と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

孔子先生

2009年01月22日 23時01分14秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 論語について、時々読むのですが、意味についてはなかなか難しいものです。

 学者ではありませんから、好き勝手にいろいろな先生の本を買っては読み散らしていたものです。

 昭和62年12月26日読了としてあるわたくしの読書ノートを、分厚いメタノートにテーマごとまとめながら手書きをしていました。

 そしたら、理想的人間像として、四人ほどあげてあって、周公、子産は有名にしても遽伯玉(きょはくぎょく:衛の大夫。呉の季札より君子と称されている。孔子が衛に立ち寄った時には、遽伯玉の家に滞在していた)という人物を取り上げている学者がおられて、その先生の行年五十にして四十九年の非を知る、六十にして六十化す、そういうような人物であったというような解説があったわけです。
 この人は六十にして新規まき直しができた人だ、と。

 凄いものです。
 たいていは自分のやってきたことに拘り、いっぱしの指導者にでもなったつもりでいるのが、普通の人間だと自覚しているからです。
 どんな組織にも老害といわれる部分もあって、自分が一番気がつかないわけです。
 自省の念を込めて書いていますが。

 人の豊かさは、面よりも肩に現れる。肩肘を張るのは小人のやること。
 こんなノートへの書き込みも気になりました。
 どうしてもどうしても肩肘を張って生きてしまいがちです。
 実力も無いのに。
 (わたくしのことですよ)

 「ゆうゆうとしておる閑を作れ」ともノートにある。
 あれもこれもと多忙なのを自慢して、どうだい俺はこんなに忙しいんだとスケジュールを見せてくれた友人がいましたが、そんなことを自慢して何になるのだろうと思っておりましたら、今から20年以上前にノートにとってあったのですね。
 「君子多能を恥づ」とも論語にはありますから。

 いつ読んでも論語は新たな発見を与えてくれます。

 祖父から素読を授けられてから、もう五十数年。
 嫌で嫌でしょうもなかったのですが、なんとかここまで育つことができたのも祖父の愛情だったのでしょう。

 こういう読書は、一気に速読してはなりませぬ。

 じわじわと
 じわじわと
 熟読すべきです。

 わたくしは毎日寝る前にちょとだけ読みます。
 3頁と決めてあります。

 ところが、昨日、面白くてとうとう50頁になり、なかなか寝付けなくて困ってしまいました。

 年齢相応の行動もまた大切だということです。
 
 また明日。
コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

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高齢\(^_^)/