と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

始業式から感じたこと

2010年01月07日 18時28分03秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 始業式では、今朝アップしたレジメのような話をいたしました。まるで始業式の解説になってしまうなぁという思いを抱きつつ、以下に書かせていただきます。

 わたくしは、レジメはレジメで、実際の話ではいろいろな肉付けをいたします。

 今日は、最初に三学年生徒のこの冬休み中の勉強ぶりを讃え、先生方に学ぶことがどういうことなのかということから導入を図りました。徹底的に先生方に学ぶことです。なんでも吸収させていただくことです。それが師匠と弟子の関係でもあります。これは言わなかったのですが、三味線の高橋竹山という師匠は、弟子たちが、ドレミで教えてくれと言ったということで、金さえ払えばなんでもありという風潮を嘆いておられました。然りであります。拝金主義ではお話になりませぬ。

 それから徒然草150段。学問も、武道(スポーツ)も、芸事(習い事)もすべて、内緒にこそこそとやらずに、宣言をしなさいと言いました。宣言すれば、やるしかないからです。目標を持って勉強なさいませ。

 文学者の梶井基次郎のことも話しました。病で苦しそうにしている梶井先生に、おかぁ様はたしなめるのです。梶井先生は、母親に褒められたくて亡くなるまで静かな病床生活を送られました。最期まで学習しているわけであります。亡くなり方の学習をです。梶井基次郎の母親のすばらしさということであります。本当は、ここから立ち居振る舞いまで、言おうとしましたが、それは時間がありませんので、中止しました。大岡昇平の「少年」という小説には、人間発達の典型が書いてあると紹介したかったのですが、それも出来ませんでした。

 二番目に、稽古のことでした。
 岩淵悦太郎先生の語源散策に「稽古の稽は考えることにあり」というノートの抜き書きを持っておりましたので、それを紹介しました。ここで、持論である知識と智慧は違うということを述べました。人間の持つ総合力である智慧はなかなかマスターすることは難しいが、知識は努力一つでできる。がんばりなさいませ、と繰り返し、繰り返しでありました。ちょっとしつこいかなと思いつつ。

 三番目に、これはレジメになかったのですが、国体のことであります。今年は国体の年ですから。

 終わりに、交通事故のこと。
 安全に、健康に、健やかに育ってほしいということでありました。心技体といいますが、基盤は体。健康第一ですよ、と。

 懐中時計を出して、時間も計りながらであります。そうです、腕時計を持っていないのです。嫌いなものですから。

 
 そして今日は課題テスト。
 午前中いっぱい。
 すぐ勉強に入れる。
 これが一番です。

 よいことはすぐやることです。
 時間がもったいない。

 隙間時間を見つけたら、すぐメモでもとることです。
 その積み重ねが知識となります。

 できれば、そういうメモをコンピュータに読み込ませて、データベースを作るとなおよろしいと思います。実に役に立ちます。コンピュータの、Accessというソフトの勉強にもなります。最近はPDFファイルというのが出てきて、本当に助かります。おかげで、文書、通知関係はすべて、わたくしのドキュメントスキャナからハードディスクに吸い込まれていきます。

 実践、実践、また実践。

 在校生諸君には、行動しかありませんぞ。

 勉強という名の実践、行動。

 あとはやる気満々で今年を乗り切りましょうね。
 健康で。

 
 また明日。
 

 
 
  
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稽古の能力(平成二十二年 三学期始業式)

2010年01月07日 07時50分56秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
    稽古の能力

 新年あけましておめでとうございます。
 本年もますます学校生活を有意義なものにされて、勉強に、部活動に、いろいろな委員会活動等に励みなさいませ。特に、この冬休みも毎日のように学校で自学自習に取り組まれていた生徒がいたことに、非常に感動しております。
 補講等で、先生方に教えていただいて、それをマスターしていくという熱意はたいしたものであります。最初は先生方を「模写」するしかないかもしれません。最初からなにもかもわかっている生徒はいませんから。この「模写」の能力は、「のみこみ」の能力と関係あると思います。真似ということではありません。自分の外側にある、つまり教えてくださる先生方の知識に、あるいは雰囲気に感染していくことであります。いい意味で、です。
 精神的にも身体的にも堅い人は、これができません。どこかに見栄があって、そんなことくらいできるという自己顕示欲がじゃまをして、誰にも知られないうちにあることをマスターして、周囲をあっと言わせようとする心理です。うまくなるまでは内緒ということです。たくさんいました。そういう人が。わたくしの高校生の時代にも。
 このことは兼好法師の時代にもあったようで、徒然草の百五十段に  
 「能をつかんとする人、『よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ』と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし」
と、書いてあります。
 まさに、「一芸も習ひ得ることなし」と強く断定しています。何一つ身につけることができないというわけです。これは非常に厳しい。芸事ばかりか、学問・スポーツでも同じことです。視点が相手にあるわけです。いつでも自分をかっこよく見せたがる人のことです。自分に視点がないから、精励できないことになってしまうのです。
 最初は、誰だってうまくできません。失敗の連続です。笑われ、ケチをつけられ、さんざん恥ずかしい思いをしながら、なお稽古に励む人だけが、成果を得ることができるのです。兼好法師もこの段の後ろで、やがて師と仰がれる境地にまでなると言っています。
 工夫の連続をしているということです。いろいろな方の手法を盗み、あちらを真似し、こちらに聞く。それが積もり積もって、知識となります。
 知識と智慧は異なります。智慧は人生を生きる力です。天性のものもありますでしょう。また、内省的な思索からしかそれは得ることができません。しかし、知識は努力一つでマスターできます。暗記とか、問題演習を繰り返すしかありません。ある程度の時間的束縛や、ノートへの筆写や、記憶への挑戦なくしてそれは可能にはなりません。なにもしないで、知識は身につくわけもありません。ですから、こちらは生涯学習にもなるわけです。老いてからも生涯学習をすることによって、成長するのだそうです。人間発達という学問領域からは。驚いたことに、死ぬ間際まで死に方の学習を通して、あくなき人間発達への挑戦を人間はしているのだそうです。
 それはともかく、若いあなたがたのこの時期には、稽古をしていくしかないようです。
 トレーニングと言ってもいいのですが、これはやはり稽古でなくてはなりません。わたくしの自分勝手な感覚では。稽古の稽は滑稽の稽でもありますが、「考える」という意味にもなります。ですから稽古は、いにしえの(古の)ことを考え学ぶことになるわけです。いにしえの学問には、あるいは武道には、芸事には型があります。それをまねぶことが、稽古になるのです。
 世の中を俊敏に生き、明るく、前向きに生きるためにも、稽古をする。する以外にないようです。
。それもひとつの能力だと思いますから。誰でもできるという意味での。
 今年がみなさんにとってよい年でありますことを祈念して、始業式の挨拶とさせていただきます。
(平成二十二年 三学期始業式レジュメ   外山日出男)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/