と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

別れはセオリーである

2012年05月11日 14時23分49秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・セオリーということを最近はよく考える。なぜか?

・能楽の鑑賞法というものがあるかということを考えていたからである。人それぞれでいいはずである。

・能楽に決まり切った鑑賞法があったら、こいつはおもしろくもなんともない。ただし、自己流では間違った見方をしている可能性がある。それは謙虚に他者に学ぶしかない。

・思想書にも同じことが言えると思う。思想から、定石を学ぶことによって、我々はものの考え方を個性的にすることができるのである。

・それには徹底した時間の流れがなくてはならない。自分で読むことを忌避していては、話にならないのである。

・絶対量が不足しては駄目なのである。

・そのことは受験勉強にも言えることである。もっとも、他者に説教たれるほど勉強したわけではないからこのあたりで止めとくが。

 

・昨日あたりで完全に送別会モードから離脱した。ありがたいものであった。人それぞれに私の退職を祝ってくださった。本当にありがとうございました。

・人は別れねばならない時が必ずある。最終は「死」である。必ず死ぬのである。残念ながら。ガンで死ぬか、事故で死ぬかそれは誰も知らない。あたりまえである。しかしだ、死の瞬間が誰もわからないということであって、死ぬということの絶対的事実はかわらないのである。ここに気がついていないと、くだらないことで生涯を棒にふることになるのである。

・だから「別れ」を「祝う」という儀式によって、ヒトという動物は別れを忘れようとしていると思うのである。葬式は誰しも悲しい。別れであるからである。しかし、それはまた儀式でもある。生き残った人々に、決意を迫るものでもある。別れてしまったのだから、生き残りを賭けて生き延びよということでもある。

・このことをセオリーというのである。そう私は解釈しようとしている。正しいかどうかはわからない。しかし、それでもって私は「生き延びて」きたのである。生きてこれたのである。多くの悲しい別れを経験してきたが、何とか耐えてくることができたのである。確かにつらい。それは認める。

・たとえば、能の「百萬」は、女物狂の物語である。かわいい我が子を失ったという悲しみに耐える、あるいは耐えようにも耐えられない一人の母親の悲哀である。ところが、我が子は生存していたのである。

・そのあたりの描写がたまらないほどいい。女性の苦しい心境が、能面から伝わってくるのだ。たとえば私の長女が同じ目にあったらどうなるのだと思う。3月に孫を産んでくれたが、そして現在子育て真っ最中であるが、もし百萬のシテと同じ目にあったら、尋常ではなくなるであろう。

・それを忘れるようにということはたやすい。しかし、人間の煩悩はスパっと割り切れるものではない。

・だからそこに儀式が必要なのである。儀式とは本来そういうものであろう。百萬のシテはその儀式もなにも無く、ひたすら悲しみに浸っていた。結末では救われるのであるが、そこを仏恩という形で決着をつけている。見事なものである。

・卒業式も同じであろう。別れを祝うのである。残された者が生き延びるためにである。学校を卒業したら、殆どの者は、母校を用事がなければ思い出すこともないのではないか。

・そんなものであろう。

・そしてそれでいいのである。相互に生き延びるために必要だからである。また新しい人生に雄飛していけばいいのである。

・拘ることはないというのはまさにこれである。ただし、必要以上にという限定条件つきである。拘らないというポリシーのもとに、あらゆる人間関係に拘らず、そんなのかんけぇねぇってばかり言っていてはならない。そういう人間はある種のニヒリストである。危険である。人間関係を爆破するようなものであるからだ。

・かくいう私がそういう危険性を持っているから、あえて書いているのだ。リセットが好きなのである。だから戒めとしているのである。簡単にリセットしちゃぁいかんでっせと。

 

・今日は、M教授の演習である。講義をいただきながら、中国の大学の先生がたと厳しくも楽しい時間をすごさせていただいた。遠藤周作と大連の関係についてのお話はたいへんためになった。これでも、遠藤周作さんについては、相当読み込んできたからである。学部時代の卒論は、まさに現代文学であったからである。

・学部卒論など、できが悪くて思い出すのも恥ずかしくてたまらん。しかし、これはこれで生きるためのあるいは新聞奨学生として学ぶしかなかったいろいろな苦しみ、悩みからの解放を願って書いていた卒論であったから、私にとっては記念碑的な存在である。

・この基盤があったから、ずっと生涯学習をやってこられたのだろう。それが、私の「セオリー」であったのだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/