチェーンの音もまだ軟らかい雪に吸われて幾分しずまっている。
その音にふっと周太が青梅署に出張できていた2週間ほど前が懐かしくなって英二は微笑んだ。
「なに、宮田?楽しそうに笑ってるね、」
愉しげにテノールの声が訊いてくれる。
すこし微笑んで英二は口を開いた。
「うん、周太のこと想いだしてさ。こんなふうに国村の四駆に乗って、新宿まで送ったなって」
運転席から細い目が英二を見た。
まなざしは温かで懐かしげに笑って頷いてくれる。
「時間は今の真逆だけどね、あの日も雪が積もっていたな…うん、俺はね?あの日ちょっと、おまえに惚れたね」
「俺に?周太の間違いじゃないの?」
「それは別次元の話だね、比較するんじゃないよ、」
さらっと気軽に笑い返した英二に、国村も底抜けに明るい目で笑って答えてくれる。
そして明るいテノールの声が言葉を続けてくれた。
「おまえさ?あの日は朝、俺に脅かされたろ?でも、夕方には大きな心で湯原を受けとめていた。
そんな短い時間で宮田はさ、ひとつ器をでかくした。あんな短時間で出来るのは凄いだろ?
しかも、おまえさ。あの後で行先も言わないで『ちょっと行きたいとこある』ってだけを俺は言った、でもさ?
おまえは俺に行先を訊かなかった、あんだけ俺に脅かされた後なのにね?で、そういう素直なおまえにさ、俺はちょっと惚れたよ」
あの日の朝、英二は国村から「復讐」によって諭された。
理由は英二が周太に体を無理強いしたことだった、そんな英二に国村は厳正な問いを投げつけた。
国村は嫌がる英二を無理やり組伏せて、周太が英二に与えられた恐怖を見せつけながら怒りを叩きつけてきた。
大らかな怒りと気付かせたい優しさで「心から望まず体を繋げても傷がつく」と明確に英二に解らせてくれた。
あのとき国村は本気で英二にぶつかってくれた、あんなふうに真剣に向き合ったくれたことが英二は嬉しかった。
この2週間ほど前の記憶に微笑んで英二は口を開いた。
「国村、俺さ?あんなふうに真剣にぶつかって貰ったのってね、周太しかいなかったんだ。
前に話した警察学校の脱走のとき、あのとき周太は真剣に俺にぶつかってくれた。それが嬉しかったんだ。
で、さ?あの朝は国村、本気で怒って俺のこと懲らしめてくれただろ?そういう本気がね、うれしいんだ…ありがとうな、」
きれいに英二は国村に笑いかけた。
運転席から温かい視線を投げて国村も愉しげに笑ってくれる。
「滅多に怒らない俺を怒らせたんだ、そりゃきっちりオトシマエつけさせてもらったよ。
肚に一物もっちゃったらさ、生涯のアンザイレンパートナーなんか出来ないだろ?そんなの御免だね、俺はおまえが良いよ」
あんなに怒らせることをしても国村は英二を信じて怒って、そして許してくれている。
すこし荒っぽくても寄せられる信頼がうれしい、英二は微笑んだ。
「うん…ありがとう、ほんとにさ、」
「こっちこそだよ、どういたしまして、だ。さ、着いたよ、」
からり笑うと国村はエンジンを停めた。
安寺沢の登山口で車を降りるとクライマーウォッチで確認した時刻は5時半だった。
登山口でアイゼンを履くと国村が愉しげに笑って提案してくれる。
「よし、最低でも45分で登頂するよ?俺は日の出を見たいんだ、いいね?」
「俺も見たいよ。おまえのペースで登ってくれ、着いていく」
ヘッドライトを点けながら答えると国村は頷いてくれた。
ぐるっと首を回して英二を見ると底抜けに明るい目で笑って頂上方面を指さした。
「よし。じゃあね、30分で行こう。急ピッチだけどさ、がんばれな?はい、スタート」
そうして登山道へ入って行くと樹林帯はまだ闇の底だった。
通過点の神社に入山の挨拶を済ませて急坂へ入っていく。慎重な足取りで緩やかにピッチと高度を上げながら進んだ。
「この山は標高は1,200mちょっとだけどさ。急に標高が上がるから結構きついよね」
「うん、でもおまえはさ?全然きつそうにみえないよ?」
「まあね、俺は小さい頃から慣れてるからさ。宮田こそね、まだ4ヶ月半だろ?
前を行く明るい声が笑って、さらり励ましてくれる。
まだここへ来て自分は4ヶ月半、けれどもっと前からいたような不思議な想いにさせられる。
ふっと微笑んで英二は口を開いた。
「うん、まだ4ヶ月半なんだよな。でも、もっと長くここに居る気がする。国村ともずっと友達みたいなさ」
雪に抱かれた空気が頬に冷たい、こうした山の冷気も「いつもの」と感じるようになっている。
そして「いつもの」ように前を登る友人が透るテノールの声で答えてくれた。
「だね、俺もそうだよ。おまえのことはさ、ずっと知っていた気がするね。で、いちばんよく解る気がするよ」
肩越しにふり向いた底抜けに明るい目が笑ってくれる。
こういうのは嬉しい、素直に英二は笑った。
「うん、…そうだな。俺のことはさ、おまえがいちばんよく知ってる、きっとね」
吐く息が白い靄になるのをヘッドライトに見ながら登っていくと空が開けてきた。
植林帯を抜けて雑木林に入ったな、そう思って梢を見あげると繊細に交される冬の枝から透ける星空が見える。
雪凍る枝にふる星明りが穏やかな光にきれいだった、静謐のなかアイゼンで雪ふむ音を聴きながら英二は微笑んだ。
夜闇のむこうに見上げていた山が目の高さになっていく、そして大休場尾根へと入った。
「ここはね、一枚岩みたいな露岩のあたりだ。アイゼンの刃を傷めないようにね」
「うん、ありがとう。ここって、雷撃死の現場になったんだよな、」
英二の言葉に前を行く肩がすこし動いて、肩越しに細い目が英二に笑った。
底抜けに明るい目が温かに笑んで国村も応えてくれる。
「春の事故だったな?発生したとき俺も話を聴いたよ、たしか雹が降った日でさ。側撃された方が火傷を負ったんだよね、」
「うん、4月下旬の事故だ。あのときは寒冷前線の通過に伴う『界雷』だったんだよ、積乱雲と雹がシグナルになる。
季節の変わり目は危険なんだ。そして亡くなった方は即死だった、けれど火傷は一切ない…自然の力って不思議だと思ったよ、」
「ほんと不思議だよな。にしても、おまえさ?吉村先生の講義をしっかり記憶してるんだね。さすが真面目宮田だね」
温かいトーンの声で率直に褒めてくれる。
努力を認めてもらえる温もりに英二は微笑んで、思ったままを答えた。
「俺からお願いして時間作って貰ってるんだ、ひとつも忘れたくないよ、」
「うん、そういう謙虚さはね?山ヤには必要だよ。やっぱ、おまえも山ヤだね、」
最高の山ヤと賞賛される国村が率直に褒めてくれる。
本格的に山と向き合って4ヶ月半の自分にとって、こんなに嬉しいことはない。素直に英二は笑った。
「国村に言われると嬉しいな、俺、もっと頑張ろうって想えるよ?」
「おう、頑張ってくれよ?俺の専属レスキューやってもらうんだからさ、」
山の暁闇のはざまを笑いあいながら登っていく。
花折戸尾根との合流地点を過ぎて、しばらく歩くと傾斜がゆるんだ。
ここは雑木林に囲まれ寛いだ雰囲気になるけれど、このあと最後の急登を超える。
ふっと英二はここで立ち止まった。
―…雅樹もこの奥多摩でね、自殺遺体を見た事があったんです。まだ小学校6年生でした
私と一緒に登山している時です。その山道を囲む林の中に、縊死自殺遺体と出会ってしまったんです…
病気で苦しまれていたそうです…だから自死を選ぶと書かれていました…私は医師としての無力を感じました
この方が縄にかかる前に会えていたら…そんな想いが苦しかった…雅樹は私に言いました、
『お父さん。あの人もね、生きて幸せに笑ってほしかったね』そして重ねて私に訊いたんです『医者になる事は難しい?』
そうして雅樹は、この奥多摩の山で医師になる決意をしたんです。あの12歳の日に、私と歩いたこの奥多摩で
吉村医師とこの本仁田山に登ったとき、この場所で吉村は大切な記憶を話してくれた。
吉村医師が誰より愛した息子、雅樹が山ヤの医師になろうと決意した大切な場所。それがいま目の前に広がる雑木林だった。
「…ここでさ、雅樹さんは医者になるって決めたんだよね、」
透明なテノールの声が隣から言ってくれた。
穏やかな声に頷いて英二は微笑んだ。
「うん、俺は吉村先生からね、ここでその話を聴かせてもらったよ…ほんとうに雅樹さんは、先生の宝物だったんだ」
「ほんとにそうだね…俺は雅樹さん本人から、ここで聴いたんだ。小学校入ったばっかの頃にさ、一緒に登った時にね。
雅樹さんもさ、生きる道と誇りを山に見つめたひとだよ。俺はね、そんな雅樹さんが大好きだったんだ、今も大好きだよ」
青い暁闇がおりる雪の雑木林は静謐の底にねむっている。
この静謐には12歳の雅樹が抱いた優しい想いも記憶も、安らかなねむりに抱かれていてほしい。
こんなふうに「山」は、いったいどれだけ多くの想いと記憶を抱いて佇んでいるのだろう?
やさしい想いと哀切を想いながら、ふたりヘッドライトの下で静かな笑顔で互いの目を見た。
そして頂上手前の急斜を白い雪の息と登りきると、本仁田山頂に辿り着いた。
標高1,224.5m本仁田山。
南面側は眺望がいい。朝を待つ紺青色の空にねむる、銀の山波をみはるかして英二は微笑んだ。
尾根の連なりがまとう雪に星明りと呼応していく、静謐がよこたわる奥多摩の黎明が響くように美しい。
きれいだと、見つめている隣では国村が登山グローブを外している。
そして三角点の前に立つと、いつものように三角点にふりつもった雪へ手を押し込んだ。
「よし、俺が一番乗りだ」
愉しげに笑って自分の手形を眺めている。
横から覗きこむと今朝もきれいな手形が三角点上に描かれていた。
「ほら、宮田もやんなよ、」
「うん、ありがとう、」
勧められて素直にグローブを外すと国村の手形に英二は掌を重ねた。
大きくても繊細な印象の手形に長い指の手形が重なって刻まれる。
ふたつの手形を見て国村は満足げに細い目を笑ませた。
「おまえが二番乗りだよ、宮田。さて、飯食おうよ。日の出まであと30分位だよね?」
「うん、たしか6時33分だったよ、」
話ながら雪を除けて簡単な露営地をつくる、こんな作業もずいぶんと馴れた。
英二は山岳経験自体が警察学校の山岳訓練が最初になるから、まだ1年も経っていない。
それでも卒配後は毎日のように山へ登り、国村と親しくなってからは毎日こんなふうに山と親しんでいる。
「今日はさ、俺もカップ麺を持ってきたよ?だから、はい、国村」
「ありがと、ちょうど腹減ってるんだ。うれしいね、俺は2個食ってくよ。このまま出勤だしさ」
「うん、そうしなよ。俺も食おうかな。北岳はさ、3日計画で2晩ともテント泊だろ?」
「そ、雪中のビバークだ。飯も自炊だよ、あったまるメニューにするんだ。でさ、ゲート通過は6時前だからね?」
すっかりなれたクッカーで湯を沸かし、ザックに座りこんで友人と登山計画の話をする。
こんな生活は1年前には想像もつかなかった。警察学校に入って今までの11ヵ月弱の時間は自分を変えた。
こんなに人生が大きく変わった事は23年間で初めてになる。
そして1月の冬富士登山で遭った雪崩。
あの吉田大沢で起きた表層雪崩によって英二はまた大きく変えられた。
あの雪崩で国村は軽度の打撲を負った。
軽傷だった、けれど「山に受傷させられた」事実が最高の山ヤの魂をもつ国村の誇りを傷つけた。
国村は受傷を秘匿して誇りを守るよう英二に告げた、そしてもし秘匿を破れば「裏切りの代償」に英二の体を奪うと宣言した。
そんなふうに「山ヤの誇り」と「山を登る自由を守る体」を天秤にかけてアンザイレンパートナーの理解を求めてくれた。
それは英二にはよく理解できることだった、だから素直に頷いて国村の想いを受入れた。
けれど、そのことを英二は不用意に周太へと話してしまった。
あの雪崩の発生を知った周太は吉村医師に電話して、いますぐ青梅署へ行って英二を待ちたいと願ってくれた。
そして吉村医師は弾道調査実験のテスト射手として周太を呼び寄せ英二と逢わせてくれた。
その夜に英二は不用意に周太へと「裏切りの代償行為」の話をしてしまった。
そして実験の2日目に周太は国村へ銃口を向けてしまった、英二の体を守りたい一心で周太は威嚇発砲までしてしまった。
英二を「体を無理強いする」ことで傷つけられたくなくて、国村の宣言を撤回させたくて銃口を向け脅迫してしまった。
そうして周太は「威嚇発砲」と「拳銃による脅迫」のふたつの罪を犯してしまった。
けれど国村は、その罪を2つとも周太の肩から自分の肩へと背負ってしまった。
国村は英二たちと同年の23歳だけれど高卒任官で4年先輩な上、特進のため2階級上の警部補になる。
その立場を利用して後輩で階級も下の周太に対し「命令」することで口封じをしてしまった。
―俺がね、湯原に「命令」したんだよ、俺の言葉を肯定も否定もするなってね
周太を新宿へ送った帰りのまま国村は四駆を富士山麓の凍れる湖へと走らせた。
全面凍結する湖の雪面と夜に浮かぶ冬富士を穏やかに見つめて国村は「命令」の真相を話してくれた。
―最後の狙撃のとき、俺が練習の癖で2連射した、その2連射目でザイルは切断された
威嚇発砲の事実なんか無かったんだ、俺が2連射した発砲音が谺になって、あのとき谷に響いたんだ
そしてね、もちろん脅迫なんてあるわけがない
真面目な湯原巡査がさ、2階級上で4年先輩の国村警部補に「脅迫」なんて出来るワケなんかないだろ?
そんなふうに国村は「命令」をして周太を従わせることで、周太が犯した2つの罪の全てを自分が背負いこんだ。
話してくれた白いミリタリーマウンテンコートの背中は、いつも以上に広やかに大きく誇り高かった。
その誇らかな背中に英二は透明なテノールが謳いあげた旋律を見つめた。
季節は色を変えて幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 君を想う…
微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も 降り注ぐ木洩れ日のように君を包む
それは僕の強く変わらぬ誓い
国村は本気で周太を愛している。
愛するひとを守るために罪を背負った背中、その無垢な想いにこそ誇らかに国村は立っている。
真直ぐに純粋に愛している、最高の山ヤの誇り全てを懸けた大らかな真実の想いで国村は見つめている。
その背中は広やかで、まばゆくて、美しかった。
そして周太が犯した罪の本当の罪人は英二だと、もう自分で解っている。
それを国村も解っている、解っているからこそ愛する人とアンザイレンパートナーの罪を軽やかに背負ってくれた。
大切なふたりを守ることに誇らかに立って最高の山ヤは、かけらも揺るがず笑ってくれている。
そんな広やかで大きな背中はまぶしかった、見つめて、涙がこぼれた。
美しい背中と冬富士を見つめて、こぼれていく涙に尚更に自分の浅はかさが呪わしかった。
あの威嚇発砲の日、英二は独占欲のままに狙撃の銃座から下山してきた周太の掌を繋いだ。
下山してきた周太と国村には繋がりと優しい温もりが感じられた、そんなふたりに見惚れて焦った自分がいた。
そして浅はかな独占欲と独善的な愛情のまま周太を無理やりに抱いて、周太の想いを踏み躙ってしまった。
英二の「体」を守る為に罪を犯した周太の「体」を英二は大切に扱うことを怠って、周太の信頼もすべて壊してしまった。
けれど自分ではそれに気づけなかった、国村に組み伏せられ怒りを叩きつけられるまで解らなかった。
組み伏せられて容赦ない怒りに晒されて、そして初めて気がついた。
自分が周太にしたことは「強姦」そして深い傷を負わせてしまったこと。
そして国村の想いも信頼もすべて踏み躙ってしまったこと。
そして、そんな二重の裏切りを犯した自分を、周太も国村も受けとめ許そうとしてくれていること。
このことを、この2週間ほど英二は見つめ考えてきた。
いま目の前では暁闇と雪の底でクッカーの火が水を温めていく。
ゆるやかに沸いていく水の音と雪にゆらめく火の赤を見つめて、英二は静かに口を開いた。
「国村…今からさ、ちょっと独り言を話すよ?」
まなざしの温もりが英二の横顔を撫でた。
きっと底抜けに明るい目は真直ぐに英二の目を見つめてくれている。
温かいまなざしを感じながら英二は、クッカーの炎を見つめたまま微笑んで口を開いた。
「俺は、唯ひとり愛するひとを傷つけてしまった。醜い独占欲の為に体を傷つけて、心まで傷つけた。
それでも俺を愛そうとしてくれているよ。けれど、俺の愛するひとは心から愛しあっている人がいる。その相手は俺じゃない」
横顔を撫でてくれる視線の温もりが、かすかに揺らめいた。
どうか聴いてほしいよ?視線の主に微笑みながら英二はクッカーの火を見つめたまま続けた。
「ふたりの想いは、きれいだ。なにか不思議な繋がり、そう想えて仕方ないほどにね、きれいでさ。
最初は嫉妬した、羨ましかったから。けれど今は…心から守ってあげたい、ふたりの想いも、ふたりのことも。
きっとふたりの繋がりは、俺には踏み込めない領域だってことも解っている。だから俺の居場所が無くなるかもしれない、」
ぱさりと、背後の樹林から雪のおちる音が響いた。
うす青い暁闇にねむる山の頂の、やさしい静謐の底に微笑みながら英二は想いを言葉に紡いだ。
「けれど、それでもいい。ふたりとも心から大切だから、大切なふたりの幸せな笑顔が見れるなら、いいんだ」
ぱさり、静かな音がまた響く。
英二はヘッドライトを外して明りを消した、その隣も同じように消してくれる。
そして静謐の青い闇とクッカーの炎の赤だけの世界で、そっと英二は想いを続けた。
「俺はね…愛するひとを強姦してしまった。その罪の重さにようやく気付いてきた、俺は。
あのとき愛するひとは、他のひとに純粋無垢な想いを抱いて…どこか気がついていた、けれど。
ばかな俺はね、自分だけ見てほしくて体を繋げばって、さ。純粋な想いを踏み躙って傷つけて、俺は体を奪ったんだ。
初めて抱いたときも傷つけた、何も恋愛を知らないまま俺を信じて、俺の笑顔を願って抱かれてくれた、泣きながら。
その涙と血の痕を翌朝に見つめて俺は誓ったはずだった、二度と傷つけないと誓ったはずだった。けれど俺はまた傷つけた…」
目の底から熱が生まれてくる。けれど英二はゆっくり瞬いて熱を封じ込めた。
想いを心へ落としこんで綴じこめて深めると、英二は静かに言葉を続けた。
「いま思い知らされるよ、俺の愛がなんだったのか?
体を重ねてしまえば心も掴まえられる、そんな傲慢で自分中心の狂った愛だった。
自分の想いしか見ていない、そんな独善的な愛情は本当には相手を見ていなかった。だからね、強姦なんて出来たんだ」
クッカーの火を見つめる自分の横顔を、まなざしは温かいまま見つめてくれている。
こんな隣が座ってくれている幸せに微笑んで、穏やかに英二は青い暁闇の底で口を開いた。
「あのとき、愛するひとは、どんなに傷ついただろう?絶望しただろう?
あのとき…大切な面影を心に見つめながら、体は俺に無理矢理に犯されて…残酷だ、本当に俺は狂っていた。
そうやって俺はね、愛するひとの信頼も…もうひとりの信頼も踏み躙ってしまった。この罪は一生消えない、そう解っている」
― 体を繋げなくても心は繋げられる…心繋げない体の繋がりよりも、俺は、こっちを選ぶ
周太の体を無理強いした日の夜、国村が英二に告げた言葉。
いまは国村の言った想いがよく解る、遊びじゃないなら本気で大切にしたいなら、何をいちばんに考えるべきか?
この選択を自分は間違えていた、この過ちは取り戻せるものじゃないと解っている。
取り戻すことは出来ない、でも償っていくことは出来る。おだやかな覚悟に英二は微笑んで唇をほころばせた。
「罪は消えない、そして俺の愛する想いも消えない。だから俺は、愛することで償いをしていきたい」
横顔の頬を温めてくれる眼差しがすこし動いた。
そして透明なテノールの声が訊いてくれた。
「愛することで、償いをする?」
しずかな問いかけに英二は微笑んで頷いた。
おだやかな想いにクッカーの火を見つめてまた想いを英二は紡ぎ始めた。
「俺が愛するひとは10歳の純粋無垢なままで、ずっと俺の夢を支えてくれた。
だからこれからは…周太には、夢や人と出会わせてあげたい。今度は俺が周太が望みのままに生きる姿を支えたい。
それが、たとえ俺の居場所を失うのであっても構わない。ただ守りたい、俺を信じて13年の孤独を破ってくれた周太を守りたい」
クッカーの湯にちいさな水の玉が沸きあがっていく。
うまれてくる泡のきらめきを見つめながら英二は穏やかに微笑んだ。
「周太が生きる道を見つけるために、俺は傍で支えたい。
だから婚約もそのままにした、この立場がある方が周太は俺に甘えやすいから。
体のことは周太が本当に望まない限りはしない、俺はただ家族の立場に今はなっていたい。
周太が誰かと恋愛するのも自由だ。周太が誰かを愛するなら、その愛を叶えてやりたい、守ってやりたい。
周太が誰かと想いを通わせて幸せに輝いていく、そんな笑顔をね、俺も見たい。だから周太の想いを守ってやりたいんだ」
自分の唇からこぼれていく心の想いたち。
その想いの温もりに心が充ちていくのを英二は静かに見つめていた。
「周太は、自由だ。周太の自由をね、俺は誇りを懸けて守りたい」
静かに想いを見つめながら、きれいな低い声で英二は宣言した。
いま宣言した想いが温かい、不思議なほど充ちたりてくる想いに英二は笑った。
そしてクッカーの赤い炎を見つめたまま、穏やかに充ちる想いを言葉にのせた。
「男として、山ヤとして。すべての誇りを懸けて俺は、唯ひとり愛する周太の自由を守りたい。
そしてね、周太が愛する人のことも俺は守りたいんだ。すべての誇りを懸けて俺は、ふたりの想いも生命も守りたいんだ」
切長い目に大らかな笑顔が生まれた。
大らかな笑顔のまま英二は、ゆっくり隣をふりむいた。
その視線の先には温かい純粋無垢な瞳があった、美しい瞳の大切なアンザイレンパートナーを英二は真直ぐに見つめた。
いまは独り言だよ、でも聴いてほしい。そんな想いの真ん中へと英二はきれいに笑った。
「周太が国村を選んでも、それが周太の望みなら支えたい。
そしてね、国村が周太を愛するなら、俺はすべて懸けてもね、ふたりの想いを守りたい。
愛するひと、アンザイレンパートナー。どちらも俺には大切で、ふたりの幸せも笑顔も守りたい。
だから俺に何も言ってくれなくても構わない、秘密が想いを守るなら俺は知らなくていい、ふたりが幸せならそれでいい」
底抜けに明るい目は、ただ真直ぐに純粋無垢な想いを映して見つめ返してくれる。
こんな目をする男が自分のアンザイレンパートナーでいてくれて幸せだ。
そして自分の愛するひとの想いの相手が、こんな目の男だと言うなら本望だろう。
「秘密が、想いを守る。ほんとうに、おまえもそう思うんだね?」
「うん、いまはね、そういうの解るんだ。知るべきこと、そうじゃないことがある、」
自分だけの居場所がずっと欲しかった。
けれど今、こうして大らかな想いに掴んだ掌を開いていく瞬間に充たされていくものがある。
掌を開いていく自由な想いに英二は微笑んだ。
「俺は周太のお父さんの合鍵を受け継いでいる、だから俺はね、いまは周太の父親でいればいい」
だからきっと―そんな予兆がなにかしら温かいものと生まれて萌え出ずる。
萌え出す温もりを見つめて、きれいに笑って英二は国村に真直ぐに告げた。
「周太の父親の代わりを務めながら俺は周太を守っていく。
代わりを務めることで俺はね、周太のお父さんの想いの真実を見つめられるはずだ。
そして見つめた想いを俺は周太に示してあげたい…周太がお父さんの軌跡を追うことは厳しい、だから守る立場に徹したい。
そしていつか、周太が軌跡を追う危険な時間も終わりを迎えるだろう。そのときにはね、また俺はどうするか考えていくよ」
告げ終えて、英二は隣にならんだ純粋無垢な目を見つめた。
見つめた先で無垢な目は底抜けに明るいままで、温かく英二を見つめ返している。
そして透明なテノールの声が青い暁闇に低く響いた。
「『Le Fantome de l'Opera』…でも、怪人は父親になった。そんな感じだね、」
邦題『オペラ座の怪人』フランス文学の恋愛小説。
周太の父の蔵書にもあった、けれどなぜか冒頭と最後を遺して大半のページが切り壊されて「欠落」している。
その欠落を読みたくて周太が自分で買った本は、警察学校の初めての外泊日に書店の高い書架から英二が取って渡した。
そして英二も「欠落」の謎を知りたくて買って読んでみた。けれどまだ「欠落の謎」には辿りつけていない。
だから内容は解っている、穏やかに微笑んで英二は答えた。
「うん、…俺もね、自分で想ったよ。怪人と俺の恋愛は似ているってね。
膝まづいても愛を求めてしまう、愛する人を閉じ込めても離せない独善的な愛情だ、どこか狂っている。
自分の愛だけに盲目になって…そして俺はね、気づいたんだ。盲目で自分の想いしか見つめない俺はね、俺の母親と同じだ。
理想の『美しい息子』しか愛せない、汚れたら目を背けて本当の姿を見ようとしない…心を見つめない、身勝手に欠け落ちた愛だ」
目の前でクッカーの湯が沸騰を始めた。
ちょっと笑って英二は国村のカップ麺に湯を注ぐと、自分の分にも湯を充たした。
そしてまた水を入れて火にかけると、ゆるやかな水の音に心を傾けて微笑んだ。
「俺はね、母親のそんな愛情から逃げて、ここへ来たよ。
見つけた誇りに生きるため周太を守るために母親を捨てた。そのことを欠片も後悔していない。
だからね、気づいて愕然としたんだ…俺は母親と同じに周太を愛していた、それに気がついたときはね、苦しかったよ」
雪と樹木の香に温かい匂が立ち昇る、ふっと時間を感じて英二は蓋を開いた。
ほどよく出来上がった麺に笑って「食べながら話そう?」と目で促すと箸を割った。
熱いスープと麺に肚が温まる、暁闇の山に佇んで摂る簡素な朝食の醍醐味に英二は微笑んだ。
「だから俺はね、母親と同じになるのは止めようって思った。
怪人のように失った愛に泣くことも嫌だと俺は想った、そして気がついたんだ。
俺の首に懸けられた周太のお父さんの合鍵、この合鍵に籠められた願いと祈りが俺にはある。俺はこの為にいるって思えた。
ひとつ目をさっさと平らげて国村が英二を見つめた。
その底抜けに明るい目が穏やかに微笑んで訊いてくれた。
「いつも宮田が、首に懸けている鍵…宝物だって言っているな、」
「うん、俺の宝物なんだ。この鍵で俺は家の扉を開けるんだ、そしてきっと、周太のお父さんの想いも」
川崎の家の書斎、そこにあるオーク材の重厚な書斎机。
あの机の抽斗には周太の父の日記帳が眠っていた、その抽斗の鍵はこの合鍵でしか開けない。
周太の父の合鍵に籠る想いを見つめながら英二は口を開いた。
「この合鍵にはね、息子と妻の笑顔の許へ帰って幸せにしたい、そんな祈りがあるよ。
きっと俺は、この祈りを叶えるために周太に出逢ったのだろう。だったら祈りを叶えてあげたい、そう素直に想えた。
だから俺はね、周太の父さんの代わりを務めることで想いを見つめてあげたいんだ。こんな俺だけどね、受けとめてあげたい」
英二もひとつめを平らげると、ほっと息を吐いた。
温かなクッカーの炎を見つめて、そして隣に座る大切なアンザイレンパートナーに笑いかけた。
「俺の『オペラ座の怪人』はね、国村?…怪人は恋愛を手放すことによって、大きな愛を抱けるんだよ。
そして大らかな愛情でね、真直ぐに歌姫と幼馴染の恋を祝福する。そんな穏やかな幸せに怪人は、笑って暮らすんだ」
きれいに笑って英二は告げた。
そんな英二を見つめている底抜けに明るい目は、ふっと穏やかに微笑んだ。
そして透明なテノールの声がやわらかく告げてくれた。
「うん、…その解釈は正しいね。原作もその通りだよ?
歌姫は幼馴染と再会してね…再び恋におちた。その恋と愛に命を懸けて、幼馴染は彼女を救いに行った。
怪人は、そんな彼の姿に「捨て身の愛」に気づいた…だから歌姫の手を離して幼馴染の許へ向かわせたんだ」
いま「再会」と国村は微笑んだ。
たった2文字の言葉に英二は想いを見つめられると思った。
きっと周太と国村は幼い日に出逢ったことがある、それは周太の父が生きている頃の話だろう。
周太の父は山を愛して警視庁山岳会にも所属していた、そして奥多摩交番にも寄っていたと後藤副隊長からも訊いている。
その後藤の友人の子供である国村は、幼いころから奥多摩交番にも顔を出していた。
きっと奥多摩交番の近くの森でもよく遊んでいただろう、そこで周太と出逢ったことがあっても不思議はない。
ふたりの想いは「再会の恋」それも純粋無垢なままの初恋だった。
それも「山」のどこかで出逢った初恋、だから国村はさっきも「別次元」だと言ったのだろう。
いちばん「山」を愛している国村が「山」で恋におちたのなら。それはきっと最高の唯ひとつの愛になる。
そんな唯ひとつの愛で周太を国村が見つめているのなら?
すべてが納得が出来る、なぜ周太を傷つけられた国村が怒りを剥きだしにしたのか理解できる。
けれど。周太は13年前に父を失った衝撃で記憶を忘れていた、だから英二を初恋だと思っていたのだろう。
それでも今はもう、周太には記憶は想いと一緒に甦っている、そして初恋を想い国村を想っている。
すくなくとも13年は眠らされていただろう初恋、それなら甦った今こそ幸せにしてあげたい。
甦った周太のやさしい幸せの記憶を守ってあげたい、守りたい。そんな確信が静かにおちて英二は微笑んだ。
静かな英二の微笑みを見つめて細い目を笑ませると、テノールの声は透明に言ってくれた。
「なぜ歌姫と幼馴染が再会できたのか?
歌姫に恋した怪人はね、彼女に歌のレッスンをした…そのお蔭で彼女は舞台に立つことが出来た。
その舞台を見ていた幼馴染が彼女に気がついて、そして子供の頃の恋と愛を蘇らせることが出来たんだ。
怪人が歌姫に恋をしなければ、ふたりの恋愛は再会出来なかった…そして怪人が愛に気づけなければ再会の恋も、壊されていた」
怪人のおかげで「再会の恋」は甦った。そう国村は言ってくれている。
英二も奥多摩への配属を望み、周太を奥多摩へ再び訪れさせた。
そうして周太は奥多摩で再び国村と廻り逢い、記憶と初恋を蘇らせることが出来た。
そのことを国村はきちんと気づいて言ってくれている、そんな繊細で豊かな想いの視点が温かい。
やさしい温もりに微笑んで、おだやかに英二は訊いた。
「怪人のおかげ、って言ってくれるんだ?」
「うん、そうだろ?怪人がいなきゃさ、ふたりはずっと逢えないままだ」
クッカーの湯がしずかな音をつぶやき始めていく。
すこしだけ明るんだ紺青の星空のした、並んで座りながら湯の音を見つめる時間はどこか温かい。
温かな時に座って国村は英二を真直ぐに見つめて、きれいに笑った。
「きっとね、歌姫も幼馴染も、怪人のことを心から大好きでね、大切に想っているはずだ。
そしてね、歌姫は歌姫なりの想いで怪人のことも愛している。唯一の相手では無いかもしれない、けれど想いは真実のはずだ。
辛い運命に没落して幼馴染と離されて、彼女は幸せを諦めかけた。そんな彼女の心に愛する幸せを蘇らせたのはね…怪人の愛だろ?」
周太は国村との恋を蘇らせている、けれど英二への愛も失っていない。
そして心から周太も国村も英二を大切に想ってくれている。
おだやかに響くよう返される想いが温かい、幸せで英二は大らかに、きれいに笑った。
「うん、ありがとう。きっとね、怪人はさ?すごく幸せだよ…初めて心から充たされて、幸せだ」
「そっか、…ならさ、大丈夫だよ?」
頷いて国村は温かな眼差しに英二を見つめた。
見つめて真直ぐに微笑んで、透明なテノールの声が言ってくれた。
「自分の信ずるように愛する人に接して行けばいい。
真直ぐで本当は繊細で優しい、それがおまえだ。おまえなら出来るよ、本当に笑顔にさせてやれる。
そして俺はね。ほんとうはさ、全部おまえに話したいとも想うよ。やっぱり俺は、おまえが大好きだからね。
でもね、山の誇りに懸けた秘密は、これだけは話せない。俺は山をなにより愛している、だから『山の秘密』だけは言えない」
話せないんだ、ごめんよ?
そんなふうに底抜けに明るい目が笑ってくれる。
別に構わないんだと英二も目で答えながら、クッカーに沸いた湯を2つめのカップ麺にそれぞれ充たした。
「うん、大切な秘密なんだろ?ならね、きちんと大切にしたらいい。
俺に遠慮はいらないんだ、自由にしてほしい。俺はね、国村の誇り高い自由が大好きだ。そして周太にも自由に生きてほしいよ」
自分を重荷にしないでほしい、負担にはなりたくない。
ただ自由に生きて輝く姿を見せてもらえたらそれで良い、そんな願いに英二は微笑んだ。
そんな英二の笑顔に国村は、楽しげに幸せそうに笑ってくれた。
「おう、自由に大切にするよ?…うん。ありがとな、宮田」
「うん、大切にしてほしいよ?…はい、3分たったよ。でさ、北岳の時にはね、特別に準備するものってあるかな?」
そんなふうに他愛ない会話をしながら、2つめのカップ麺を啜りこんだ。
そして食べ終わって片づけると、今日、最初の曙光が奥多摩の山波遠くから昇り始めた。
青い暁闇が朱色と金色かがやく暁の空へと遷ろっていく、刻々と生まれくる光を英二は携帯の写真に撮りこんだ。
To :湯原周太
subject:雪の朝
添 付 :本仁田山頂からの朝陽にそまる雪景色
本 文 :おはよう、周太。朝早く雪が降ったよ、今朝も国村に起こされて本似田山に登ってきた。
いつも通り三角点で手形を押して、カップ麺食ったよ。朝陽がきれいで見せてあげたかったな。
次に周太と再会した時は、前とはすこし違う立場での再会になる。
もうキスは唇には出来ない、けれど額や頬へのやさしいキスは贈ってあげられる。
ただ温もりに抱きとめることも、掌を繋いで温めてあげることも出来る。
そんなふうにただ、やさしい温もりを周太へと贈ってあげられたらいい。
そんな温かな想いをこめて英二は、朝陽そまる雪山の写真を周太へと送信した。
(to be continued)
【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】
【ピアノ編曲版「叙情詩」http://www.youtube.com/watch?v=jc0C0UUrgWo】
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第34話 萌芽act.1―side story「陽はまた昇る」
かちり。ちいさな音に英二は目を覚ました。
窓の外は黎明時の昏さに星がふっている、きっと午前4時半くらい。確認しようとクライマーウォッチに手を伸ばした。
けれどクライマーウォッチの文字盤を見る前に英二は素早く体を反転させた。
「あれ、気づかれちゃった?さすがに馴れたね、宮田?」
テノールの声が可笑しそうにすぐ横で笑っている。
きっと気づかなかったら逮捕術で固められて、またからかわれるところだったろう。
起きあがりながら英二は声に笑いかけた。
「そう何度もね、同じ手にはかからないよ?おはよう、国村」
「おはよ、宮田。さ、新雪だよ?早く支度しなね、」
笑いながら国村は勝手にクロゼットを開けると、さっさと英二の登山ウェアを出して投げつけてきた。
見ると国村は山岳救助隊服をもう着ている、今日は国村が出勤で英二が週休だから出勤時また着替えるのが面倒なのだろう。
投げつけられたウェアを受けとめて着替えながら英二は訊いてみた。
「今朝はどこに登る?」
「本仁田山の大休場で急登の訓練しようと思う。あと10日位で北岳だろ?急斜の雪に馴れとこうかと思ってさ」
本仁田山は奥多摩交番に近く、この青梅署からは車で1時間ほどになる。
だったら国村は本仁田山から御岳駐在所へ直行する方が良いだろう、笑って英二は提案した。
「そうだな、じゃあ俺さ?帰りは奥多摩駅から電車で戻るよ、その方が国村も直行できるだろ?」
「うん?そうだな、もう隊服も着ているしな…うん、そうしてくれると助かるよ」
「OK、こっちこそ助かるよ?帰りに野陣尾根とかちょっと行けるしさ、」
話ながら着替え終えて、英二は救急法ファイルをデスクの上に出した。
持って行って電車で読みながら帰ってくれば、すぐ吉村医師に質問が出来る。
そうすれば青梅署に戻って着替え次第すぐに診察室へ行って手伝いもできるだろう。
戻ってからの手順を考えつつ登山ザックと救急用具の点検を始めた手許を横から国村が覗きこんだ。
「本仁田山はさ、宮田は吉村先生と登っていたよね、」
「ああ、先生と最初に登ったときにね。だから2ヶ月半前になるかな?」
答えながらもうそんなに経つんだなとすこし驚いた。
この青梅署で警察医を務める吉村医師は15年前に次男の雅樹を山の遭難死に亡くした。
その死を自責した吉村は自身も山ヤでありながら登山を辞めてしまっていた。
そんな吉村医師に英二は「奥多摩の山を教えてほしい、そして山岳救助を無事に務めるための知識を教えてほしい」と願った。
吉村医師が英二と登ることで英二の安全を守ることになる、そう決心して吉村は15年ぶりに登山を再開してくれた。
その最初の山が本仁田山だった、12月の半ば晴れた日だった。
「先生さ、あれからイイ顔になったよ。宮田効果だな、」
底抜けに明るい目が笑いながら英二に言ってくれる。
国村は吉村医師とは赤ん坊の頃からの付合いで雅樹もよく知っていた、そういう国村が言うと説得力が嬉しい。
英二は吉村医師を尊敬し本当に世話になっている、そんな吉村の手助けに少しでも慣れたなら。うれしくて英二は笑った。
「ありがとう、国村?おまえが言ってくれるとさ、うれしいよ」
「うん?そうか、ほんとのこと言ってるだけだけどね、」
話ながらも救急用具の中身を英二は手際よく確認を進めていく。
すべて済ませるとザックを背負いあげて国村に笑いかけた。
「よし、お待たせ。いこっか、」
「おう、待ったよ?早くいかないとさ、日の出に間に合わないよ、」
静かに扉を開けてふたり廊下へと出た。
冬用登山靴は踵の音がすこし鳴りやすい、気をつけて廊下を歩いて静かに青梅署の外へ出た。
そこは星明りかがやく白銀が透明な冬の夜の底に鎮まっていた。
「…きれいだな、」
あかるい白銀の輝きに英二は微笑んだ。
まだ昏い暁よりも先の時間、青梅の街を雪はやさしく白い手に覆ってねむりにつかせている。
見あげる星の輝きもどこか雪の銀色に似て、地上の雪と呼応するように瞬いていた。
きれいだなと見惚れている横から額を白い指が小突いて、テノールの声が笑ってくれた。
「ほら、ボケッとするのはね、まだ早いってば。山へ行くよ、」
「あ、ごめん。雪の街もさ、俺は好きだな。やさしい雰囲気でさ、」
歩きながら言うと細い目が英二を見、温かく笑んでくれる。
かるく頷きながら国村も言ってくれた。
「うん、そうだね。俺もね、雪の街は好きだよ。音が吸われて静かでさ、街も人も包まれている感じが良いね」
「くるまれて、か…国村もさ、表現が豊かだよな?」
「うん?そうかな、本でも読むせいかね?さて、シートベルト締めろよ、動くよ」
話ながら国村の四駆に乗ると、いつもどおりに静かな雪の早朝を走り始めた。
雪削るチェーンの音もまだ軟らかい雪に吸われて幾分しずまっている。
その音にふっと周太が青梅署に出張できていた2週間ほど前が懐かしくなって英二は微笑んだ。
「なに、宮田?楽しそうに笑ってるね、」
愉しげにテノールの声が訊いてくれる。
すこし微笑んで英二は口を開いた。
「うん、周太のこと想いだしてさ。こんなふうに国村の四駆に乗って、新宿まで送ったなって」
運転席から細い目が英二を見た。
まなざしは温かで懐かしげに笑って頷いてくれる。
「時間は今の真逆だけどね、あの日も雪が積もっていたな…うん、俺はね?あの日ちょっと、おまえに惚れたね」
「俺に?周太の間違いじゃないの?」
「それは別次元の話だね、比較するんじゃないよ、」
さらっと気軽に笑い返した英二に、国村も底抜けに明るい目で笑って答えてくれる。
そして明るいテノールの声が言葉を続けてくれた。
「おまえさ?あの日は朝、俺に脅かされたろ?でも、夕方には大きな心で湯原を受けとめていた。
そんな短い時間で宮田はさ、ひとつ器をでかくした。あんな短時間で出来るのは凄いだろ?
しかも、おまえさ。あの後で行先も言わないで『ちょっと行きたいとこある』ってだけを俺は言った、でもさ?
おまえは俺に行先を訊かなかった、あんだけ俺に脅かされた後なのにね?で、そういう素直なおまえにさ、俺はちょっと惚れたよ」
あの日の朝、英二は国村から「復讐」によって諭された。
理由は英二が周太に体を無理強いしたことだった、そんな英二に国村は厳正な問いを投げつけた。
国村は嫌がる英二を無理やり組伏せて、周太が英二に与えられた恐怖を見せつけながら怒りを叩きつけてきた。
大らかな怒りと気付かせたい優しさで「心から望まず体を繋げても傷がつく」と明確に英二に解らせてくれた。
あのとき国村は本気で英二にぶつかってくれた、あんなふうに真剣に向き合ったくれたことが英二は嬉しかった。
この2週間ほど前の記憶に微笑んで英二は口を開いた。
「国村、俺さ?あんなふうに真剣にぶつかって貰ったのってね、周太しかいなかったんだ。
前に話した警察学校の脱走のとき、あのとき周太は真剣に俺にぶつかってくれた。それが嬉しかったんだ。
で、さ?あの朝は国村、本気で怒って俺のこと懲らしめてくれただろ?そういう本気がね、うれしいんだ…ありがとうな、」
きれいに英二は国村に笑いかけた。
運転席から温かい視線を投げて国村も愉しげに笑ってくれる。
「滅多に怒らない俺を怒らせたんだ、そりゃきっちりオトシマエつけさせてもらったよ。
肚に一物もっちゃったらさ、生涯のアンザイレンパートナーなんか出来ないだろ?そんなの御免だね、俺はおまえが良いよ」
あんなに怒らせることをしても国村は英二を信じて怒って、そして許してくれている。
すこし荒っぽくても寄せられる信頼がうれしい、英二は微笑んだ。
「うん…ありがとう、ほんとにさ、」
「こっちこそだよ、どういたしまして、だ。さ、着いたよ、」
からり笑うと国村はエンジンを停めた。
安寺沢の登山口で車を降りるとクライマーウォッチで確認した時刻は5時半だった。
登山口でアイゼンを履くと国村が愉しげに笑って提案してくれる。
「よし、最低でも45分で登頂するよ?俺は日の出を見たいんだ、いいね?」
「俺も見たいよ。おまえのペースで登ってくれ、着いていく」
ヘッドライトを点けながら答えると国村は頷いてくれた。
ぐるっと首を回して英二を見ると底抜けに明るい目で笑って頂上方面を指さした。
「よし。じゃあね、30分で行こう。急ピッチだけどさ、がんばれな?はい、スタート」
そうして登山道へ入って行くと樹林帯はまだ闇の底だった。
通過点の神社に入山の挨拶を済ませて急坂へ入っていく。慎重な足取りで緩やかにピッチと高度を上げながら進んだ。
「この山は標高は1,200mちょっとだけどさ。急に標高が上がるから結構きついよね」
「うん、でもおまえはさ?全然きつそうにみえないよ?」
「まあね、俺は小さい頃から慣れてるからさ。宮田こそね、まだ4ヶ月半だろ?
前を行く明るい声が笑って、さらり励ましてくれる。
まだここへ来て自分は4ヶ月半、けれどもっと前からいたような不思議な想いにさせられる。
ふっと微笑んで英二は口を開いた。
「うん、まだ4ヶ月半なんだよな。でも、もっと長くここに居る気がする。国村ともずっと友達みたいなさ」
雪に抱かれた空気が頬に冷たい、こうした山の冷気も「いつもの」と感じるようになっている。
そして「いつもの」ように前を登る友人が透るテノールの声で答えてくれた。
「だね、俺もそうだよ。おまえのことはさ、ずっと知っていた気がするね。で、いちばんよく解る気がするよ」
肩越しにふり向いた底抜けに明るい目が笑ってくれる。
こういうのは嬉しい、素直に英二は笑った。
「うん、…そうだな。俺のことはさ、おまえがいちばんよく知ってる、きっとね」
吐く息が白い靄になるのをヘッドライトに見ながら登っていくと空が開けてきた。
植林帯を抜けて雑木林に入ったな、そう思って梢を見あげると繊細に交される冬の枝から透ける星空が見える。
雪凍る枝にふる星明りが穏やかな光にきれいだった、静謐のなかアイゼンで雪ふむ音を聴きながら英二は微笑んだ。
夜闇のむこうに見上げていた山が目の高さになっていく、そして大休場尾根へと入った。
「ここはね、一枚岩みたいな露岩のあたりだ。アイゼンの刃を傷めないようにね」
「うん、ありがとう。ここって、雷撃死の現場になったんだよな、」
英二の言葉に前を行く肩がすこし動いて、肩越しに細い目が英二に笑った。
底抜けに明るい目が温かに笑んで国村も応えてくれる。
「春の事故だったな?発生したとき俺も話を聴いたよ、たしか雹が降った日でさ。側撃された方が火傷を負ったんだよね、」
「うん、4月下旬の事故だ。あのときは寒冷前線の通過に伴う『界雷』だったんだよ、積乱雲と雹がシグナルになる。
季節の変わり目は危険なんだ。そして亡くなった方は即死だった、けれど火傷は一切ない…自然の力って不思議だと思ったよ、」
「ほんと不思議だよな。にしても、おまえさ?吉村先生の講義をしっかり記憶してるんだね。さすが真面目宮田だね」
温かいトーンの声で率直に褒めてくれる。
努力を認めてもらえる温もりに英二は微笑んで、思ったままを答えた。
「俺からお願いして時間作って貰ってるんだ、ひとつも忘れたくないよ、」
「うん、そういう謙虚さはね?山ヤには必要だよ。やっぱ、おまえも山ヤだね、」
最高の山ヤと賞賛される国村が率直に褒めてくれる。
本格的に山と向き合って4ヶ月半の自分にとって、こんなに嬉しいことはない。素直に英二は笑った。
「国村に言われると嬉しいな、俺、もっと頑張ろうって想えるよ?」
「おう、頑張ってくれよ?俺の専属レスキューやってもらうんだからさ、」
山の暁闇のはざまを笑いあいながら登っていく。
花折戸尾根との合流地点を過ぎて、しばらく歩くと傾斜がゆるんだ。
ここは雑木林に囲まれ寛いだ雰囲気になるけれど、このあと最後の急登を超える。
ふっと英二はここで立ち止まった。
―…雅樹もこの奥多摩でね、自殺遺体を見た事があったんです。まだ小学校6年生でした
私と一緒に登山している時です。その山道を囲む林の中に、縊死自殺遺体と出会ってしまったんです…
病気で苦しまれていたそうです…だから自死を選ぶと書かれていました…私は医師としての無力を感じました
この方が縄にかかる前に会えていたら…そんな想いが苦しかった…雅樹は私に言いました、
『お父さん。あの人もね、生きて幸せに笑ってほしかったね』そして重ねて私に訊いたんです『医者になる事は難しい?』
そうして雅樹は、この奥多摩の山で医師になる決意をしたんです。あの12歳の日に、私と歩いたこの奥多摩で
吉村医師とこの本仁田山に登ったとき、この場所で吉村は大切な記憶を話してくれた。
吉村医師が誰より愛した息子、雅樹が山ヤの医師になろうと決意した大切な場所。それがいま目の前に広がる雑木林だった。
「…ここでさ、雅樹さんは医者になるって決めたんだよね、」
透明なテノールの声が隣から言ってくれた。
穏やかな声に頷いて英二は微笑んだ。
「うん、俺は吉村先生からね、ここでその話を聴かせてもらったよ…ほんとうに雅樹さんは、先生の宝物だったんだ」
「ほんとにそうだね…俺は雅樹さん本人から、ここで聴いたんだ。小学校入ったばっかの頃にさ、一緒に登った時にね。
雅樹さんもさ、生きる道と誇りを山に見つめたひとだよ。俺はね、そんな雅樹さんが大好きだったんだ、今も大好きだよ」
青い暁闇がおりる雪の雑木林は静謐の底にねむっている。
この静謐には12歳の雅樹が抱いた優しい想いも記憶も、安らかなねむりに抱かれていてほしい。
こんなふうに「山」は、いったいどれだけ多くの想いと記憶を抱いて佇んでいるのだろう?
やさしい想いと哀切を想いながら、ふたりヘッドライトの下で静かな笑顔で互いの目を見た。
そして頂上手前の急斜を白い雪の息と登りきると、本仁田山頂に辿り着いた。
標高1,224.5m本仁田山。
南面側は眺望がいい。朝を待つ紺青色の空にねむる、銀の山波をみはるかして英二は微笑んだ。
尾根の連なりがまとう雪に星明りと呼応していく、静謐がよこたわる奥多摩の黎明が響くように美しい。
きれいだと、見つめている隣では国村が登山グローブを外している。
そして三角点の前に立つと、いつものように三角点にふりつもった雪へ手を押し込んだ。
「よし、俺が一番乗りだ」
愉しげに笑って自分の手形を眺めている。
横から覗きこむと今朝もきれいな手形が三角点上に描かれていた。
「ほら、宮田もやんなよ、」
「うん、ありがとう、」
勧められて素直にグローブを外すと国村の手形に英二は掌を重ねた。
大きくても繊細な印象の手形に長い指の手形が重なって刻まれる。
ふたつの手形を見て国村は満足げに細い目を笑ませた。
「おまえが二番乗りだよ、宮田。さて、飯食おうよ。日の出まであと30分位だよね?」
「うん、たしか6時33分だったよ、」
話ながら雪を除けて簡単な露営地をつくる、こんな作業もずいぶんと馴れた。
英二は山岳経験自体が警察学校の山岳訓練が最初になるから、まだ1年も経っていない。
それでも卒配後は毎日のように山へ登り、国村と親しくなってからは毎日こんなふうに山と親しんでいる。
「今日はさ、俺もカップ麺を持ってきたよ?だから、はい、国村」
「ありがと、ちょうど腹減ってるんだ。うれしいね、俺は2個食ってくよ。このまま出勤だしさ」
「うん、そうしなよ。俺も食おうかな。北岳はさ、3日計画で2晩ともテント泊だろ?」
「そ、雪中のビバークだ。飯も自炊だよ、あったまるメニューにするんだ。でさ、ゲート通過は6時前だからね?」
すっかりなれたクッカーで湯を沸かし、ザックに座りこんで友人と登山計画の話をする。
こんな生活は1年前には想像もつかなかった。警察学校に入って今までの11ヵ月弱の時間は自分を変えた。
こんなに人生が大きく変わった事は23年間で初めてになる。
そして1月の冬富士登山で遭った雪崩。
あの吉田大沢で起きた表層雪崩によって英二はまた大きく変えられた。
あの雪崩で国村は軽度の打撲を負った。
軽傷だった、けれど「山に受傷させられた」事実が最高の山ヤの魂をもつ国村の誇りを傷つけた。
国村は受傷を秘匿して誇りを守るよう英二に告げた、そしてもし秘匿を破れば「裏切りの代償」に英二の体を奪うと宣言した。
そんなふうに「山ヤの誇り」と「山を登る自由を守る体」を天秤にかけてアンザイレンパートナーの理解を求めてくれた。
それは英二にはよく理解できることだった、だから素直に頷いて国村の想いを受入れた。
けれど、そのことを英二は不用意に周太へと話してしまった。
あの雪崩の発生を知った周太は吉村医師に電話して、いますぐ青梅署へ行って英二を待ちたいと願ってくれた。
そして吉村医師は弾道調査実験のテスト射手として周太を呼び寄せ英二と逢わせてくれた。
その夜に英二は不用意に周太へと「裏切りの代償行為」の話をしてしまった。
そして実験の2日目に周太は国村へ銃口を向けてしまった、英二の体を守りたい一心で周太は威嚇発砲までしてしまった。
英二を「体を無理強いする」ことで傷つけられたくなくて、国村の宣言を撤回させたくて銃口を向け脅迫してしまった。
そうして周太は「威嚇発砲」と「拳銃による脅迫」のふたつの罪を犯してしまった。
けれど国村は、その罪を2つとも周太の肩から自分の肩へと背負ってしまった。
国村は英二たちと同年の23歳だけれど高卒任官で4年先輩な上、特進のため2階級上の警部補になる。
その立場を利用して後輩で階級も下の周太に対し「命令」することで口封じをしてしまった。
―俺がね、湯原に「命令」したんだよ、俺の言葉を肯定も否定もするなってね
周太を新宿へ送った帰りのまま国村は四駆を富士山麓の凍れる湖へと走らせた。
全面凍結する湖の雪面と夜に浮かぶ冬富士を穏やかに見つめて国村は「命令」の真相を話してくれた。
―最後の狙撃のとき、俺が練習の癖で2連射した、その2連射目でザイルは切断された
威嚇発砲の事実なんか無かったんだ、俺が2連射した発砲音が谺になって、あのとき谷に響いたんだ
そしてね、もちろん脅迫なんてあるわけがない
真面目な湯原巡査がさ、2階級上で4年先輩の国村警部補に「脅迫」なんて出来るワケなんかないだろ?
そんなふうに国村は「命令」をして周太を従わせることで、周太が犯した2つの罪の全てを自分が背負いこんだ。
話してくれた白いミリタリーマウンテンコートの背中は、いつも以上に広やかに大きく誇り高かった。
その誇らかな背中に英二は透明なテノールが謳いあげた旋律を見つめた。
季節は色を変えて幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 君を想う…
微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も 降り注ぐ木洩れ日のように君を包む
それは僕の強く変わらぬ誓い
国村は本気で周太を愛している。
愛するひとを守るために罪を背負った背中、その無垢な想いにこそ誇らかに国村は立っている。
真直ぐに純粋に愛している、最高の山ヤの誇り全てを懸けた大らかな真実の想いで国村は見つめている。
その背中は広やかで、まばゆくて、美しかった。
そして周太が犯した罪の本当の罪人は英二だと、もう自分で解っている。
それを国村も解っている、解っているからこそ愛する人とアンザイレンパートナーの罪を軽やかに背負ってくれた。
大切なふたりを守ることに誇らかに立って最高の山ヤは、かけらも揺るがず笑ってくれている。
そんな広やかで大きな背中はまぶしかった、見つめて、涙がこぼれた。
美しい背中と冬富士を見つめて、こぼれていく涙に尚更に自分の浅はかさが呪わしかった。
あの威嚇発砲の日、英二は独占欲のままに狙撃の銃座から下山してきた周太の掌を繋いだ。
下山してきた周太と国村には繋がりと優しい温もりが感じられた、そんなふたりに見惚れて焦った自分がいた。
そして浅はかな独占欲と独善的な愛情のまま周太を無理やりに抱いて、周太の想いを踏み躙ってしまった。
英二の「体」を守る為に罪を犯した周太の「体」を英二は大切に扱うことを怠って、周太の信頼もすべて壊してしまった。
けれど自分ではそれに気づけなかった、国村に組み伏せられ怒りを叩きつけられるまで解らなかった。
組み伏せられて容赦ない怒りに晒されて、そして初めて気がついた。
自分が周太にしたことは「強姦」そして深い傷を負わせてしまったこと。
そして国村の想いも信頼もすべて踏み躙ってしまったこと。
そして、そんな二重の裏切りを犯した自分を、周太も国村も受けとめ許そうとしてくれていること。
このことを、この2週間ほど英二は見つめ考えてきた。
いま目の前では暁闇と雪の底でクッカーの火が水を温めていく。
ゆるやかに沸いていく水の音と雪にゆらめく火の赤を見つめて、英二は静かに口を開いた。
「国村…今からさ、ちょっと独り言を話すよ?」
まなざしの温もりが英二の横顔を撫でた。
きっと底抜けに明るい目は真直ぐに英二の目を見つめてくれている。
温かいまなざしを感じながら英二は、クッカーの炎を見つめたまま微笑んで口を開いた。
「俺は、唯ひとり愛するひとを傷つけてしまった。醜い独占欲の為に体を傷つけて、心まで傷つけた。
それでも俺を愛そうとしてくれているよ。けれど、俺の愛するひとは心から愛しあっている人がいる。その相手は俺じゃない」
横顔を撫でてくれる視線の温もりが、かすかに揺らめいた。
どうか聴いてほしいよ?視線の主に微笑みながら英二はクッカーの火を見つめたまま続けた。
「ふたりの想いは、きれいだ。なにか不思議な繋がり、そう想えて仕方ないほどにね、きれいでさ。
最初は嫉妬した、羨ましかったから。けれど今は…心から守ってあげたい、ふたりの想いも、ふたりのことも。
きっとふたりの繋がりは、俺には踏み込めない領域だってことも解っている。だから俺の居場所が無くなるかもしれない、」
ぱさりと、背後の樹林から雪のおちる音が響いた。
うす青い暁闇にねむる山の頂の、やさしい静謐の底に微笑みながら英二は想いを言葉に紡いだ。
「けれど、それでもいい。ふたりとも心から大切だから、大切なふたりの幸せな笑顔が見れるなら、いいんだ」
ぱさり、静かな音がまた響く。
英二はヘッドライトを外して明りを消した、その隣も同じように消してくれる。
そして静謐の青い闇とクッカーの炎の赤だけの世界で、そっと英二は想いを続けた。
「俺はね…愛するひとを強姦してしまった。その罪の重さにようやく気付いてきた、俺は。
あのとき愛するひとは、他のひとに純粋無垢な想いを抱いて…どこか気がついていた、けれど。
ばかな俺はね、自分だけ見てほしくて体を繋げばって、さ。純粋な想いを踏み躙って傷つけて、俺は体を奪ったんだ。
初めて抱いたときも傷つけた、何も恋愛を知らないまま俺を信じて、俺の笑顔を願って抱かれてくれた、泣きながら。
その涙と血の痕を翌朝に見つめて俺は誓ったはずだった、二度と傷つけないと誓ったはずだった。けれど俺はまた傷つけた…」
目の底から熱が生まれてくる。けれど英二はゆっくり瞬いて熱を封じ込めた。
想いを心へ落としこんで綴じこめて深めると、英二は静かに言葉を続けた。
「いま思い知らされるよ、俺の愛がなんだったのか?
体を重ねてしまえば心も掴まえられる、そんな傲慢で自分中心の狂った愛だった。
自分の想いしか見ていない、そんな独善的な愛情は本当には相手を見ていなかった。だからね、強姦なんて出来たんだ」
クッカーの火を見つめる自分の横顔を、まなざしは温かいまま見つめてくれている。
こんな隣が座ってくれている幸せに微笑んで、穏やかに英二は青い暁闇の底で口を開いた。
「あのとき、愛するひとは、どんなに傷ついただろう?絶望しただろう?
あのとき…大切な面影を心に見つめながら、体は俺に無理矢理に犯されて…残酷だ、本当に俺は狂っていた。
そうやって俺はね、愛するひとの信頼も…もうひとりの信頼も踏み躙ってしまった。この罪は一生消えない、そう解っている」
― 体を繋げなくても心は繋げられる…心繋げない体の繋がりよりも、俺は、こっちを選ぶ
周太の体を無理強いした日の夜、国村が英二に告げた言葉。
いまは国村の言った想いがよく解る、遊びじゃないなら本気で大切にしたいなら、何をいちばんに考えるべきか?
この選択を自分は間違えていた、この過ちは取り戻せるものじゃないと解っている。
取り戻すことは出来ない、でも償っていくことは出来る。おだやかな覚悟に英二は微笑んで唇をほころばせた。
「罪は消えない、そして俺の愛する想いも消えない。だから俺は、愛することで償いをしていきたい」
横顔の頬を温めてくれる眼差しがすこし動いた。
そして透明なテノールの声が訊いてくれた。
「愛することで、償いをする?」
しずかな問いかけに英二は微笑んで頷いた。
おだやかな想いにクッカーの火を見つめてまた想いを英二は紡ぎ始めた。
「俺が愛するひとは10歳の純粋無垢なままで、ずっと俺の夢を支えてくれた。
だからこれからは…周太には、夢や人と出会わせてあげたい。今度は俺が周太が望みのままに生きる姿を支えたい。
それが、たとえ俺の居場所を失うのであっても構わない。ただ守りたい、俺を信じて13年の孤独を破ってくれた周太を守りたい」
クッカーの湯にちいさな水の玉が沸きあがっていく。
うまれてくる泡のきらめきを見つめながら英二は穏やかに微笑んだ。
「周太が生きる道を見つけるために、俺は傍で支えたい。
だから婚約もそのままにした、この立場がある方が周太は俺に甘えやすいから。
体のことは周太が本当に望まない限りはしない、俺はただ家族の立場に今はなっていたい。
周太が誰かと恋愛するのも自由だ。周太が誰かを愛するなら、その愛を叶えてやりたい、守ってやりたい。
周太が誰かと想いを通わせて幸せに輝いていく、そんな笑顔をね、俺も見たい。だから周太の想いを守ってやりたいんだ」
自分の唇からこぼれていく心の想いたち。
その想いの温もりに心が充ちていくのを英二は静かに見つめていた。
「周太は、自由だ。周太の自由をね、俺は誇りを懸けて守りたい」
静かに想いを見つめながら、きれいな低い声で英二は宣言した。
いま宣言した想いが温かい、不思議なほど充ちたりてくる想いに英二は笑った。
そしてクッカーの赤い炎を見つめたまま、穏やかに充ちる想いを言葉にのせた。
「男として、山ヤとして。すべての誇りを懸けて俺は、唯ひとり愛する周太の自由を守りたい。
そしてね、周太が愛する人のことも俺は守りたいんだ。すべての誇りを懸けて俺は、ふたりの想いも生命も守りたいんだ」
切長い目に大らかな笑顔が生まれた。
大らかな笑顔のまま英二は、ゆっくり隣をふりむいた。
その視線の先には温かい純粋無垢な瞳があった、美しい瞳の大切なアンザイレンパートナーを英二は真直ぐに見つめた。
いまは独り言だよ、でも聴いてほしい。そんな想いの真ん中へと英二はきれいに笑った。
「周太が国村を選んでも、それが周太の望みなら支えたい。
そしてね、国村が周太を愛するなら、俺はすべて懸けてもね、ふたりの想いを守りたい。
愛するひと、アンザイレンパートナー。どちらも俺には大切で、ふたりの幸せも笑顔も守りたい。
だから俺に何も言ってくれなくても構わない、秘密が想いを守るなら俺は知らなくていい、ふたりが幸せならそれでいい」
底抜けに明るい目は、ただ真直ぐに純粋無垢な想いを映して見つめ返してくれる。
こんな目をする男が自分のアンザイレンパートナーでいてくれて幸せだ。
そして自分の愛するひとの想いの相手が、こんな目の男だと言うなら本望だろう。
「秘密が、想いを守る。ほんとうに、おまえもそう思うんだね?」
「うん、いまはね、そういうの解るんだ。知るべきこと、そうじゃないことがある、」
自分だけの居場所がずっと欲しかった。
けれど今、こうして大らかな想いに掴んだ掌を開いていく瞬間に充たされていくものがある。
掌を開いていく自由な想いに英二は微笑んだ。
「俺は周太のお父さんの合鍵を受け継いでいる、だから俺はね、いまは周太の父親でいればいい」
だからきっと―そんな予兆がなにかしら温かいものと生まれて萌え出ずる。
萌え出す温もりを見つめて、きれいに笑って英二は国村に真直ぐに告げた。
「周太の父親の代わりを務めながら俺は周太を守っていく。
代わりを務めることで俺はね、周太のお父さんの想いの真実を見つめられるはずだ。
そして見つめた想いを俺は周太に示してあげたい…周太がお父さんの軌跡を追うことは厳しい、だから守る立場に徹したい。
そしていつか、周太が軌跡を追う危険な時間も終わりを迎えるだろう。そのときにはね、また俺はどうするか考えていくよ」
告げ終えて、英二は隣にならんだ純粋無垢な目を見つめた。
見つめた先で無垢な目は底抜けに明るいままで、温かく英二を見つめ返している。
そして透明なテノールの声が青い暁闇に低く響いた。
「『Le Fantome de l'Opera』…でも、怪人は父親になった。そんな感じだね、」
邦題『オペラ座の怪人』フランス文学の恋愛小説。
周太の父の蔵書にもあった、けれどなぜか冒頭と最後を遺して大半のページが切り壊されて「欠落」している。
その欠落を読みたくて周太が自分で買った本は、警察学校の初めての外泊日に書店の高い書架から英二が取って渡した。
そして英二も「欠落」の謎を知りたくて買って読んでみた。けれどまだ「欠落の謎」には辿りつけていない。
だから内容は解っている、穏やかに微笑んで英二は答えた。
「うん、…俺もね、自分で想ったよ。怪人と俺の恋愛は似ているってね。
膝まづいても愛を求めてしまう、愛する人を閉じ込めても離せない独善的な愛情だ、どこか狂っている。
自分の愛だけに盲目になって…そして俺はね、気づいたんだ。盲目で自分の想いしか見つめない俺はね、俺の母親と同じだ。
理想の『美しい息子』しか愛せない、汚れたら目を背けて本当の姿を見ようとしない…心を見つめない、身勝手に欠け落ちた愛だ」
目の前でクッカーの湯が沸騰を始めた。
ちょっと笑って英二は国村のカップ麺に湯を注ぐと、自分の分にも湯を充たした。
そしてまた水を入れて火にかけると、ゆるやかな水の音に心を傾けて微笑んだ。
「俺はね、母親のそんな愛情から逃げて、ここへ来たよ。
見つけた誇りに生きるため周太を守るために母親を捨てた。そのことを欠片も後悔していない。
だからね、気づいて愕然としたんだ…俺は母親と同じに周太を愛していた、それに気がついたときはね、苦しかったよ」
雪と樹木の香に温かい匂が立ち昇る、ふっと時間を感じて英二は蓋を開いた。
ほどよく出来上がった麺に笑って「食べながら話そう?」と目で促すと箸を割った。
熱いスープと麺に肚が温まる、暁闇の山に佇んで摂る簡素な朝食の醍醐味に英二は微笑んだ。
「だから俺はね、母親と同じになるのは止めようって思った。
怪人のように失った愛に泣くことも嫌だと俺は想った、そして気がついたんだ。
俺の首に懸けられた周太のお父さんの合鍵、この合鍵に籠められた願いと祈りが俺にはある。俺はこの為にいるって思えた。
ひとつ目をさっさと平らげて国村が英二を見つめた。
その底抜けに明るい目が穏やかに微笑んで訊いてくれた。
「いつも宮田が、首に懸けている鍵…宝物だって言っているな、」
「うん、俺の宝物なんだ。この鍵で俺は家の扉を開けるんだ、そしてきっと、周太のお父さんの想いも」
川崎の家の書斎、そこにあるオーク材の重厚な書斎机。
あの机の抽斗には周太の父の日記帳が眠っていた、その抽斗の鍵はこの合鍵でしか開けない。
周太の父の合鍵に籠る想いを見つめながら英二は口を開いた。
「この合鍵にはね、息子と妻の笑顔の許へ帰って幸せにしたい、そんな祈りがあるよ。
きっと俺は、この祈りを叶えるために周太に出逢ったのだろう。だったら祈りを叶えてあげたい、そう素直に想えた。
だから俺はね、周太の父さんの代わりを務めることで想いを見つめてあげたいんだ。こんな俺だけどね、受けとめてあげたい」
英二もひとつめを平らげると、ほっと息を吐いた。
温かなクッカーの炎を見つめて、そして隣に座る大切なアンザイレンパートナーに笑いかけた。
「俺の『オペラ座の怪人』はね、国村?…怪人は恋愛を手放すことによって、大きな愛を抱けるんだよ。
そして大らかな愛情でね、真直ぐに歌姫と幼馴染の恋を祝福する。そんな穏やかな幸せに怪人は、笑って暮らすんだ」
きれいに笑って英二は告げた。
そんな英二を見つめている底抜けに明るい目は、ふっと穏やかに微笑んだ。
そして透明なテノールの声がやわらかく告げてくれた。
「うん、…その解釈は正しいね。原作もその通りだよ?
歌姫は幼馴染と再会してね…再び恋におちた。その恋と愛に命を懸けて、幼馴染は彼女を救いに行った。
怪人は、そんな彼の姿に「捨て身の愛」に気づいた…だから歌姫の手を離して幼馴染の許へ向かわせたんだ」
いま「再会」と国村は微笑んだ。
たった2文字の言葉に英二は想いを見つめられると思った。
きっと周太と国村は幼い日に出逢ったことがある、それは周太の父が生きている頃の話だろう。
周太の父は山を愛して警視庁山岳会にも所属していた、そして奥多摩交番にも寄っていたと後藤副隊長からも訊いている。
その後藤の友人の子供である国村は、幼いころから奥多摩交番にも顔を出していた。
きっと奥多摩交番の近くの森でもよく遊んでいただろう、そこで周太と出逢ったことがあっても不思議はない。
ふたりの想いは「再会の恋」それも純粋無垢なままの初恋だった。
それも「山」のどこかで出逢った初恋、だから国村はさっきも「別次元」だと言ったのだろう。
いちばん「山」を愛している国村が「山」で恋におちたのなら。それはきっと最高の唯ひとつの愛になる。
そんな唯ひとつの愛で周太を国村が見つめているのなら?
すべてが納得が出来る、なぜ周太を傷つけられた国村が怒りを剥きだしにしたのか理解できる。
けれど。周太は13年前に父を失った衝撃で記憶を忘れていた、だから英二を初恋だと思っていたのだろう。
それでも今はもう、周太には記憶は想いと一緒に甦っている、そして初恋を想い国村を想っている。
すくなくとも13年は眠らされていただろう初恋、それなら甦った今こそ幸せにしてあげたい。
甦った周太のやさしい幸せの記憶を守ってあげたい、守りたい。そんな確信が静かにおちて英二は微笑んだ。
静かな英二の微笑みを見つめて細い目を笑ませると、テノールの声は透明に言ってくれた。
「なぜ歌姫と幼馴染が再会できたのか?
歌姫に恋した怪人はね、彼女に歌のレッスンをした…そのお蔭で彼女は舞台に立つことが出来た。
その舞台を見ていた幼馴染が彼女に気がついて、そして子供の頃の恋と愛を蘇らせることが出来たんだ。
怪人が歌姫に恋をしなければ、ふたりの恋愛は再会出来なかった…そして怪人が愛に気づけなければ再会の恋も、壊されていた」
怪人のおかげで「再会の恋」は甦った。そう国村は言ってくれている。
英二も奥多摩への配属を望み、周太を奥多摩へ再び訪れさせた。
そうして周太は奥多摩で再び国村と廻り逢い、記憶と初恋を蘇らせることが出来た。
そのことを国村はきちんと気づいて言ってくれている、そんな繊細で豊かな想いの視点が温かい。
やさしい温もりに微笑んで、おだやかに英二は訊いた。
「怪人のおかげ、って言ってくれるんだ?」
「うん、そうだろ?怪人がいなきゃさ、ふたりはずっと逢えないままだ」
クッカーの湯がしずかな音をつぶやき始めていく。
すこしだけ明るんだ紺青の星空のした、並んで座りながら湯の音を見つめる時間はどこか温かい。
温かな時に座って国村は英二を真直ぐに見つめて、きれいに笑った。
「きっとね、歌姫も幼馴染も、怪人のことを心から大好きでね、大切に想っているはずだ。
そしてね、歌姫は歌姫なりの想いで怪人のことも愛している。唯一の相手では無いかもしれない、けれど想いは真実のはずだ。
辛い運命に没落して幼馴染と離されて、彼女は幸せを諦めかけた。そんな彼女の心に愛する幸せを蘇らせたのはね…怪人の愛だろ?」
周太は国村との恋を蘇らせている、けれど英二への愛も失っていない。
そして心から周太も国村も英二を大切に想ってくれている。
おだやかに響くよう返される想いが温かい、幸せで英二は大らかに、きれいに笑った。
「うん、ありがとう。きっとね、怪人はさ?すごく幸せだよ…初めて心から充たされて、幸せだ」
「そっか、…ならさ、大丈夫だよ?」
頷いて国村は温かな眼差しに英二を見つめた。
見つめて真直ぐに微笑んで、透明なテノールの声が言ってくれた。
「自分の信ずるように愛する人に接して行けばいい。
真直ぐで本当は繊細で優しい、それがおまえだ。おまえなら出来るよ、本当に笑顔にさせてやれる。
そして俺はね。ほんとうはさ、全部おまえに話したいとも想うよ。やっぱり俺は、おまえが大好きだからね。
でもね、山の誇りに懸けた秘密は、これだけは話せない。俺は山をなにより愛している、だから『山の秘密』だけは言えない」
話せないんだ、ごめんよ?
そんなふうに底抜けに明るい目が笑ってくれる。
別に構わないんだと英二も目で答えながら、クッカーに沸いた湯を2つめのカップ麺にそれぞれ充たした。
「うん、大切な秘密なんだろ?ならね、きちんと大切にしたらいい。
俺に遠慮はいらないんだ、自由にしてほしい。俺はね、国村の誇り高い自由が大好きだ。そして周太にも自由に生きてほしいよ」
自分を重荷にしないでほしい、負担にはなりたくない。
ただ自由に生きて輝く姿を見せてもらえたらそれで良い、そんな願いに英二は微笑んだ。
そんな英二の笑顔に国村は、楽しげに幸せそうに笑ってくれた。
「おう、自由に大切にするよ?…うん。ありがとな、宮田」
「うん、大切にしてほしいよ?…はい、3分たったよ。でさ、北岳の時にはね、特別に準備するものってあるかな?」
そんなふうに他愛ない会話をしながら、2つめのカップ麺を啜りこんだ。
そして食べ終わって片づけると、今日、最初の曙光が奥多摩の山波遠くから昇り始めた。
青い暁闇が朱色と金色かがやく暁の空へと遷ろっていく、刻々と生まれくる光を英二は携帯の写真に撮りこんだ。
To :湯原周太
subject:雪の朝
添 付 :本仁田山頂からの朝陽にそまる雪景色
本 文 :おはよう、周太。朝早く雪が降ったよ、今朝も国村に起こされて本似田山に登ってきた。
いつも通り三角点で手形を押して、カップ麺食ったよ。朝陽がきれいで見せてあげたかったな。
次に周太と再会した時は、前とはすこし違う立場での再会になる。
もうキスは唇には出来ない、けれど額や頬へのやさしいキスは贈ってあげられる。
ただ温もりに抱きとめることも、掌を繋いで温めてあげることも出来る。
そんなふうにただ、やさしい温もりを周太へと贈ってあげられたらいい。
そんな温かな想いをこめて英二は、朝陽そまる雪山の写真を周太へと送信した。
(to be continued)
【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】
【ピアノ編曲版「叙情詩」http://www.youtube.com/watch?v=jc0C0UUrgWo】
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