May teach you more of man,
第86話 建巳 act.17 another,side story「陽はまた昇る」
この窓は桜が見える。
「きれい…」
ひとりごと微笑んで、つい想ってしまう。
ここは祖父と祖母と、父が見た窓だから。
「きれいだろ?よく湯原教授もそうして見てたよ、周太くん似てるんだな、」
低いくせ朗らかな声が笑ってくれる。
ひとりごと聞かれてしまったな?気恥ずかしさ微笑んだ。
「そうですか…祖父は桜、好きでしたか?」
「好きだったろうな、そこに植えたの先生らしいから、」
鳶色の瞳が笑って、ことん、デスクにマグカップ2つ置いてくれる。
ほの甘い芳香くゆらせて、この研究室の主は言った。
「まだ先生が学生の時に、勝手に植えたって仰ってたよ。意外とオモシロイことするだろ?」
勝手に植えたんだ?
たしかに意外で、驚いたぶん声が出た。
「あの、田嶋先生がじゃなくて、祖父が勝手にしたんですか?」
あれ、変なこと言っちゃった?
「あ、いえ…」
ほら目の前、鳶色の瞳が大きくなる。
こんなこと自分が言うなんて?困って、けれど祖父の愛弟子が笑った。
「あははっ、俺ならやりかねんって周太くんも思うんだ?」
「あの…いえ、」
声押し出しながら首すじ熱い、もう頬まで熱くなる。
こんな余計なこと言ってしまったどうしよう、困惑の真中で教授が笑った。
「俺もヤッたんだよ?どーせなら山桜のがイイなあ思ってさ、ほら?」
かたん、窓の鍵ひらいて武骨な手が押し開く。
節くれた指さき一点、朱い新芽こまやかな若木が見あげていた。
「馨さんと奥多摩で見つけた苗でな、山桜はゆっくり成長するのがイイだろ?」
研究室の眼下、若い山桜は新芽に萌える。
まだ若い幼い木、そこに積もらす歳月に尋ねた。
「何年生の時に植えたんですか?」
「俺が3年、馨さんが4年になる春だよ。湯原先生も笑ってたぞ?」
応えてくれる眼差しやわらかい。
きっと父との時間を見ている、そんな瞳が温かい。
「父は生きていたんですね、ここで…祖父も、」
この場所で父は生きていた、祖父も生きて笑っていた。
もう見ることはできない時間たち、それでも繋がる今に教授が笑った。
「そうだよ、これから周太くんもだな?」
「はい、」
頷いて温かい、ただ「これから」に。
もう昨日とは違う時間、場所、そこに香る紅茶に席ついた。
「まず、カニみそが苦手だな、」
「え?」
マグカップ口つけかけて止まってしまう。
どういう意味だろう?見つめた真中、鳶色の瞳にやり笑った。
「俺の弱点だ、さっき青木と言ってたろ?」
田嶋先生に無理難題されたら遠慮なくおいで?田嶋先輩の弱点を教えてあげますよ。
そんなふう森林学者に言われたな?思い出して笑ってしまった。
「はい、おっしゃられていました、」
「青木には食い物ネタ知られてんだよ、山岳部で同じ飯盒のメシだったろ?」
低いくせ明るい声が笑っている。
それくらい長閑な話題に文学者は続けた。
「でも新鮮なヤツは好きだぞ?イキのいいカニみそにカニ肉つけて食うと旨いんだ、酒が欲しくなる、」
「はい、っ、ふふっ、」
可笑しくて笑ってしまう、なんだか嬉しくて。
こんなふう父とも話していたのだろうか?想いに教授は言った。
「パリ第3大学とパリ高等師範、周太くんも行ってみたいだろ?」
書類一通、示してくれる。
さっき見たばかりの書面に、その校名を見つめて頷いた。
「はい、祖父の留学先ですから、」
頷いた口もと、あたたかな湯気に紅茶が香る。
このテーブルで父も祖父も紅茶を楽しんだ、そのままの馥郁に教授が笑った。
「じゃあ契約書、よく読んでからサインしろよ?」
差しだされた一通、一行一語ずつ心綴る。
2枚それぞれサインして、押印した1枚を差しだした。
「ありがとな周太くん、夢が叶うよ?」
「先生の夢?」
どんな夢なのだろう?
訊き返した真中で、鳶色の瞳そっと微笑んだ。
「馨と約束してたんだよ、カルチェラタンを歩こうってな、」
約束の場所、そこを自分が田嶋と歩く。
その続きを知りたい。
「先生、パリからスイスにも行きますか?」
※加筆校正中
(to be continued)
第86話 建巳act.16← →第86話 建巳act.18
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kenshi―周太24歳4月
第86話 建巳 act.17 another,side story「陽はまた昇る」
この窓は桜が見える。
「きれい…」
ひとりごと微笑んで、つい想ってしまう。
ここは祖父と祖母と、父が見た窓だから。
「きれいだろ?よく湯原教授もそうして見てたよ、周太くん似てるんだな、」
低いくせ朗らかな声が笑ってくれる。
ひとりごと聞かれてしまったな?気恥ずかしさ微笑んだ。
「そうですか…祖父は桜、好きでしたか?」
「好きだったろうな、そこに植えたの先生らしいから、」
鳶色の瞳が笑って、ことん、デスクにマグカップ2つ置いてくれる。
ほの甘い芳香くゆらせて、この研究室の主は言った。
「まだ先生が学生の時に、勝手に植えたって仰ってたよ。意外とオモシロイことするだろ?」
勝手に植えたんだ?
たしかに意外で、驚いたぶん声が出た。
「あの、田嶋先生がじゃなくて、祖父が勝手にしたんですか?」
あれ、変なこと言っちゃった?
「あ、いえ…」
ほら目の前、鳶色の瞳が大きくなる。
こんなこと自分が言うなんて?困って、けれど祖父の愛弟子が笑った。
「あははっ、俺ならやりかねんって周太くんも思うんだ?」
「あの…いえ、」
声押し出しながら首すじ熱い、もう頬まで熱くなる。
こんな余計なこと言ってしまったどうしよう、困惑の真中で教授が笑った。
「俺もヤッたんだよ?どーせなら山桜のがイイなあ思ってさ、ほら?」
かたん、窓の鍵ひらいて武骨な手が押し開く。
節くれた指さき一点、朱い新芽こまやかな若木が見あげていた。
「馨さんと奥多摩で見つけた苗でな、山桜はゆっくり成長するのがイイだろ?」
研究室の眼下、若い山桜は新芽に萌える。
まだ若い幼い木、そこに積もらす歳月に尋ねた。
「何年生の時に植えたんですか?」
「俺が3年、馨さんが4年になる春だよ。湯原先生も笑ってたぞ?」
応えてくれる眼差しやわらかい。
きっと父との時間を見ている、そんな瞳が温かい。
「父は生きていたんですね、ここで…祖父も、」
この場所で父は生きていた、祖父も生きて笑っていた。
もう見ることはできない時間たち、それでも繋がる今に教授が笑った。
「そうだよ、これから周太くんもだな?」
「はい、」
頷いて温かい、ただ「これから」に。
もう昨日とは違う時間、場所、そこに香る紅茶に席ついた。
「まず、カニみそが苦手だな、」
「え?」
マグカップ口つけかけて止まってしまう。
どういう意味だろう?見つめた真中、鳶色の瞳にやり笑った。
「俺の弱点だ、さっき青木と言ってたろ?」
田嶋先生に無理難題されたら遠慮なくおいで?田嶋先輩の弱点を教えてあげますよ。
そんなふう森林学者に言われたな?思い出して笑ってしまった。
「はい、おっしゃられていました、」
「青木には食い物ネタ知られてんだよ、山岳部で同じ飯盒のメシだったろ?」
低いくせ明るい声が笑っている。
それくらい長閑な話題に文学者は続けた。
「でも新鮮なヤツは好きだぞ?イキのいいカニみそにカニ肉つけて食うと旨いんだ、酒が欲しくなる、」
「はい、っ、ふふっ、」
可笑しくて笑ってしまう、なんだか嬉しくて。
こんなふう父とも話していたのだろうか?想いに教授は言った。
「パリ第3大学とパリ高等師範、周太くんも行ってみたいだろ?」
書類一通、示してくれる。
さっき見たばかりの書面に、その校名を見つめて頷いた。
「はい、祖父の留学先ですから、」
頷いた口もと、あたたかな湯気に紅茶が香る。
このテーブルで父も祖父も紅茶を楽しんだ、そのままの馥郁に教授が笑った。
「じゃあ契約書、よく読んでからサインしろよ?」
差しだされた一通、一行一語ずつ心綴る。
2枚それぞれサインして、押印した1枚を差しだした。
「ありがとな周太くん、夢が叶うよ?」
「先生の夢?」
どんな夢なのだろう?
訊き返した真中で、鳶色の瞳そっと微笑んだ。
「馨と約束してたんだよ、カルチェラタンを歩こうってな、」
約束の場所、そこを自分が田嶋と歩く。
その続きを知りたい。
「先生、パリからスイスにも行きますか?」
※加筆校正中
(to be continued)
【引用詩文: William Wordsworth「The tables Turned」】
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生々流転、その瞬きは
神無月二十三日、楓―Harmony
木洩日ゆれる、赤あわく、または黄金に。
昔のままに。
「今年もいい色だな、」
微笑んだ唇、かすかに甘く渋く香る。
落ち葉すこし足元かすめて、もう秋が来た。
なんどめだろう?
「訪れる者なくとも、秋は訪なう…だなあ、」
あわい甘い、ほろ苦いような香。
かすかな音かさり、葉擦れの光くすぐる。
この匂いが好きだ、音も光も、だから離れられない。
―こんな詩があったな、
ほら記憶かすめる、香に音に、そして光。
もう遠くなった日に教えてくれた、君の声。
『ワーズワースって、知ってる?』
The spirit of pleasure and youth‘s golden gleam-
And think ye not with radiance more divine
From these remembrances, and from the power
They left behind?
「…黄金やわらかな光、」
ほら唇が詞なぞる、自分の声で。
あの時間は確かにあったと、見あげる梢に色が揺れる。
「おじーちゃんっ!」
澄んだ声まっすぐ、落ち葉かさかさ響きだす。
あわい香ゆれて濃やかになる、その真ん中ぱっと笑顔はじけた。
「みーつけたっ!なにしてるの?」
笑顔ころころ薔薇色ほころぶ、小さな手いっぱい広げてくれる。
それでも前より近くなった笑顔に、右手さしのべ頭を撫でた。
「庭を散歩してたんだよ、透はひとりで来たのかな?」
「うん、もう2年生だもんっ、」
ちいさな手で数字つくって見せてくれる。
その指まだ幼くて、そのくせ長めで微笑んだ。
「透も指が長いんだな、」
ちいさな手そっと掌ふれる。
大きさは違う、けれど重ねた手ふたつ同じ指。
「おじーちゃんも長いねっ、」
ちいさな笑顔ことこと明るんで、その瞳まっすぐ自分を映す。
澄んだ黒い瞳どうしても懐かしくて、もう逢えない面影に笑いかけた。
「おまえの父さんも指が長かったよ、」
「そうなの?」
問いかけてくれる声が透る、ほら?懐かしい。
もう逢えなくて、けれど新たな命が手をつないだ。
「もっと教えてよ?おじーちゃん、バイオリンも、ねっ、」
ほら懐かしい言葉が笑ってくれる。
呼んでくれる名前は変わって、けれど懐かしい眼ざし自分を映す。
『もっと教えて父さん、ここのフィンガリングどうしたらいい?』
黄金きらめく秋の窓、真直ぐな瞳が問いかける。
あの時間また訪れるなんて思えなかった、けれど今、旋律ひそやかに生まれゆく。
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10月23日誕生花カエデ楓
神無月二十三日、楓―Harmony
木洩日ゆれる、赤あわく、または黄金に。
昔のままに。
「今年もいい色だな、」
微笑んだ唇、かすかに甘く渋く香る。
落ち葉すこし足元かすめて、もう秋が来た。
なんどめだろう?
「訪れる者なくとも、秋は訪なう…だなあ、」
あわい甘い、ほろ苦いような香。
かすかな音かさり、葉擦れの光くすぐる。
この匂いが好きだ、音も光も、だから離れられない。
―こんな詩があったな、
ほら記憶かすめる、香に音に、そして光。
もう遠くなった日に教えてくれた、君の声。
『ワーズワースって、知ってる?』
The spirit of pleasure and youth‘s golden gleam-
And think ye not with radiance more divine
From these remembrances, and from the power
They left behind?
「…黄金やわらかな光、」
ほら唇が詞なぞる、自分の声で。
あの時間は確かにあったと、見あげる梢に色が揺れる。
「おじーちゃんっ!」
澄んだ声まっすぐ、落ち葉かさかさ響きだす。
あわい香ゆれて濃やかになる、その真ん中ぱっと笑顔はじけた。
「みーつけたっ!なにしてるの?」
笑顔ころころ薔薇色ほころぶ、小さな手いっぱい広げてくれる。
それでも前より近くなった笑顔に、右手さしのべ頭を撫でた。
「庭を散歩してたんだよ、透はひとりで来たのかな?」
「うん、もう2年生だもんっ、」
ちいさな手で数字つくって見せてくれる。
その指まだ幼くて、そのくせ長めで微笑んだ。
「透も指が長いんだな、」
ちいさな手そっと掌ふれる。
大きさは違う、けれど重ねた手ふたつ同じ指。
「おじーちゃんも長いねっ、」
ちいさな笑顔ことこと明るんで、その瞳まっすぐ自分を映す。
澄んだ黒い瞳どうしても懐かしくて、もう逢えない面影に笑いかけた。
「おまえの父さんも指が長かったよ、」
「そうなの?」
問いかけてくれる声が透る、ほら?懐かしい。
もう逢えなくて、けれど新たな命が手をつないだ。
「もっと教えてよ?おじーちゃん、バイオリンも、ねっ、」
ほら懐かしい言葉が笑ってくれる。
呼んでくれる名前は変わって、けれど懐かしい眼ざし自分を映す。
『もっと教えて父さん、ここのフィンガリングどうしたらいい?』
黄金きらめく秋の窓、真直ぐな瞳が問いかける。
あの時間また訪れるなんて思えなかった、けれど今、旋律ひそやかに生まれゆく。
【引用詩文:William Wordsworth「The Prelude Books XI,257-388 [Spots of Time]」より抜粋】
楓:カエデ、花言葉「美しい変化、調和、大切な思い出、約束、保存、自制、隠棲、非凡な才能」
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May teach you more of man,
第86話 建巳 act.16 another,side story「陽はまた昇る」
ホント浮かれてたな、なんて普通は失礼だ。
けれど率直まっすぐ言ってしまう声は低く、けれど朗々響く。
「周太くんの言うとおりだと俺も思うぞ、大学院の受験生を引きこんじゃマズイだろ?青木が試験官する以上はなあ、」
雪焼けの笑顔ほころんで、細めてくれる瞳が鳶色きらめく。
ばたん、大きく閉じられた扉に研究室の主は苦笑した。
「田嶋先生、もうすこし優しく閉じてくださいよ?この研究室も古いんです、」
「あははっ、文学部のほうがもっとボロいぞ?」
低い声からり応えて悪びれない。
あいかわらずな文学者に周太は立ち上がった。
「田嶋先生、おはようございます、」
「おはようさん、周太くんも今日から青木の研究生か、」
低いくせ朗らかに響く声、けれど鳶色の瞳やわらかに笑ってくれる。
この笑顔にも父が生きた時間つい見つめて、ただ嬉しくて肯いた。
「はい、今日からお世話になります、」
「今日が周太くんの入学式みたいなもんだな、おめでとうさん、」
雪焼おおらかな笑顔ほころばせて、右手さしだしてくれる。
求めてくれる掌すなおに重ねて、握りしめた温もり大きい。
―大きい手だな、田嶋先生…すこし節くれて、
握手ふれる温もり自分の手を包む、大きくて武骨で温かい。
どこか父の掌と似ていて、それから深く渋く澄んだ匂い。
「できればウチの大学院に来てほしいがなあ、青木に騙されちゃいないかい?」
鳶色の瞳にやり、悪戯っ子に笑ってくれる。
こんな大人もいるんだな?可笑しくて笑った。
「ご心配いただいてすみません、でも青木先生は、騙せるほど器用な方ではないと信じています、」
「なるほど、たしかにそうだ?騙されるタイプだよなあ、」
ぽん、握手の手ひとつ敲いて笑いだす。
この手に父のザイルは繋がれていた、その笑顔が言ってくれた。
「でもなあ、奥多摩がフィールドなら本当は周太くんも行きたかったろ?」
ほら、訊いてくれる。
「はい、奥多摩は行きたいです。でも今は大学院受験があるので、」
応えながら鼓動ふかく、そっと敲かれる。
あの奥多摩だから。
『おいで周、大きな木を見せてあげるよ?』
ほら父が笑ってくれる、奥多摩の森で。
あの森に自分は森林学を志した、あの遠い幼い時間が愛おしい。
それから、もうひとりの眼差し。
『周太、このブナ大きいだろ?』
あのひとだけ見つめていた、何も知らない幸せな時間。
あの時間もう戻らない、もう知ってしまった、それでも後悔なんてない。
そうして今、ここにいるから。
「なあ青木?その研究プロジェクト去年からのヤツだよな、来年も継続なんだろ?」
ほら、訊いてくれる。
この自分の可能性のために。
―僕がやりたいこと本当に理解してくれているんだ、田嶋先生、
文学者と森林学、分野は違う。
それでも同じ想い見つめる真ん中、准教授も頷いてくれた。
「はい、来年こそ加わってもらえたらと。そのためにも湯原君、大学院こちらに来てくださいね?」
来年もある。
そう学者二人が言ってくれる、この幸せに微笑んだ。
「ありがとうございます、精一杯にがんばります、」
頭さげた視界、レザーソールの爪先あわく陽が光る。
こんなふう自分の足を昨日も見つめた、けれど今こんなに温かい。
同じ靴でも違う場所、時間、そうして立つ学舎の窓で文学部の教授が言った。
「おい青木、俺にも誘う権利はあるぞ?」
権利、そんな言葉で植物学者に笑いかける。
どういう意味だろう?見つめるテーブル、准教授は微笑んだ。
「誘う権利って田嶋先生、湯原君を引き抜きにいらしたんですか?」
「他に何があるんだ?」
低い声にやり笑って、ネクタイゆるめた衿もと無精ひげ撫でる。
そんな山ヤの文学者に、山ヤの植物学者は困ったよう微笑んだ。
「湯原君は森林学専攻の大学院を受験してくれるそうです、いくら田嶋先輩でも譲れませんよ?」
銀縁眼鏡の瞳おだやかに困ったように笑って、そのくせ「先輩でも譲れません」と断言する。
やっぱり気は弱くないんだな?あらためて見つめる恩師に、父の旧友が言った。
「そりゃ周太くんの自由だろ、俺も青木も決めれることじゃねえだろが?先輩後輩もねえよ、」
「そのとおりです、でも湯原君を誘いにいらしたんすよね?無茶なことはダメですよ、」
淡々おだやかに問いかけながら、准教授は山の先輩を見あげる。
こんなふう遠慮ない後輩の前、仏文科の教授は周太に向きなおった。
「公的研究資金での研究プロジェクトがあるんだ、その研究員に湯原周太君を迎えたい、」
ごとり椅子ひいて、周太の隣に腰おろしてくれる。
その雪焼あざやかな手が書類一通さしだした。
「フランス語の能力はもちろん、日仏両方の文学を知る人材がほしいんだ、」
示される書面、研究課題が自分を見つめてくる。
白い文面つづられて、その一項目に唇うごいた。
「パリ第3大学…パリ高等師範学校、」
パリ第3大学 ソルボンヌ・ヌーヴェル Sorbonne Nouvelle Paris III University
パリ高等師範学校 École normale supérieureエコール・ノルマル・シュペリウール 略称 ENS
ふたつ記された校名そっと鼓動ノックする。
どちらにも記憶なぞられる「経歴」その愛弟子が言った。
「うん、どっちにも随行もお願いしたいんだ。頼まれてくれんかい?湯原くん、」
名字で呼んで、祖父の愛弟子が自分を見つめる。
その鳶色の瞳まっすぐ澄んで、確信ことん、頷いた。
「詳しいお話をうかがわせてください、」
「もちろんだ、」
ごとん、
椅子ひいて立ち上がって、鳶色の瞳が笑った。
「ウチの研究室で資料見ながら話そう、今日はもう青木からは特にないだろ?」
「はい、まだ春休みですから、」
4月1日、まだ講義は始まっていない。
それでも申し訳なくて、周太は森林学者へ頭さげた。
「すみません、青木先生、」
「謝る必要ないよ、湯原君は遠慮なく自由にしていいんだ。また講義じゃない時でも、いつでもおいで?」
銀縁眼鏡の底、おだやかな実直が笑ってくれる。
その瞳ひとつ瞬いて、可笑しそうに言った。
「今日このあともね、田嶋先生に無理難題されたら遠慮なくおいで?田嶋先輩の弱点を教えてあげますよ、」
いつも穏やかな森林学者、けれど今は悪戯っぽく若々しい。
こんな貌もあるんだな?意外で、それも嬉しくて笑った。
「はい、ぜひ教えてください、」
「ぜひ教えますよ、いつでも訊いてくださいね?一緒に闘いましょう、」
銀縁眼鏡にっこり笑って、右手さしだしてくれる。
すなおに握手して、節くれた手の温もりに文学者が言った。
「そんなの俺が教えるよ、行こう周太くん、」
さあ行こう?誘ってれる瞳が鳶色に明るい。
この眼ざしに父も笑っていた、祖父も笑ったろう。
そうして自分も今、ここから。
※校正中
(to be continued)
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第86話 建巳 act.16 another,side story「陽はまた昇る」
ホント浮かれてたな、なんて普通は失礼だ。
けれど率直まっすぐ言ってしまう声は低く、けれど朗々響く。
「周太くんの言うとおりだと俺も思うぞ、大学院の受験生を引きこんじゃマズイだろ?青木が試験官する以上はなあ、」
雪焼けの笑顔ほころんで、細めてくれる瞳が鳶色きらめく。
ばたん、大きく閉じられた扉に研究室の主は苦笑した。
「田嶋先生、もうすこし優しく閉じてくださいよ?この研究室も古いんです、」
「あははっ、文学部のほうがもっとボロいぞ?」
低い声からり応えて悪びれない。
あいかわらずな文学者に周太は立ち上がった。
「田嶋先生、おはようございます、」
「おはようさん、周太くんも今日から青木の研究生か、」
低いくせ朗らかに響く声、けれど鳶色の瞳やわらかに笑ってくれる。
この笑顔にも父が生きた時間つい見つめて、ただ嬉しくて肯いた。
「はい、今日からお世話になります、」
「今日が周太くんの入学式みたいなもんだな、おめでとうさん、」
雪焼おおらかな笑顔ほころばせて、右手さしだしてくれる。
求めてくれる掌すなおに重ねて、握りしめた温もり大きい。
―大きい手だな、田嶋先生…すこし節くれて、
握手ふれる温もり自分の手を包む、大きくて武骨で温かい。
どこか父の掌と似ていて、それから深く渋く澄んだ匂い。
「できればウチの大学院に来てほしいがなあ、青木に騙されちゃいないかい?」
鳶色の瞳にやり、悪戯っ子に笑ってくれる。
こんな大人もいるんだな?可笑しくて笑った。
「ご心配いただいてすみません、でも青木先生は、騙せるほど器用な方ではないと信じています、」
「なるほど、たしかにそうだ?騙されるタイプだよなあ、」
ぽん、握手の手ひとつ敲いて笑いだす。
この手に父のザイルは繋がれていた、その笑顔が言ってくれた。
「でもなあ、奥多摩がフィールドなら本当は周太くんも行きたかったろ?」
ほら、訊いてくれる。
「はい、奥多摩は行きたいです。でも今は大学院受験があるので、」
応えながら鼓動ふかく、そっと敲かれる。
あの奥多摩だから。
『おいで周、大きな木を見せてあげるよ?』
ほら父が笑ってくれる、奥多摩の森で。
あの森に自分は森林学を志した、あの遠い幼い時間が愛おしい。
それから、もうひとりの眼差し。
『周太、このブナ大きいだろ?』
あのひとだけ見つめていた、何も知らない幸せな時間。
あの時間もう戻らない、もう知ってしまった、それでも後悔なんてない。
そうして今、ここにいるから。
「なあ青木?その研究プロジェクト去年からのヤツだよな、来年も継続なんだろ?」
ほら、訊いてくれる。
この自分の可能性のために。
―僕がやりたいこと本当に理解してくれているんだ、田嶋先生、
文学者と森林学、分野は違う。
それでも同じ想い見つめる真ん中、准教授も頷いてくれた。
「はい、来年こそ加わってもらえたらと。そのためにも湯原君、大学院こちらに来てくださいね?」
来年もある。
そう学者二人が言ってくれる、この幸せに微笑んだ。
「ありがとうございます、精一杯にがんばります、」
頭さげた視界、レザーソールの爪先あわく陽が光る。
こんなふう自分の足を昨日も見つめた、けれど今こんなに温かい。
同じ靴でも違う場所、時間、そうして立つ学舎の窓で文学部の教授が言った。
「おい青木、俺にも誘う権利はあるぞ?」
権利、そんな言葉で植物学者に笑いかける。
どういう意味だろう?見つめるテーブル、准教授は微笑んだ。
「誘う権利って田嶋先生、湯原君を引き抜きにいらしたんですか?」
「他に何があるんだ?」
低い声にやり笑って、ネクタイゆるめた衿もと無精ひげ撫でる。
そんな山ヤの文学者に、山ヤの植物学者は困ったよう微笑んだ。
「湯原君は森林学専攻の大学院を受験してくれるそうです、いくら田嶋先輩でも譲れませんよ?」
銀縁眼鏡の瞳おだやかに困ったように笑って、そのくせ「先輩でも譲れません」と断言する。
やっぱり気は弱くないんだな?あらためて見つめる恩師に、父の旧友が言った。
「そりゃ周太くんの自由だろ、俺も青木も決めれることじゃねえだろが?先輩後輩もねえよ、」
「そのとおりです、でも湯原君を誘いにいらしたんすよね?無茶なことはダメですよ、」
淡々おだやかに問いかけながら、准教授は山の先輩を見あげる。
こんなふう遠慮ない後輩の前、仏文科の教授は周太に向きなおった。
「公的研究資金での研究プロジェクトがあるんだ、その研究員に湯原周太君を迎えたい、」
ごとり椅子ひいて、周太の隣に腰おろしてくれる。
その雪焼あざやかな手が書類一通さしだした。
「フランス語の能力はもちろん、日仏両方の文学を知る人材がほしいんだ、」
示される書面、研究課題が自分を見つめてくる。
白い文面つづられて、その一項目に唇うごいた。
「パリ第3大学…パリ高等師範学校、」
パリ第3大学 ソルボンヌ・ヌーヴェル Sorbonne Nouvelle Paris III University
パリ高等師範学校 École normale supérieureエコール・ノルマル・シュペリウール 略称 ENS
ふたつ記された校名そっと鼓動ノックする。
どちらにも記憶なぞられる「経歴」その愛弟子が言った。
「うん、どっちにも随行もお願いしたいんだ。頼まれてくれんかい?湯原くん、」
名字で呼んで、祖父の愛弟子が自分を見つめる。
その鳶色の瞳まっすぐ澄んで、確信ことん、頷いた。
「詳しいお話をうかがわせてください、」
「もちろんだ、」
ごとん、
椅子ひいて立ち上がって、鳶色の瞳が笑った。
「ウチの研究室で資料見ながら話そう、今日はもう青木からは特にないだろ?」
「はい、まだ春休みですから、」
4月1日、まだ講義は始まっていない。
それでも申し訳なくて、周太は森林学者へ頭さげた。
「すみません、青木先生、」
「謝る必要ないよ、湯原君は遠慮なく自由にしていいんだ。また講義じゃない時でも、いつでもおいで?」
銀縁眼鏡の底、おだやかな実直が笑ってくれる。
その瞳ひとつ瞬いて、可笑しそうに言った。
「今日このあともね、田嶋先生に無理難題されたら遠慮なくおいで?田嶋先輩の弱点を教えてあげますよ、」
いつも穏やかな森林学者、けれど今は悪戯っぽく若々しい。
こんな貌もあるんだな?意外で、それも嬉しくて笑った。
「はい、ぜひ教えてください、」
「ぜひ教えますよ、いつでも訊いてくださいね?一緒に闘いましょう、」
銀縁眼鏡にっこり笑って、右手さしだしてくれる。
すなおに握手して、節くれた手の温もりに文学者が言った。
「そんなの俺が教えるよ、行こう周太くん、」
さあ行こう?誘ってれる瞳が鳶色に明るい。
この眼ざしに父も笑っていた、祖父も笑ったろう。
そうして自分も今、ここから。
※校正中
(to be continued)
【引用詩文: William Wordsworth「The tables Turned」】
第86話 建巳act.15← →第86話 建巳act.17
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