と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

荀子を読む

2008年12月17日 21時06分34秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 知ったかぶりをして中国哲学を書いたりしたら、亡くなった親友のKに叱られそうです。都立九段高校の国語教師をやっていました。専門家でした。交通事故でした。

 青年時代にKと書籍万般にわたっていろいろな議論をしたものです。大学院まで出て将来を嘱望されていました。埼玉の高校に出張したときに、偶然彼も来ていて、懐かしく話をしたのが最後でした。なにか天の配慮でもあったのでしょうか。やつれていたので、奥様のこととか聞いてしまったのです。いろいろあったようでした。

 で、たった今、荀子のノートを眺めていたら「俗世間は学びの一等地」というわたくしのメモがあって、「荀子の根底は『人間は環境の産物である』」とか「環境の影響を素直に引き受けるところから出発する」などと書いてあったのです。

 これは試験も終わってのんびりしている在校生諸君にぜひとも書いておきたいと思ったらもういけません。

 こういうフットワークの軽さがいけないのでしょうね。

 手が悪いのかなとも思いますが。生徒のためにと思うと帰り時間まで10分しかないのに、やってしまうところが悪い点です。根っからの教員なんです。

 そして、もっとメモがありました。

 「己の敵はとらわれるこころにある」

 驥(き)は一日にして千里なるも、駑馬も十駕すればすなわち亦た之に及ぶ

 上記のような漢文です。荀子です。
 


 漢文は深いです。
 実に深い。

 これもまたわたくしの勉強としてここに書き残しておきたい部分です。わたくしのつたない全体は、こうしたじつにつまらない部分から構成されていますから、復習のつもりで書いてみたいと思っています。

 また明日!
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冷静にやりましょう

2008年12月17日 20時00分50秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 昨日二人の生徒に、武道のことをちょっと話をしました。ある先生に求められて。あたたかく励ましてあげました。神妙に聞いていましたので、実に愛おしくなってしまいましたが。
 
 そのときに宮本武蔵の話をしてあげました。熊本城に籠ってからの武蔵のことです。文化人としての武蔵のことです。文武のあり方という観点からの話です。

 剣の道でも一流であった武蔵は、文化の面でも一流でありました。
 そんな話をしたのです。

 冷静な人間であったのだろうと思っています。文化の追求力の面でも。そして、武道の面でも。武道人として、非常に分析力に優れた人間であったのだろうと。だから生涯負け知らずであったのだと思います。戦いの場で、冷静な判断をすることができるということが、武道の達人としての条件なのでありましょう。感情を表に出したり、興奮しているのでは永久に勝てません。

 巌流島での佐々木小次郎との戦いでも、なぜ木刀を使ったかというと、長剣の佐々木小次郎に対して、ちょっとだけ長い木刀にしたわけです。そして遅れていってのせりふ。「小次郎敗れたり!」と。これも分析力にすぐれているからできたことでしょう。

 もっとも、これは史実であったかどうかはわかりません。小説での話ですから悪しからず。

 それで、本論というか言いたいのは今日のことです。
 
 フットワークが軽いのはいいとしても、冷静な判断力で行動していかなくちゃなぁとしみじみ思ったしだいです。

 どうしても仕事を早く片付けていきたいという面がわたくしにはあって、その冷静という面を軽視して、瞬間に判断をしてしまいがちになります。また、周囲からもそれを求められる場面もしばしばあります。そういうときに、失敗しがちです。よく考えないで直感でやってはならないのです。

 くわばら、くわばらです。自戒が必要なのはわたくしの方でしょう。いついかなる時でも冷静に行動したいものです。瞬間湯沸かし器は誰でもできます。世間にはそういう人が多いのですが。



 明日の生徒会役員認証式で校長として挨拶をせよということですので、原稿を書いていました。そうしたら、リーダー論でマイケル・ユシームの「九つの判断」のメモがあって、神がかり的な独断専行、強行突破とか、強引とかをリーダーとして考えてはならないとあったわけです。新生徒会長にこのことを明日話をしますが、ともすると強力なリーダーシップの下という金科玉条で、間違った判断を迫られる場合も世の中には時々あるということです。リーダーが強力だと何もしないという人も中にはいらっしゃいますから。

 最悪の状態を防ぐということ、いろいろと知恵を出してもらうという奥深さを身につけたいものだと思います。これは普段からこころがけている部分です。県銚の先生方のような賢者に囲まれていると、普通の人間であるわたくしなど、どうしてこのようないい知恵がわいて出てくるのだろうと思うことがシバシバです。

 要するに唯我独尊に陥ってはならないということでしょう。

 本当にそう思います。

 そんなことを考えた一日でした。 
 

 
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/