・西欧的幼児性と、アメリカ的幼児性とあって、だったら日本的な幼児性というのはなんであろうかと、ふと思った。ふと思ったというのだから、まったくふと・・である。突然である。前後の脈絡もなにもない。
・さらに言えば、大人になっても幼児性というものはある。時期的にそれがあらわれたりするのである。ガンガン仕事に集中できる時期というのは、こういう幼児性が発揮できている時期であるのかもしれない。認めてもらいたいというのは、誰にでもある欲望であろうから。
・幼児性という事例で一番面白いのは、我が千葉県にあるミッキーマウスのいる場所である。
・実は私はあそこが苦手なのである。理由は・・・と書くと営業妨害になるから、書かない。
・好きな人にとっては、本当に夢とファンタジーの場所であって、大人になっても好きな人と一緒に行くのが定番であるそうな。私はごめんこうむる。(^0^)/
・もっとも一緒に行ってくれと言っても誰にも相手にされないだろうから、言わない。あ、孫なら一緒に行ってくれるかもしれないが。ただし、料金は全部爺である私が払うことが最低条件であろう。孫となら行ってもいいか・・・
・一人だったら、(二人でも)別に行きたくもないのだけれども。好きとか、嫌いだとかいうのではない。いつまでも子供のように、夢を追いかけていないで、しっかりしろと説教をたれるつもりもない。
・深層心理の中に、アメリカ的グローバル経済の中に飲み込まれている自分を(国家を)、嫌でも確認させられるのがぶるぶる震えるほど嫌なのである。
・大阪にある似たような施設にも前の職場の修学旅行で何度も行った。あそこも、同様である。いたたまれない。しかも、大規模である。退屈で、しかたなかった。どちらも。
・銀河鉄道の・・・という宮澤賢治の作品も、また夢とファンタジーにあふれている。しかし、あれは、死者の書である。宇宙を旅しているスリーナインという汽車は、多くの死者と共に宇宙をさまよっている。不気味な作品である。賢治の宗教が露骨にあらわれている。あまり言われないが、賢治は全体主義者の田中智学に私淑していたことからもわかるように、決してファンタジーオンリーの作品ばかり書いていたわけでない。死と生をしっかりと見つめていた作家でもある。
・だから夢とファンタジーの世界は、ある種の「物語」を構成し、われわれに語りかけてくることによって、なんらかの縛りをかけてきていると思う。なんの批判精神もなく、そのまま受け取って、やぁやぁ良かったと喜んでばかりもいられないと考えているのである。
・「物語」というのは、単一ではない筈である。人それぞれに物語りがあってしかるべきであり、複数あるのが当然なのである。
・だから大規模な物語を見せられると、私は吐き気がするのである。そして、もっと注目すべきことがある。物語とは、他人になりすますことができるのである。作家がそうではないか。いろいろな仮面をつけて、それこそ体験したこともないことを物語にして語ることができるのである。
・職業もそうであろう。なりすましができるのである。社長は社長なりになりすまし、社長の物語を構成することができるのである。それが、見方を変えればリーダーシップと言われ、成功すれば賞賛され、失敗すれば責任をとらされて永久追放を受ける。
・大人になるということは、その物語性をいかに自分なりに構築できるかということであろう。だから、生きる力が必要なのである。学歴ではないかもしれないが、しかし、勉強に絶対的な時間を割いて勉強しなかったモノには、こういう生きる力は訪れてこないであろう。(ボクにも来なかったケド・・・トホホ)
・物語を構築できるということは、世界にたった一人のすばらしい可能性を持った人間であるという自覚からは生まれない。あの流行歌のオンリーワン・・・・の世界である。世界は矛盾と比較に充ち満ちている。いつも誰かに比較されている。それが現実である。どうしたって、いろいろな人に踏みつけられ、バカにされ、つばを吐きかけられたり、引き下げの攻撃を受け、可能性を踏みにじられてみて、初めて人間の裏がわかるわけである。そこまでいかないと物語は語れない。
・だったらそういう体験を使って、自分なりの物語を作っていけばいいのである。
・後は時間をたくさん使って、実現のために努力すればいいだけの話である。その物語は、良い意味で、自分だけのオンリーワンの世界であるからである。
・夢の実現のためと言い換えてもいい。夢とは、物語を作ることでもあるからである。だったら、最初に申し上げた「幼児性」とどう違うんだい?と言われる方がいるかもしれない。
・ちょっと違うんです。それは物語は、自分なりに計算ができないと、作ること自体が難しくなるからであります。それだけです。それだけ。