今日はNHKの大河ドラマの「天・地・人」について、考えごとをしていました。
銚子市内のあるところで県銚の話をしなくてはなりませんので。大いに県銚を語ってみたいと思っていますから。
下記の文章はその書きかけ原稿なのですが、ちょっと紹介してみましょう。県銚を語る前段としての導入部分です。Titleは「上杉鷹山と学校経営」にしようと思っています。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
この一月からNHKで、上杉の智将 直江兼続(なおえかねつぐ)の生涯を描く大河ドラマ 「天・地・人」が始まります。
直江兼続は、米沢藩初代藩主上杉景勝を支えた智将です。関が原敗戦後、上杉家の米沢移封に伴い米沢城下を整備。現在の城下町米沢の基盤を築きました。
また、文武を兼ね備えた一流の知識人で、その深い教養と見識は豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されています。
その後江戸時代中期に上杉藩は戦国時代以来の家臣団をそのまま抱えたこともあり、リストラもしなかったこと、天候不順による飢饉等から極端な貧困にあえぎました。また、いろいろな騒動があって、困り果て、後に名君と言われる鷹山を招きます。
アメリカ大統領のケネディ氏が、日本人で最も尊敬する人物であるとし、また思想家の内村鑑三も代表的日本人としてその著書であげております。
鷹山の生き方は、このような逼塞した現代の世相の中で、まさに典型的なリーダーとしてのあり方に即するものだと思っています。
わたくしの茅屋にも、鷹山の米沢織で作られた肖像画を額にいれて飾っております。
また、鷹山の師細井平洲先生は江戸時代の大学者で、実学を重んじ、経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的としました。
明和元年14歳の上杉治憲(鷹山)の師として迎えられ、平洲は全力を注いで教育にあたりました。17歳で藩主になった鷹山は、平洲の教えを実行して、人づくりを通して農業や産業を振興し、貧窮を極めていた藩財政を一代で立て直し、名君とうたわれました。平洲と鷹山の終生かわらぬ師弟の交わりは、現在も米沢で語り継がれています。
平洲の教えは、幕末の吉田松陰、西郷隆盛らにも大きな影響を与えたといわれています。、また、内村鑑三は、代表的日本人の一人として上杉鷹山を取り上げるとともに、その師、平洲を当代最大の学者と紹介しています
特に岩波の日本思想大系にある「嚶鳴館遺草」は、人づくりの根本を説いたものとして有名であります。つまり人づくりは、菊作りのようにやってはならないと。
吉田松陰が「この書は『経世済民の流れ』であって、読めば読むほど必ず力量をます」と絶賛し、西郷隆盛に至っては「政治の道は、この一書に尽きる」とまで言い切ったほどの良書であります。
特に、教育者としての平洲を凄いと思うのは、一般大衆の中にみずから入って、わかる言葉で訓育したことです。
校長室にも、鷹山の「伝国の辞」の額を掲げてあります。わたくしにとってはこのお二人は一心同体なのです。つまり「おほやけ」と「私」の峻別。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
上記のようなことを考えていました。そして、中学校訪問もしなくちゃいけませんでしたので、ちょっと乱雑なままで出かけてしまいました。ほんとうはもっと長く書いてあります。最初の方の部分ですが、ここから県銚とわたくし、そして学校経営や運営のことを書いてあります。これだけではなんのことやら分かりませんですが。最後に「おほやけ」と「私」の峻別というところで打ち切っていますが、これを一番言いたいと思っています。
どこまでもわたくしの精神の糧となっている骨格の部分が上記の原稿内容なのです。鷹山の作った学校に学ばさせていただいたし、風土性も身についてしまっています。
繰り返し繰り返しこれからも登場してくるテーマなのだと思っています。風土と精神性というのは密接に結びついているということなのです。そういう風に仮定するならばです。
そしてどうやらわたくしの経験上、それはおそらく当たっているのではないかと思うからです。生徒募集上も、地域性というか、風土を無視してはならないと最近感じ始めてきていますし。いまごろ気が付いたのかと言われそうですが。
そんなことより、一番緊急性のあることは、今日から試験ですね、ということ。
ここは吉田松陰ばりに、下記のような励ましの言葉を贈りましょう。できるだけ優しく。
在校生諸君!
努めなされませ!
がんばりなされませ!
また明日。
銚子市内のあるところで県銚の話をしなくてはなりませんので。大いに県銚を語ってみたいと思っていますから。
下記の文章はその書きかけ原稿なのですが、ちょっと紹介してみましょう。県銚を語る前段としての導入部分です。Titleは「上杉鷹山と学校経営」にしようと思っています。
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この一月からNHKで、上杉の智将 直江兼続(なおえかねつぐ)の生涯を描く大河ドラマ 「天・地・人」が始まります。
直江兼続は、米沢藩初代藩主上杉景勝を支えた智将です。関が原敗戦後、上杉家の米沢移封に伴い米沢城下を整備。現在の城下町米沢の基盤を築きました。
また、文武を兼ね備えた一流の知識人で、その深い教養と見識は豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されています。
その後江戸時代中期に上杉藩は戦国時代以来の家臣団をそのまま抱えたこともあり、リストラもしなかったこと、天候不順による飢饉等から極端な貧困にあえぎました。また、いろいろな騒動があって、困り果て、後に名君と言われる鷹山を招きます。
アメリカ大統領のケネディ氏が、日本人で最も尊敬する人物であるとし、また思想家の内村鑑三も代表的日本人としてその著書であげております。
鷹山の生き方は、このような逼塞した現代の世相の中で、まさに典型的なリーダーとしてのあり方に即するものだと思っています。
わたくしの茅屋にも、鷹山の米沢織で作られた肖像画を額にいれて飾っております。
また、鷹山の師細井平洲先生は江戸時代の大学者で、実学を重んじ、経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的としました。
明和元年14歳の上杉治憲(鷹山)の師として迎えられ、平洲は全力を注いで教育にあたりました。17歳で藩主になった鷹山は、平洲の教えを実行して、人づくりを通して農業や産業を振興し、貧窮を極めていた藩財政を一代で立て直し、名君とうたわれました。平洲と鷹山の終生かわらぬ師弟の交わりは、現在も米沢で語り継がれています。
平洲の教えは、幕末の吉田松陰、西郷隆盛らにも大きな影響を与えたといわれています。、また、内村鑑三は、代表的日本人の一人として上杉鷹山を取り上げるとともに、その師、平洲を当代最大の学者と紹介しています
特に岩波の日本思想大系にある「嚶鳴館遺草」は、人づくりの根本を説いたものとして有名であります。つまり人づくりは、菊作りのようにやってはならないと。
吉田松陰が「この書は『経世済民の流れ』であって、読めば読むほど必ず力量をます」と絶賛し、西郷隆盛に至っては「政治の道は、この一書に尽きる」とまで言い切ったほどの良書であります。
特に、教育者としての平洲を凄いと思うのは、一般大衆の中にみずから入って、わかる言葉で訓育したことです。
校長室にも、鷹山の「伝国の辞」の額を掲げてあります。わたくしにとってはこのお二人は一心同体なのです。つまり「おほやけ」と「私」の峻別。
(続く)
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上記のようなことを考えていました。そして、中学校訪問もしなくちゃいけませんでしたので、ちょっと乱雑なままで出かけてしまいました。ほんとうはもっと長く書いてあります。最初の方の部分ですが、ここから県銚とわたくし、そして学校経営や運営のことを書いてあります。これだけではなんのことやら分かりませんですが。最後に「おほやけ」と「私」の峻別というところで打ち切っていますが、これを一番言いたいと思っています。
どこまでもわたくしの精神の糧となっている骨格の部分が上記の原稿内容なのです。鷹山の作った学校に学ばさせていただいたし、風土性も身についてしまっています。
繰り返し繰り返しこれからも登場してくるテーマなのだと思っています。風土と精神性というのは密接に結びついているということなのです。そういう風に仮定するならばです。
そしてどうやらわたくしの経験上、それはおそらく当たっているのではないかと思うからです。生徒募集上も、地域性というか、風土を無視してはならないと最近感じ始めてきていますし。いまごろ気が付いたのかと言われそうですが。
そんなことより、一番緊急性のあることは、今日から試験ですね、ということ。
ここは吉田松陰ばりに、下記のような励ましの言葉を贈りましょう。できるだけ優しく。
在校生諸君!
努めなされませ!
がんばりなされませ!
また明日。